はじめに
戦国時代の武将の中で、最期が「謎」のまま終わる人物は珍しくありません。
しかし「江戸幕府が何十年にもわたって追い続け、それでも生死を確認できなかった」武将は、ほとんどいません。
明石全登は、そんな数少ない一人です。
キリシタン武将として知られ、大坂の陣で豊臣方の中核を担い、落城後も戦場から消えていった。
今回は、その生涯を史料に基づきながら、わかりやすく解説します。

目次
- 明石全登ってどんな人?
- 宇喜多家での出世と宇喜多騒動
- 関ヶ原の戦いでの活躍
- 14年間の潜伏とキリスト教への信仰
- 大坂の陣——最後の戦い
- 消えた武将——落城後の謎
- まとめ
1. 明石全登ってどんな人?
明石全登(掃部頭)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて宇喜多秀家に仕えた武将です。
「全登」という名前は、同時代の史料にはほとんど登場せず、大坂の陣以降に編纂された軍記物によって定着した呼び名であるとされています。
研究者の大西泰正氏は「全登という名を使うことは、真田信繁を幸村と呼ぶのと同じ問題を孕む」と指摘しています。
同時代の史料では「明石掃部」「明石守重」と記されることが多いです。
父の明石行雄は、もともと浦上宗景(備前の大名)の家臣でしたが、天正3年(1575年)に宇喜多直家が浦上氏を滅ぼすと宇喜多方に寝返り、以後、明石氏は宇喜多家の家臣となりました。
全登の生年は不明ですが、1569年前後と推定されています。
彼の母は宇喜多直家の異母妹、正室は直家の娘(秀家の姉にあたる人物)とされており、主君・宇喜多秀家とは義兄弟の関係でした。
2. 宇喜多家での出世と宇喜多騒動
文禄3年(1594年)頃に父から家督を継いだ全登は、宇喜多家の家老として活動します。
この時期、彼はキリスト教に改宗し、洗礼名を「ジョアン」(あるいはジュスト)と名乗るようになりました。
自邸に宣教師を住まわせて保護するほど、熱心な信者でした。
1596年には、長崎へ送られる「日本二十六聖人」が宇喜多領内を通過する際、全登自らがその護送役を務めています。
1599年末から1600年正月にかけて「宇喜多騒動」が起きます。
これは宇喜多家の重臣たちが相次いで出奔した大規模な内部抗争です。
戸川達安・宇喜多詮家・岡貞綱・花房正成の4名が主家を去り、宇喜多家は大幅に弱体化しました。
この騒動において全登は中立を守り、主君の秀家側から信頼を得ます。
その結果、騒動後に家中最大の10万石を与えられ、筆頭家老(家宰)に就任しました。
3. 関ヶ原の戦いでの活躍
慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の戦いが始まりました。
全登は宇喜多勢1万7,000のうち約8,000名を率いて先鋒を担い、東軍の福島正則と激突します。
この戦いは「関ヶ原合戦で最も激しい戦い」と評されるほどの激闘で、宇喜多勢は一歩も引きませんでした。
しかし、小早川秀秋が西軍を裏切ったことで戦況が一変。
主君の秀家が自刃しようとしたとき、全登は諌めて大坂城への撤退を進言し、自らは殿軍を務めて秀家の脱出を守りました。
敗戦後、全登は岡山城に戻りましたが城はすでに荒らされており、主君とも連絡が取れない状態でした。
こうして全登は浪人となり、長い潜伏生活が始まります。
4. 14年間の潜伏とキリスト教への信仰
関ヶ原の敗戦後、全登は母方の縁を頼り、黒田如水の弟で熱烈なキリシタンであった黒田直之のもとで筑前秋月に身を潜めました。
如水の死後はキリスト教を保護していた柳川藩主・田中忠政を頼ったとも伝えられています。
この約14年間、全登は信仰を守り続けました。
禁教の圧力が強まる中でも宣教師を匿い、キリスト教のネットワークを通じて生き延びました。
キリスト教では自害が禁じられているため、潔く死を選ぶことができない。
その「死ねない」という制約が、逆に生き続ける力になったとも言えます。
5. 大坂の陣——最後の戦い
慶長19年(1614年)、大坂の陣が始まると、全登は豊臣方として大坂城に入城します。
参陣の動機については「信仰の自由を豊臣方から約束された」とする説が広く伝わっていますが、この約束の具体的な内容を示す一次史料は確認されていません。
大坂夏の陣(1615年5月)では、5月6日の道明寺の戦いで銃弾を受けて負傷しながらも後退戦を指揮し、翌日の最終決戦に備えました。
これはイエズス会の日本報告集に記録されています。
5月7日の天王寺・岡山の最終決戦では、約300名の別働隊を率いて徳川家康本陣の背後を突く奇襲作戦を担当。
神保隊を壊滅させる激戦を演じながら、最終的に包囲網を突破して戦場を離脱しました。
6. 消えた武将——落城後の謎
大坂城落城後、明石全登の消息は誰にも掴めませんでした。
徳川方の史料は「討ち取った」と記しますが、生存・落ち延び伝承も多数あります。
国史大辞典は「元和4年(1618年)に潜伏中病死」という説を採用しています。
九州・四国・東北など全国に、全登の子孫を称する一族が伝承を伝えています。
幕府は「明石狩り」と呼ばれる残党捜索を何十年も続け、1633年には薩摩にいた全登の子・明石小三郎が処刑されています。
これは、幕府が全登の戦死を確信できていなかったことを示します。
7. まとめ
明石全登(掃部)は、関ヶ原で8,000の先鋒を率い、14年間潜伏し、大坂の陣で家康本陣への奇襲を担い、そして誰にも捕まらずに歴史から消えた武将です。
「全登」という名前は後世に定着したものであり、実像には史料的な限界が多くあります。
しかし確かなことは、信仰と義理の二軸を最後まで曲げなかった一人の武将が、乱世を生きたということです。
参考文献
- 大西泰正「明石掃部の基礎的考察」『岡山地方史研究』第125号、2011年
- 大西泰正編著『宇喜多秀家と明石掃部』岩田書院、2015年
- 小川博毅著『新版 史伝 明石掃部』吉備人出版、2023年
- 高木傭太郎「明石掃部」『国史大辞典』吉川弘文館、1979年
- 松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集』同朋社
- Wikipedia「明石全登」(参照日:2026年4月28日)

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