戦国武将・佐々成政の決死の「さらさら越え」:厳冬の北アルプスを越えた壮絶な物語

目次

はじめに

1584年の冬、一人の武将が不可能に挑みました。
真冬の北アルプスを越えるという、現代の登山家でさえ躊躇する決断です。
佐々成政という名の戦国武将は、わずかな家臣とともに雪深い山々に分け入り、徳川家康に会うため命がけの旅に出ました。
この「さらさら越え」と呼ばれる行動は、リーダーの強い意志が周囲を動かす力を持つ一方で、その情熱の向かう先が誤っていれば悲劇を招くという、歴史の教訓を私たちに伝えています。


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戦国武将・佐々成政の「さらさら越え」:狂気と忠誠の北アルプス越え|hiro はじめに 真冬の北アルプス。 標高2,500メートル級の峻険な山々を、現代の装備もなく徒歩で越える―。 そんな常軌を逸した挑戦を、今から440年以上前に実行した戦国武将がい...

目次

  1. 矛盾点・数値の相違の確認
  2. さらさら越えとは何か
  3. 佐々成政を追い詰めた政治状況
  4. 決死の決断:なぜ冬山を越えたのか
  5. 謎に包まれた実行過程
  6. 失敗と最期
  7. 歴史が残した教訓

さらさら越えとは何か

「さらさら越え」とは、天正12年(1584年)の冬、越中国(現在の富山県)の城主だった佐々成政が、厳冬期の北アルプス・立山連峰を踏破して遠江国浜松(現在の静岡県浜松市)まで到達した出来事を指します。

この名称の由来は、立山のザラ峠の「ザラザラ」とした砂礫の道筋から来ているという説が有力です。
当時、真冬の北アルプス越えは常識では考えられない行動でした。
現代の登山装備を持ってしても極めて危険な環境を、戦国時代の簡素な装備で踏破したのです。

佐々成政を追い詰めた政治状況

1582年の本能寺の変で織田信長が死去すると、家臣たちの間で激しい権力争いが始まりました。
その中で頭角を現したのが羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)です。

佐々成政は信長の精鋭部隊「黒母衣衆」の筆頭を務めた歴戦の武将であり、越中一国を任されていました。
しかし、1583年の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が敗れると、成政は秀吉に従わざるを得なくなります。

1584年、徳川家康と織田信雄が秀吉に対して挙兵すると(小牧・長久手の戦い)、成政も反秀吉勢力として戦いに参加しました。
しかし、同年11月、信雄が単独で秀吉と和睦し、家康も停戦してしまいます。
この瞬間、成政は完全に孤立しました。

越中は西に前田利家、東に上杉景勝という秀吉方の勢力に挟まれ、南も秀吉の勢力圏という八方塞がりの状況でした。通常の陸路では外部との連絡は不可能だったのです。

決死の決断:なぜ冬山を越えたのか

成政には、家康を再び戦場に引き戻すことだけが唯一の活路でした。
しかし、手紙や使者では家康の心は動かせないと考えた成政は、自らの命を賭した行動で覚悟を示すことにしたのです。

敵に包囲された越中から浜松へ行くには、人跡未踏の厳冬期北アルプスを越える以外に方法がありませんでした。
これは事実上の自殺行為に等しい決断です。
しかし、成政は、この「不可能」への挑戦こそが、家康の心を動かす唯一の手段だと信じました。

一説によれば、成政は前年の1583年8月20日に立山権現に岩倉300石・寺田150石(計450石)を寄進し、有事の際の峠越えルート確保に備えていたとされています。

謎に包まれた実行過程

成政が北アルプス越えを実行したこと自体は、徳川家康の家臣・松平家忠の日記『家忠日記』に記録されており、史実として確認されています。
しかし、具体的なルート、随行者の詳細、装備などについては、確実な一次史料が乏しく、多くの謎が残されています。

