前田利家:「槍の又左」から加賀百万石の礎を築いた戦国武将の生涯

目次

はじめに

若き日に主君を怒らせて追放され、浪人の身に。
しかし武功によって復帰を果たし、やがて加賀百万石の基盤を築いた戦国武将がいます。
前田利家——その人生は、挫折から立ち上がり、時代の波を読み、確固たる地位を築き上げた、まさにドラマそのものです。
派手な装いで周囲を驚かせた「傾奇者」は、いかにして織田信長、豊臣秀吉という二大天下人の信頼を勝ち取り、加賀百万石の祖となったのでしょうか。
本記事では、前田利家の波乱に満ちた生涯を、史実に基づいて紐解いていきます。


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前田利家:「槍の又左」から「加賀百万石の祖」へ—戦国を生き抜いた武将の実像|hiro はじめに 戦国の世を駆け抜けた一人の武将がいます。 若き日には血気盛んな「傾奇者」として恐れられ、やがて「槍の又左」の異名で戦場を席巻しました。 そして最終的には...

目次

  1. 荒子の若武者、槍の名手として頭角を現す
  2. 勘当からの復活——武功が証明した忠誠心
  3. 織田家臣団での出世と北陸支配への道
  4. 賤ヶ岳の決断——友情と家の存続の狭間で
  5. 加賀百万石の礎を築く
  6. 豊臣政権の重鎮として
  7. まとめ

荒子の若武者、槍の名手として頭角を現す

前田利家は1537年頃(諸説あり)、尾張国荒子村(現在の名古屋市中川区)に生まれました。
前田家は小規模な土豪で、織田家に仕える家臣の一つでした。
15歳前後で織田信長の小姓として出仕した利家は、若い頃から武芸に優れ、特に槍の腕前は群を抜いていたといいます。

初陣となった1552年の萱津の戦いでは、約6.3メートルもの長槍を振るって首級を挙げ、信長から「肝に毛が生えている」と称賛されます。
この頃から「槍の又左(またざ)」という異名で呼ばれるようになり、その武勇は織田家中に知れ渡りました。

若き利家は典型的な「傾奇者」でした。
傾奇者とは、派手な服装や型破りな振る舞いで世間を驚かせた者たちを指します。
しかし、この血気盛んな性格が、彼の人生を大きく揺るがす事件を引き起こすことになります。

勘当からの復活——武功が証明した忠誠心

1559年、22歳の利家に転機が訪れました。
信長に仕える茶坊主・拾阿弥と諍いを起こし、激昂のあまり相手を斬殺してしまったのです。
発端は、妻まつから贈られた刀の笄(こうがい)を盗まれたことでした。
主君の面前での刃傷沙汰に信長は激怒し、利家は織田家から追放されてしまいます。

浪人となった利家ですが、主君への忠誠を諦めませんでした。
1560年の桶狭間の戦いでは無断で参戦し、3つの首級を挙げます。
しかし、信長はまだ許しませんでした。
翌1561年、美濃国森部の戦いで再び無断出陣した利家は、敵方の猛将「頸取足立」こと足立六兵衛を含む2名の武将を討ち取ります。
右目下に矢を受けながらも敵を倒したこの武功に、ついに信長は心を動かされました。

「虚説(噂)ではあるまい」と利家の武勇を称賛した信長は、300貫の加増とともに復帰を許可します。
約2年に及ぶ浪人生活を経て、利家は自らの武勇で主君の信頼を取り戻したのです。
この経験は、利家に「武功こそが武士の価値を証明する」という信念を植え付けました。

織田家臣団での出世と北陸支配への道

復帰後の利家は、信長の親衛隊である「赤母衣衆(あかほろしゅう)」の一員に抜擢されます。
これは主君の側近として絶対的な信頼を得た証でした。
1569年には信長の命により前田家の家督を継ぎ、荒子城主となります。

利家は織田家の主要な合戦に次々と参陣しました。
1570年の姉川の戦いでは浅井助七郎を討ち取り、「比類なき槍」と評価されます。
1575年の長篠の戦いでは、槍ではなく鉄砲隊の指揮官として参戦し、武田軍の騎馬隊を撃破する戦果を挙げました。

1575年、越前一向一揆平定後、利家は佐々成政、不破光治とともに「府中三人衆」に任命されます。
これは表向きには越前府中の統治ですが、実際には北陸方面軍司令官・柴田勝家の監視役という重要な任務でした。
約8年間、利家は勝家の与力として軍事行動を共にしながら、その動向を信長に報告する立場にいたのです。

1581年、信長は北陸平定の功績により利家に能登一国(約23万石)を与えます。
これにより利家は独立した大名となり、「加賀百万石」への第一歩を踏み出しました。

賤ヶ岳の決断——友情と家の存続の狭間で

1582年6月、本能寺の変で信長が横死すると、織田家中は混乱に陥ります。
清洲会議では柴田勝家と羽柴(豊臣)秀吉が対立し、利家は勝家を支持しました。
長年の上官への義理を重んじた選択です。

