江戸時代の「湯女」とは?銭湯が遊び場だった時代の真実

目次

はじめに

現代の私たちにとって、銭湯は清潔で健全な公衆浴場です。
しかし江戸時代初期、銭湯は単なる入浴施設ではありませんでした。「湯女(ゆな)」と呼ばれる女性たちが、垢すりや髪すきのサービスを提供し、さらには茶や酒でもてなし、三味線を奏でる――そんな華やかな社交場だったのです。

吉原遊廓の客を奪うほど人気を博した湯女風呂は、なぜ江戸幕府によって厳しく取り締まられ、やがて姿を消したのでしょうか。
この記事では、江戸の都市文化と幕府の統制政策が交錯する、湯女をめぐる興味深い歴史を紐解いていきます。


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江戸の湯女と幕府の風紀取締り―消えた銭湯の女性たち|hiro はじめに 江戸時代初期、庶民の憩いの場であった銭湯に「湯女(ゆな)」と呼ばれる女性たちがいました。 彼女たちは昼間、客の背中を流し、髪をすき、夜になると三味線を奏...

目次

  1. 湯女の誕生――江戸の都市化と銭湯の発展
  2. 湯女風呂の繁栄――吉原を脅かす新ビジネス
  3. 幕府による段階的な取り締まり
  4. 1657年、湯女風呂の全面禁止
  5. 地域による違い――京都・大坂では存続
  6. 湯女文化の終焉と現代への影響
  7. 参考文献

1. 湯女の誕生――江戸の都市化と銭湯の発展

1591年(天正19年)、伊勢与市という人物が江戸の銭瓶橋付近に銭湯を開業しました。
これが江戸における営業目的の公衆浴場の始まりとされています。

当時の江戸は急速な都市化の真っ只中にありました。
徳川家康が江戸に幕府を開いた1603年以降、全国から大工や職人、労働者が大量に流入します。
彼らの多くは独身の若い男性で、江戸の人口構成は男女比が3対1という極端な男性過剰社会となっていました。

こうした環境で、各戸に風呂を持つことは困難でした。
水や燃料の確保が難しく、共同浴場への需要が高まったのです。
17世紀初頭には「町ごとに風呂あり」と記録されるほど、銭湯は庶民の生活に欠かせない施設となりました。

そして、この銭湯で客の世話をする女性「湯女」が登場します。
最初は単に垢すりや髪すきを手伝う補助的な役割でしたが、やがてその業務内容は大きく変化していくことになります。

2. 湯女風呂の繁栄――吉原を脅かす新ビジネス

17世紀前半、湯女のサービスは急速に拡大しました。
昼間は背中を流し、髪を結う。
しかし、夕方になると様子が一変します。
美しく着飾った湯女たちが茶や酒を運び、三味線を奏でながら客をもてなしたのです。

当時の記録『慶長見聞集』(1614年頃)には、「なまめける女ども廿人、三十人ならび居てあかをかき、髪をそゝぐ」とあります。
つまり、一軒の銭湯に20〜30人もの湯女を抱える大規模店舗が出現していたことが分かります。

特に有名だったのが「丹前風呂」でした。
神田の堀丹後守屋敷前にあったこの銭湯には「勝山」という人気湯女がおり、「丹前の湯はそのころ皆のぼせ」と川柳に詠まれるほどの大繁盛ぶりでした。
湯女たちは流行の発信源でもあり、「丹前」(綿入れ着物)や「勝山髷」といった新しいファッションを生み出しています。

この湯女風呂は、幕府公認の遊廓である吉原にとって深刻な脅威となりました。
吉原は格式が高く料金も高額で、しかも江戸市中から離れた場所にありました。
一方、湯女風呂は町中にあり、気軽に立ち寄れて、吉原より安価に長時間楽しめる――この利便性が多くの男性客を引きつけたのです。

3. 幕府による段階的な取り締まり

湯女風呂の人気は、幕府にとって二重の問題を引き起こしました。
一つは公の風紀を乱すという道徳的な問題、もう一つは吉原の経営を脅かすという経済的な問題です。

幕府は湯女の存在を早くから問題視していました。
1637年頃(寛永14年)には、一軒あたりの湯女の人数を制限する命令を出したとされています。
さらに1648年(慶安元年)には風呂屋禁止令を発布しましたが、効果はほとんどありませんでした。

