黒田一成 | 土牢の誓約から生まれた福岡藩最強の家老

目次

はじめに

敵の牢番の子が、260年続く藩の最強家老になった——こんな話があると聞いたら、どう思いますか?

黒田一成(くろだかずしげ、1571〜1656年)は、戦国から江戸時代にかけて活躍した福岡藩の筆頭家老です。
関ヶ原で武功を挙げ、67歳で島原の乱に出陣し、86歳という長寿を全うした彼の生涯は、ひとつの「恩義の連鎖」から始まっています。

教科書ではあまり見かけない名前ですが、その生き方には現代の私たちが考えさせられるテーマが詰まっています。


黒田一成とは誰か?

黒田一成は、江戸時代の福岡藩(現・福岡県)で「三奈木黒田家」の初代となった武将・重臣です。

最大のポイントは、「生え抜きの家臣ではない」という点です。
黒田家とは血のつながりも縁もない家の子として生まれながら、なぜ筆頭家老の座を得られたのか——それを理解するには、「有岡城事件」という歴史的な出来事から話を始める必要があります。


すべての始まりは土牢の中にあった——有岡城事件

1578年(天正6年)、豊臣秀吉の参謀として活躍していた黒田官兵衛(孝高)は、摂津国の武将・荒木村重を説得するために有岡城(現・兵庫県伊丹市)を訪れました。
しかし話し合いは決裂し、官兵衛は逆に城の土牢へ幽閉されてしまいます。

この幽閉は1年以上続きました。光もろくに差し込まない牢の中で、官兵衛はひたすら生き延び続けます。

そんな状況の中、官兵衛の監視を命じられた荒木の家臣・加藤重徳は、次第に官兵衛の人格に打たれていきます。
過酷な環境でも知性と品位を失わない官兵衛に心を動かされた重徳は、命がけで官兵衛を厚遇しました。

1579年(天正7年)10月、有岡城は落城します。
官兵衛は救出されますが、長期の幽閉で足の骨が腐り、歩行が困難な状態にまで衰弱していました。

救出された官兵衛は、恩人・重徳にこう約束しました。

「無事に帰国できたなら、あなたの子を一人、息子・長政の弟として育てます」

この言葉が、黒田一成という人物を生み出した原点です。


養子として黒田家へ——玉松から一成へ

重徳の次男は「玉松」という幼名を持つ子どもでした。
有岡城の落城時に7〜8歳だった玉松は、1580年ごろに黒田家に引き取られ、「黒田一成」と名づけられます。

官兵衛の息子・長政(後の福岡藩初代藩主)とほぼ同世代の一成は、幼少期から長政と一緒に武芸を磨き、黒田家の後継として必要な教育を受けました。

この養子縁組が特別だったのは、「恩への返礼」という明確な動機があったからです。
官兵衛は「命を救われた恩に報いる」という純粋な動機から一成を育てました。
その事実を知っている一成が、黒田家への忠誠心を深く刻み込んで育ったのは、ごく自然なことでしょう。

1584年(天正12年)、14歳になった一成は初陣を果たします。
戦場は和泉国・岸和田。根来衆・雑賀衆との戦いで、彼の武将としての歩みが始まりました。


戦場での活躍——関ヶ原で敵将を討ち取る

一成のキャリアにおいて最大のハイライトが、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いです。

この戦いの前哨戦・合渡川の戦いで、一成は際立って目立つ兜を着用して出陣しました。
脇立(兜の左右に付く飾り)がとても大きく、遠くから見た西軍の兵士が旗印と誤認し、大砲で狙ってくるほどだったといわれています。

そのような状況の中で、一成は石田三成の重臣・蒲生将監(安藤直重)を討ち取る武功を挙げました。

黒田家全体の武功が認められ、主君・長政は家康から「一番の功労者」として筑前国52万3,000石を与えられます。
福岡藩という大藩の誕生には、一成の武功が大きく貢献していたのです。

それ以前にも一成は戦功を積み重ねています。
1587年(天正15年)の九州征伐では根白坂の激戦で首を2つ討ち取り、文禄・慶長の役(1592・1597年)では長政の先鋒として朝鮮に渡り、金海城への一番乗りなどの武功を挙げています。


三奈木黒田家の成立——1万6,205石の重み

関ヶ原の戦いの後、黒田家が筑前国へと移ると、一成は筑前三奈木(現・福岡県朝倉市)を中心とした大きな知行地を与えられます。
最終的な石高は1万6,205石。
これは当時の小大名に匹敵する規模です。