しかし、1583年4月、賤ヶ岳の戦いで利家は歴史的な決断を下します。
柴田軍として5,000の兵を率いて出陣したものの、決戦の最中に戦線を離脱したのです。
これは秀吉軍に積極的に寝返るのではなく、「中立的撤退」という微妙な行動でした。

この判断の背景には、複雑な要因がありました。
利家と秀吉は信長の下で苦労を共にした旧友でした。
また、府中三人衆時代に培った情勢分析力から、利家は天下の趨勢が秀吉にあることを見抜いていたのです。
恩義ある勝家を直接攻撃すれば「裏切り者」の汚名を着ますが、戦線離脱であれば戦術的判断と弁明できます。

利家の撤退は柴田軍の陣形に致命的な亀裂を生じさせ、秀吉軍の圧勝を決定づけました。
この決断により、前田家は生き延び、以後豊臣政権下で大きく飛躍することになります。

加賀百万石の礎を築く

賤ヶ岳の戦後、秀吉は利家に加賀国二郡を加増し、本拠を金沢城へ移すことを認めました。
1583年、利家は金沢に入城し、加賀の新たな支配者として統治を開始します。
この時点で前田家の所領は能登と加賀を合わせて約47万石に達していました。

1584年には佐々成政を降伏させ、越中の一部も版図に加えます。
1587年の九州征伐、1590年の小田原攻めにも参陣し、着実に功績を積み重ねました。
1585年時点で利家と長男・利長の合計石高は76万石を超え、豊臣大名の中でも屈指の雄藩となったのです。

利家は単なる武将ではなく、優れた統治者でもありました。
金沢城の大規模改修を進め、1592年頃には壮麗な五重天守も建造されたと伝わります。
また1593年には金銀箔の製造を命じており、これが現在まで続く金沢箔産業の起源となりました。
城下町の整備では、当初は武士と町人の居住区が混在する軍事的な都市計画を採用し、有事に備えた体制を整えています。

豊臣政権の重鎮として

秀吉は利家を「律儀者」(誠実で実直な人物)と評価し、深く信頼していました。
1592年の朝鮮出兵では、利家は肥前名護屋の本陣で軍務を分担し、秀吉は「加賀殿」宛に直筆書簡を送るなど、利家を政権の中枢に組み込んでいきます。

1594年、秀吉は利家を従三位権大納言に叙任し、毛利輝元や上杉景勝を上回る官位序列に引き上げました。
さらに同年4月には秀吉が利家の京都屋敷を訪問するという破格の待遇も与えています。
これは徳川家康に対抗する勢力として利家を重視する秀吉の意図の表れでした。

1598年8月、秀吉が死去すると、利家は五大老の一人として幼い豊臣秀頼の後見人に任命されます。
秀吉亡き後、台頭する家康と石田三成ら奉行衆の対立が激化する中、利家は調停役として政権の安定維持に努めました。
1599年には家康の私的な婚姻政策を糾弾し、一時的に家康の独走を抑えることにも成功しています。

しかし、1599年4月27日、利家は大坂城で病に倒れ、62歳で死去しました。
秀吉の死からわずか8ヶ月後のことです。
利家の死は豊臣政権のパワーバランスを決定的に崩し、直後に石田三成襲撃事件が発生します。
そして翌年、関ヶ原の戦いへと歴史は動いていくのです。

まとめ

前田利家の生涯は、武勇と人間関係の構築によって戦国時代を生き抜いた一人の武将の物語です。
若き日の失態で追放されながらも武功で復帰し、「槍の又左」として名を馳せました。
織田信長への忠誠と豊臣秀吉との友情という強固な人間関係を基盤に、賤ヶ岳では冷静な情勢判断で前田家の存続を選択します。

加賀百万石の礎を築いた利家の功績は、単に領地を拡大しただけではありません。
金沢城と城下町の建設、産業振興、そして豊臣政権下での政治的地位の確立など、多岐にわたる統治能力を発揮しました。
その遺産は、江戸時代を通じて加賀藩が外様大名最大の勢力として存続する基盤となったのです。

「傾奇者」から「百万石の祖」へ——前田利家の人生は、専門性(武芸)、人間関係、そして冷静な判断力が、いかに個人と組織の運命を左右するかを示す、時代を超えた教訓に満ちています。

参考文献

  • 太田牛一『信長公記』(奥野高広・岩沢愿彦校注、角川文庫版、1969年)
  • 侯爵前田家編集部編、日置謙監修『加賀藩史料 第壹編』(1929年)
  • 岩沢愿彦『前田利家』(人物叢書136、吉川弘文館、1966年初版、1988年新装版)
  • 花ヶ前盛明編『前田利家のすべて』(新人物往来社、2001年)
  • 大西泰正編『前田利家・利長』(織豊大名の研究第三巻、戎光祥出版、2016年)
  • 金沢市史編さん委員会『金沢市史 通史編2 近世』(2005年)
  • 名古屋市博物館編、三鬼清一郎・藤井譲治ほか編集委員『豊臣秀吉文書集』全9巻(吉川弘文館、1990年代-2010年代)
  • 石川県立図書館所蔵「前田家文書」
  • 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第12巻(吉川弘文館、1989年)
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