はじめに
戦国時代、強力な大名が次々と領土を拡大していく中で、特定の支配者を持たずに独自の自治体制を築いた地域がありました。それが伊賀国です。山々に囲まれた盆地で、地元の武士たちが合議制による共同統治を実現し、あの織田信長の侵攻さえも一度は撃退した伊賀惣国一揆。その驚くべき組織力と、最終的な悲劇的結末は、日本史の中でも特異な輝きを放っています。忍者の里として知られる伊賀の背景には、このような壮大な歴史がありました。
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目次
- 地理が生んだ独立性
- 惣国一揆の仕組みと掟書
- 第一次天正伊賀の乱:信雄軍の敗北
- 第二次天正伊賀の乱:惣国の終焉
- 伊賀者のその後
- おわりに
1. 地理が生んだ独立性
伊賀国の地理的特徴である山に囲まれた盆地を認識した。
地理的条件について記述します。3つの記事すべてで、伊賀国が山に囲まれた盆地であることが強調されています。
伊賀国は現在の三重県北西部に位置し、周囲を鈴鹿山系、大和高原、布引山系などに囲まれた盆地です。京都まで約50km、奈良とは山一つ隔てた距離にありながら、険しい峠道を通らなければ出入りできない地形でした。
この地理的特性は、伊賀の独立性を育む重要な要因となりました。外部からの大規模な軍事侵攻が物理的に困難であり、中央権力の直接支配が及びにくい環境が生まれたのです。市域の約60%が森林に覆われ、日較差の大きい気候は稲作に不向きでしたが、それが逆に地元武士たちの傭兵業への発展を促しました。
室町時代、名目上の守護職である仁木氏は実効支配力を持たず、15世紀中葉には完全に力を失います。16世紀中葉には国人らに館を襲撃され信楽へ逃亡し、以降、単一の戦国大名が成立することはありませんでした。
2. 惣国一揆の仕組みと掟書
守護権力の空白期に、地元の武士層である地侍たちは独自の統治体制を築きました。それが「伊賀惣国一揆」です。
合議制による統治
伊賀惣国一揆の最大の特徴は、特定の支配者を置かない合議制でした。日常政務を担う10人の奉行と、重要事項を協議する評定衆によって運営されました。評定衆の人数については12名説と66名説がありますが、いずれにしても多数の国人領主による合議で政治が行われていたことは確実です。
評定の場所は主に伊賀上野の平楽寺で、無量寿福寺や大光寺も使用されました。すべての事項を話し合いで決定する「諸事談合」の原則に基づき、多数決も用いられていました。
掟書の内容
伊賀惣国一揆の組織原理を示す唯一の一次史料が、神宮文庫所蔵の「惣国一揆掟之事」です。この掟書は全11ヶ条からなり、制定時期は1552年から1569年の間と推定されています。
掟書の主な内容は以下の通りです:
第1条:団結の原則 – 他国からの侵入には惣国全体が一致団結して防戦する 第2条:迅速な動員 – 侵入の注進があれば村々の鐘を鳴らし直ちに出陣 第3条:兵役義務 – 17歳から50歳までの男子に出陣義務があり、長期戦では番編成で交代 第4条:指揮系統 – 各地で武者大将を指定し、その指揮に従う 第7条:身分上昇 – 忠節の百姓は侍に取り立てる 第8条:裏切り者への制裁 – 他国勢力を引き入れた者は討伐し所領を没収 第11条:広域連携 – 隣接する甲賀郡中惣と連携し、国境で合同会議を開く
この掟書は単なる理想論ではなく、実践的な軍事マニュアルでした。忠誠心を示した百姓を侍身分へ昇格させる規定は、戦力確保と内部結束の両立を図る巧妙な仕組みだったのです。
甲賀郡中惣との連携
伊賀の独自性をさらに際立たせるのが、近江国甲賀郡中惣との緊密な連携です。掟書第11条で明記されているように、両惣国は国境で「野寄合」と呼ばれる合同会議を定期的に開催しました。甲賀も類似の執行体制を持ち、天正元年(1573年)12月7日の史料には両惣国の連携が明確に記録されています。
3. 第一次天正伊賀の乱:信雄軍の敗北
16世紀後半、織田信長の勢力拡大により、伊賀は織田勢力と直接隣接することになりました。
1578年、信長の次男・織田信雄は、伊賀の郷士・下山平兵衛の手引きを受けて丸山城の修築を開始します。しかし伊賀衆はこれを察知し、完成前に総攻撃をかけて破壊しました。
1579年9月16日、信長に無断で、信雄は約8,000〜11,000の兵を率いて本格侵攻を開始します。阿波口に信雄自身が8,000、布引口に柘植保重ら1,500、伊勢地口に1,300を配置しました。
これに対し、伊賀衆は百田藤兵衛と福喜多将監を総大将として迎え撃ちます。掟書の規定に従い村々の鐘を鳴らして招集をかけ、地形を活かした夜襲と奇襲戦法で徹底抗戦しました。入り組んだ谷と険しい山道を利用したゲリラ戦術により、わずか2〜3日で織田軍は多くの兵を失い撤退を余儀なくされました。
