成田山新勝寺はなぜ初詣の聖地になったのか?歴史から紐解く信仰と文化

目次

はじめに

毎年正月、300万人以上が訪れる成田山新勝寺。
明治神宮に次ぐ全国第2位、寺院としては日本一の初詣参拝者数を誇ります。
しかし、この賑わいは一体どのようにして生まれたのでしょうか。

実は「初詣」という言葉自体、江戸時代には存在しませんでした。
平安時代の国家危機から始まり、江戸時代の歌舞伎ブーム、そして鉄道の発達によって、成田山は1000年以上かけて今日の姿へと変貌を遂げたのです。
本記事では、高校の歴史では学ばない成田山の知られざる歴史を、史実に基づいて分かりやすく解説します。

目次

  1. 平将門の乱と成田山の創建
  2. 市川團十郎という最強の広告塔
  3. 出開帳というマーケティング戦略
  4. 江戸庶民の成田詣ブーム
  5. 鉄道が生んだ「初詣」文化
  6. まとめ

平将門の乱と成田山の創建

成田山新勝寺の歴史は、940年(天慶3年)の平将門の乱にさかのぼります。
関東地方で「新皇」を名乗って反乱を起こした平将門を鎮めるため、朱雀天皇は真言宗の高僧・寛朝大僧正に密命を下しました。

寛朝は京都の神護寺から不動明王像を携え、下総国公津ヶ原(現在の成田市)で21日間の祈祷を行います。
満願の日に将門が討たれたことで、この地に「新勝寺」という寺号が授けられました。
つまり成田山は、国家の危機を救った「勝利の寺」として誕生したのです。

この創建の物語は、後に成田山が「災難除け」や「勝負運」の霊験所として信仰される原点となりました。

市川團十郎という最強の広告塔

成田山が本格的に発展するのは江戸時代です。
そのきっかけを作ったのが、人気歌舞伎役者の初代市川團十郎でした。

1688年(元禄元年)、子宝に恵まれなかった團十郎は成田山で祈願し、念願の長男を授かります。
感謝の気持ちから、彼は不動明王を題材とした歌舞伎を上演しました。
これが大ヒットし、市川家は「成田屋」という屋号を名乗るようになります。

歌舞伎という当時最大のメディアを通じて、成田山の名は江戸中に広まりました。
舞台で「成田屋!」という掛け声がかかるたび、それは成田不動への呼びかけでもあったのです。
まさに現代で言う「インフルエンサーマーケティング」の先駆けと言えるでしょう。

出開帳というマーケティング戦略

1703年(元禄16年)、成田山は画期的な試みを始めます。それが「出開帳」です。

通常、秘仏である本尊は寺院内でしか拝めません。
しかし、成田山は、本尊を江戸の深川永代寺まで運び、期間限定で公開したのです。
これは「信者が寺に来る」のではなく「寺が信者のもとへ行く」という発想の転換でした。

出開帳は江戸時代を通じて計12回実施され、毎回多くの参詣者を集めました。
境内には見世物小屋や茶店、商店が立ち並び、信仰と娯楽が一体化した祝祭空間となります。
莫大な賽銭収入は、成田山の伽藍整備の資金源となりました。

興味深いのは、出開帳を実施すると地元の参道商店街の客足が減るため、翌年には成田で「居開帳」を開催して地元経済を潤すという配慮も行われていた点です。
寺院と門前町の共存共栄を図る、計算された経済政策だったのです。

江戸庶民の成田詣ブーム

江戸から成田山までは約64キロメートル。庶民は仲間内で「成田講」という組織を作り、3泊4日かけて参詣しました。

旅程は、日本橋から船で行徳まで行き、そこから陸路で船橋宿に一泊、翌日成田山に到着して参拝・宿泊後、帰路につくというものです。
旅費は銀十匁程度で、大工の2日分の稼ぎに相当しましたが、貨幣経済の浸透とともに庶民の手が届く範囲になっていきます。

成田詣は単なる信仰行為ではありませんでした。道中での名所見物、仲間との宴会、土産物購入など、娯楽と観光の要素を含んでいたのです。
幕末期には年間10万人規模の参詣者が訪れ、街道沿いの宿場町は大いに繁栄しました。

鉄道が生んだ「初詣」文化

転機は明治時代に訪れます。1897年(明治30年)、成田鉄道が開業し、江戸時代には2日かかった道のりが約3.5時間に短縮されました。

さらに1926年(大正15年)、京成電気軌道が全通します。
社名の「京成」は「京」(東京)と「成」(成田)に由来しており、成田山への参詣客輸送を主目的の一つとしていました。

京成と国鉄の競争は熾烈を極めました。5分間隔の頻発運転、運賃値下げ競争、純金・純銀の不動尊像の抽選配布など、新聞が「火の出るような旅客争奪合戦」と報じるほどでした。

この鉄道競争により、1927年から1940年の14年間で、正月の参詣客は約10倍に激増します。
同時に、江戸時代の「恵方参り」や「初縁日参詣」といった複雑な習慣が消失し、誰もが気軽に参拝できる「初詣」が全国的な習慣として定着したのです。

実は「初詣」という言葉は、1885年(明治18年)に新聞で初めて使われた新しい概念でした。
鉄道という近代技術と、それを利用した企業戦略が、現代の初詣文化を作り出したと言えるでしょう。

まとめ

成田山新勝寺の歴史は、日本の宗教文化が時代とともにどう変化してきたかを示す興味深い事例です。
平将門調伏という国家的使命で誕生した寺院が、歌舞伎役者のカリスマ性、戦略的な出開帳、庶民の旅行文化、そして鉄道の発達という複数の要素と結びつきながら、現代の初詣の聖地へと発展しました。

年間1000万人を超える参拝者が訪れる今日の姿は、1000年以上にわたる信仰の積み重ねと、時代に応じた革新的な取り組みの結果なのです。初詣に行く際は、ぜひこの歴史的背景を思い出してみてください。
きっと参拝がより意味深いものになるはずです。

参考文献

  1. 成田山新勝寺公式サイト「成田山の歴史」https://www.naritasan.or.jp/about/history/
  2. 平山昇『初詣の社会史:鉄道が変えた娯楽とナショナリズム』東京大学出版会、2015年
  3. 『成田山深川不動堂三百年史』成田山東京別院深川不動堂編、2002年
  4. 『成田市史 中世・近世編』成田市史編さん委員会編、1986年
  5. 『武江年表』斎藤月岑編、国立国会図書館デジタルコレクション
  6. 船橋市西図書館所蔵史料集「成田道中膝栗毛」関連資料
  7. 『千葉県史』通史編、千葉県、1991-2008年
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