1651年(慶安4年)、幕府はより具体的な規制を実施します。
風呂看板の売買を禁止し、湯女を一軒につき3人までと制限したのです。
しかし、この規制も十分には守られず、湯女風呂は営業を続けました。

幕府にとって吉原は、単なる遊興施設ではなく、都市の治安維持と税収確保のための重要な管理装置でした。
分散的で無許可の湯女風呂の乱立は、この管理体制を根底から揺るがすものだったのです。

4. 1657年、湯女風呂の全面禁止

転機は1657年(明暦3年)に訪れます。この年の正月、江戸を未曾有の大火災が襲いました。
「明暦の大火」と呼ばれるこの災害は、江戸の大半を焼き尽くし、吉原遊廓も完全に焼失します。

幕府はこの都市再建の機会を利用して、湯女問題の最終的な解決に乗り出しました。
江戸市中の200軒以上の風呂屋を物理的に打ち壊し、湯女約600人を強制的に新吉原(浅草に移転した新しい吉原)へ移送したのです。

この徹底的な取り締まりにより、江戸における湯女風呂は完全に消滅しました。
以後、江戸の銭湯では「三助」と呼ばれる男性従業員が背中流しを担当するようになり、性的サービスと完全に分離された公衆浴場文化が確立されます。

吉原の遊女数は、移転前の987人(1642年)から移転後の2,208人(1658年)へと約2.2倍に急増しました。
湯女を公認の遊女として公娼制度の枠内に収容することで、幕府は遊興に対する管理権を再確立したのです。

5. 地域による違い――京都・大坂では存続

興味深いことに、江戸で厳格に取り締まられた湯女は、京都や大坂では形を変えて存続しました。

これらの地域では「髪洗女(かみあらいおんな)」という名称を用いることで、幕府の法令を巧みに回避したのです。大坂では一軒あたり2〜3人の髪洗女を置くことが許可されており、天保期(1830〜1844年)まで実質的に営業が続きました。

この地域差は、徳川幕府の権力構造を浮き彫りにしています。
幕府直轄地の江戸では徹底的な統制が可能でしたが、古くからの商業都市である京都や大坂では、地域の商業的論理と文化的自律性により、より緩やかな規制が行われたのです。

なお、温泉地の「湯女」は都市部とは異なります。
有馬温泉などでは、入浴補助と接客サービスに従事する湯女が明治初期まで存続しました。
これらは性的サービスを基本的に提供せず、1883年(明治16年)には芸妓へと転換されています。

6. 湯女文化の終焉と現代への影響

明暦の大火による取り締まり以降、湯女文化は衰退の一途をたどります。
18世紀には地震や火災などの天災も相次ぎ、湯女の存在はほとんど姿を消しました。

しかし、完全に根絶されたわけではありません。
非公式には明治12〜13年(1879〜1880年)頃まで、風呂屋の二階で売春が行われていた記録が残っています。
公式の禁止から200年以上が経過しても、形を変えた営業が続いていたのです。

1879年(明治12年)、東京府は「湯屋取締規則」を制定し、浴場の設備や営業手続きを14条で細かく定めました。
これにより銭湯は近代的な公衆衛生施設として整備され、女性従業者による性的サービスは法的に排除されました。

湯女の歴史は、単なる風俗史の一コマではありません。
都市の急速な発展と、それを管理しようとする国家権力との緊張関係を映し出す重要な事例なのです。
民衆の支持を得て発展する革新的なビジネスと、国家が認可した独占事業との競合――この構図は、現代の経済や社会にも通じる普遍的なテーマと言えるでしょう。

参考文献

  1. 『慶長見聞集』三浦浄心著、1614年頃
  2. 『守貞謾稿』喜田川守貞編、1837-1853年
  3. 『徳川禁令考』司法省編、1878-1890年刊
  4. 『湯女図:視線のドラマ』佐藤康宏著、平凡社、1993年
  5. 「湯女」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館
  6. 「湯屋取締規則」及び「湯屋營業取締規則」に関する考察、筑波大学大学院 Core Ethics、2006年
  7. 「銭湯の歴史」東京都公衆浴場業生活衛生同業組合公式サイト
  8. 「江戸の性風俗の最前線だった湯屋」rekishijin、2022年
  9. 「有馬節と版本『ありまぶし』」CiNii Research
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