「三奈木黒田家」と呼ばれるこの家系は、明治時代まで260年以上にわたって福岡藩の筆頭重臣家として存続しました。
江戸時代中期の1709年(宝永6年)には、正式に「大老職」(藩主の下で最高の行政を担う役職)を命じられ、これを世襲します。

黒田騒動など藩内で多くの有力家老が失脚するなかでも、三奈木黒田家だけは揺らぐことなく藩政に関わり続けました。
一成が残した「忠義」の在り方が、家系の安定を支えたといえるかもしれません。


武将から文化人へ——屏風絵と神社再建

一成の魅力は、武功だけではありません。
和歌を詠み、絵を描く文化人としての側面も持っていました。

最も有名な文化的業績は、「大坂夏の陣図屏風」(現・国の重要文化財)の制作への関与です。
1615年(慶長20年)の大坂夏の陣が終わった後、主君・長政は戦いを記録に残すために大型の合戦図屏風の制作を命じました。
福岡藩の故実によれば、その指揮を命じられたのが一成です。
この屏風には人物5,071人・馬348頭などが精緻に描かれており、現在も大阪城天守閣に所蔵されています(制作の指揮者については別説もあります)。

また一成は、知行地・三奈木周辺の神社仏閣を私財で再建したことでも知られています。

  • 元和年間(1615〜1623年):三奈木に清岩禅寺を建立
  • 1627年(寛永4年):春日神社(現・福岡県春日市)を再建
  • 1639年(寛永16年):美奈宜神社を再建し、記念に銀杏を植樹

この銀杏は現在も三奈木のシンボルとして残っています。
武将としてだけでなく、地域の守り手としての一成の姿がここに表れています。


最後の戦い——67歳で島原へ

1637年(寛永14年)、九州の島原・天草地方で「島原の乱」が勃発します。
キリシタン弾圧と苛酷な年貢への反発から立ち上がった一揆で、幕府は13万近くの軍を動員して鎮圧に乗り出しました。

このとき、一成は67歳でした。
それでも出陣し、幕府軍の軍議に大名格で参加します。
豊富な実戦経験から「兵糧攻めが最善」と進言したと伝えられています。

88日間の籠城の末、原城は1638年2月に落城。
一揆勢は約3万7,000人が死亡し、一成の家臣団からも4人の戦死者が出ました。

これが一成の最後の出陣となりました。


まとめ——土牢の誓約が作った260年の遺産

黒田一成の生涯を一言でまとめるなら、「恩義の連鎖が人を作った」でしょう。

父・加藤重徳が土牢の中で官兵衛に示した人間的な誠意 → 官兵衛の誓約 → 一成の忠義 → 260年続く家系と地域の遺産。

この連鎖は、どこかで途切れることもできました。
しかし、それぞれの場面で誠実な行動をとった人々がつながり続けた結果、黒田一成という人物と、三奈木黒田家という歴史が生まれました。

教科書にはほとんど登場しない人物ですが、一成の生き方には、現代にも通じる「信義と忠誠」のヒントが隠れています。


👇詳しくはコチラの記事をどうぞ!

note(ノート)
黒田一成 | 土牢の誓約が生んだ260年|hiro | 仕事・人生に効く歴史かわら版 はじめに 敵に捕らえられた主人の牢番の「恩義」が、260年続く家系を生み出した話をご存知でしょうか。 黒田官兵衛という名は、戦国武将に興味がある方ならば一度は耳にし...

参考文献

  • 『新訂黒田家譜 第1巻』(貝原益軒著、川添昭二・福岡古文書を読む会校訂、文献出版、1982〜1987年)
  • 『三奈木村史資料 第1巻』(安陪光正編、西日本新聞社出版部、1975年)
  • 朝倉市「ふるさと人物誌2 福岡藩筆頭家老 三奈木 黒田 一成」(朝倉市、2010年)
  • 福岡市博物館「No.052 福岡藩筆頭家老 三奈木黒田氏展」(1993年)
  • 福岡市博物館「No.468 福岡藩筆頭家老三奈木黒田氏展2 ―伝来の甲冑・刀剣と馬具―」(2016年)
  • 『福岡県史 通史編 福岡藩(1)』(西日本文化協会、2000年)
  • 春日市「春日の歴史」(春日市、2022〜2023年)
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