この敗報を聞いた信長は激怒し、『信長公記』によれば「言語道断」と信雄を厳しく叱責し、「親子の縁を切る」とまで書状に記しました。第一次天正伊賀の乱は、伊賀惣国一揆の勝利に終わったのです。
4. 第二次天正伊賀の乱:惣国の終焉
第一次侵攻の失敗から2年後、1581年9月3日、信長は本格的な伊賀制圧に乗り出します。これは単なる報復ではなく、伊賀という独立勢力を根絶やしにするための計画的な殲滅戦でした。
信長は織田信雄を総大将に据え、丹羽長秀、滝川一益、蒲生氏郷、筒井順慶といった歴戦の武将を動員し、総勢44,000〜50,000(一説には十数万)の大軍を編成しました。戦略は6方向からの同時攻撃という徹底したものでした:
- 伊勢地口:織田信雄、津田信澄ら約10,000
- 柘植口:丹羽長秀、滝川一益ら約12,000
- 玉滝口:蒲生氏郷、脇坂安治ら約7,000
- 笠間口:筒井順慶ら約3,700
- 初瀬口:浅野長政ら
- 多羅尾口:堀秀政、多羅尾弘光ら約2,300
伊賀側の防衛兵力は約9,000〜10,000と推定されます。圧倒的な兵力差に加え、甲賀の多羅尾光俊が織田方に協力し、伊賀からも福地宗隆・耳須弥次郎が内応するという裏切りがありました。
それでも伊賀衆は激しく抵抗します。比自山城では3,500人が籠城し、福喜多将監の指揮のもと丹羽長秀らの攻撃を何度も撃退しました。平楽寺では1,500人が籠城し、夜襲により筒井順慶隊に1,000の損害を与える戦果を上げました。
しかし9月11日(『信長公記』)または9月17日(『多聞院日記』)までに、伊賀国のほぼ全域が制圧されました。村や寺院は焼き払われ、伊賀国一之宮の敢国神社をはじめとする寺社仏閣も組織的に破壊されました。『多聞院日記』には「国中大焼ケブリ見」「五百年も乱行われざる国なり」と記され、その凄惨さを伝えています。
伊賀全体の人口約9万人のうち、非戦闘員を含む約3万余が殺害されたとされます。10月9日、信長自身が伊賀国を視察に訪れ、領地配分を実施しました。こうして約200年にわたる地侍による自治体制は完全に終焉を迎えたのです。
5. 伊賀者のその後
惣国一揆の崩壊後、生き残った伊賀の武士や足軽の一部は諸国を転戦し、その特殊な戦闘技術や情報収集能力を買われて豊臣・徳川政権に召し抱えられました。特に徳川家康の情報活動を支えたとされる伊賀者の存在は、惣国時代に培われた移動・通信技術や山地での戦闘経験に由来します。
伊賀が「忍者の里」として語られる背景には、この自治共同体が築いた情報網と、地の利を活かした戦術がありました。惣国時代の伊賀では、600以上の城館跡が点在し、烽火や鐘による連絡網が整備されていました。平時には農業や商売を営みながら、午後には戦技や謀術を練習する生活リズムが、後の「忍者」イメージの土台となったのです。
6. おわりに
伊賀惣国一揆は、戦国時代という群雄割拠の時代に、地域社会が独自の自治体制を築き上げた稀有な事例です。山々に囲まれた地理的優位性と、成文法に基づく合議制統治により、特定の強力な支配者なしに地域の独立を長期間維持することに成功しました。
しかし織田信長という巨大な中央権力の前には、その分権的な体制は限界を露呈します。第一次侵攻では地の利を活かして勝利したものの、第二次侵攻の圧倒的な物量作戦には対抗できませんでした。
伊賀惣国一揆が歴史に残した遺産は二重です。一つは、中央集権化の波に呑まれて途絶えた「もう一つのあり得た道」を示す政治実験として。もう一つは、その壮絶な抵抗と滅亡の記憶が、後世の「忍者」という文化的アイコンを生み出す源泉となったことです。
独立と自治を貫いた地侍たちの歴史は、悲劇的な結末を経て、日本文化を象徴する不滅の伝説へと昇華されました。伊賀の地を訪れる際には、この壮大な歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
参考文献
一次資料
- 「惣国一揆掟之事(山中文書)」神宮文庫所蔵、年未詳11月16日付(推定1552-1569年)
- 太田牛一『信長公記』16世紀末〜17世紀初頭成立
- 『多聞院日記』英俊ほか、1478-1618年
公的資料
- 伊賀市『伊賀市史 第1巻 通史編(古代・中世)』2011年3月
- 三重県『三重県史 資料編 中世1-3、通史編 中世』2018年3月
- 伊賀市『伊賀市歴史環境保全計画(中世城館調査報告)』2008年
二次資料
- 和田裕弘『天正伊賀の乱-信長を本気にさせた伊賀衆の意地』中央公論新社、2021年
- 山田雄司『忍者の歴史』2016年
- 藤田達生「伊賀者・甲賀者考」『忍者研究』第1号、2018年
- 呉座勇一「伊賀・甲賀の一揆について」三重大学伊賀連携フィールド講座、2018年

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