ルートの論争

現在、主に3つのルート説が提唱されています。

  1. 立山連峰・針ノ木峠ルート:最も劇的で標高約2,536mの針ノ木峠を越える伝説的ルート。江戸時代の軍記物に描かれたが、現代の登山専門家は「物理的に不可能」と指摘しています。
  2. 飛騨経由・安房峠ルート:標高約1,790mと比較的低く、近年の研究で最も有力視されている現実的なルートです。
  3. 越後・糸魚川経由ルート:日本海沿岸を迂回して山岳地帯を避けるルート。村上義長という人物の協力があったとする説に基づいています。

随行者の謎

随行者の人数については史料によって大きく異なり、「6名」「18名」「30名」「100名」と様々な数字が伝えられています。
唯一名前が挙がるのは村上義長という人物ですが、その役割も「案内人」「仲介者」など定まっていません。

重要な役割を果たしたと考えられるのが、立山信仰の拠点・芦峅寺の「中語(ちゅうご)」と呼ばれる山岳ガイドです。彼らは冬山の危険を熟知した専門家であり、成政の無謀な挑戦を可能にしたのは、こうした地元の専門家の知識と技術だったと考えられます。

困難の実態

複数の史料が「数名の家臣を失いながらも」と記しており、雪崩や凍死などで随行者に死者が出たことは確実です。
しかし、死亡者の氏名や状況は一切記録されていません。
往復で約1ヶ月半を要し、11月下旬に出発して12月25日に浜松に到着したとされています。

失敗と最期

命がけで浜松にたどり着いた成政でしたが、徳川家康は成政の熱弁に耳を傾けたものの、再挙兵の要請を明確に拒絶しました。
家康はすでに秀吉との和睦という政治的現実を受け入れており、一武将の情熱で国運を賭けるような人物ではなかったのです。

成政の行動は、旧来の「義」や「忠」を重んじる価値観と、新時代の冷徹な「理」や「利」を優先する価値観の衝突でした。
そして、後者が勝利した瞬間だったのです。

失意のうちに越中へ戻った成政でしたが、翌1585年、秀吉は10万の大軍を率いて越中に侵攻します。
抵抗する術を持たない成政は降伏し、越中の所領を失いました。

その後、1587年に肥後国主に任じられますが、急激な統治改革が地元の反発を招き、大規模な一揆を引き起こしてしまいます。
1588年、成政は統治失敗の責任を問われ、切腹を命じられました。享年52~53歳でした。

歴史が残した教訓

政治的・軍事的には完全な失敗に終わった「さらさら越え」ですが、江戸時代に入ると主君への忠誠心の発露として武士の鑑と見なされるようになり、歌舞伎や浮世絵を通じて英雄譚として語り継がれました。

この物語は、リーダーの異常なまでの決意が名前も記録されなかった随行者たちを冬山へと向かわせた事実を示しています。
しかし、その情熱が向かう先が非現実的な目標であったため、随行者の犠牲は無駄に終わりました。

これは、リーダーの熱意が組織を動かす力になり得る一方で、その方向性が誤っていれば全体を破滅に導くという、痛烈な歴史的教訓です。
成功には情熱だけでなく、冷静な状況判断と合理的な戦略が不可欠なのです。

参考文献

  1. 米原寛「佐々成政『ザラザラ越え』考」『富山県立山博物館研究紀要』14号、2007年
  2. 大町山岳博物館「北アルプス登山史資料3」2017年
  3. 鈴木景二「佐々成政の浜松往復前後の政治過程:村上義長関係文書から」富山大学、2013年
  4. 廣瀬誠「佐々成政の佐良佐良越えに関する諸説をめぐって」『富山史壇』56・57号、1973年
  5. 服部英雄「検証・佐々成政は本当に厳冬期の針ノ木峠を超えたのか(前・後)」『岳人』595・596号、1997年
  6. 小林茂喜『さらさら越え―佐々成政の決断』桂書房、2013年
  7. 佐伯哲也「天正十二・三年における佐々成政の動向について」『富山史壇』第148号、2005年
  8. 萩原大輔編『シリーズ・織豊大名の研究 第十一巻 佐々成政』戎光祥出版、2023年
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