豊臣と徳川の板挟みになった男——片桐且元とは何者だったのか?

目次

はじめに

「裏切り者」か「忠臣」か——今も評価が分かれる戦国武将がいます。

片桐且元。秀吉子飼いの武将として「賤ヶ岳七本槍」に名を連ね、豊臣秀頼を長年支えた忠臣が、晩年はかつての主家に砲撃を加える立場に立ちました。

なぜそうなったのか。
彼は本当に「裏切り者」だったのか。
一つひとつ事実を追えば、単純な裏切りでも忠義でもない、誰も答えを出せない状況の中で苦闘した人間の姿が見えてきます。

note(ノート)
片桐且元 | 板挟みの忠臣の生涯と方広寺鐘銘事件の真実|hiro | ゆる歴史かわら版 はじめに 「裏切り者」と呼ばれながら、本人は最後まで豊臣家を守ろうとしていた——そんな武将が戦国の世に存在しました。 片桐且元。 賤ヶ岳七本槍の一人にして、豊臣秀吉...

目次

  1. 片桐且元ってどんな人?
  2. 賤ヶ岳七本槍——武将としての出発点
  3. 実務官僚として豊臣政権を支えた
  4. 豊臣家老として——秀頼を支えた10年
  5. 方広寺鐘銘事件——運命の分かれ道
  6. 三条件の提示と大坂城退去
  7. 大坂の陣と最期
  8. まとめ——片桐且元をどう評価するか

1. 片桐且元ってどんな人?

片桐且元(1556〜1615年)は、近江国(現在の滋賀県長浜市)生まれの武将です。
もともとは浅井長政の家臣でしたが、1573年に浅井氏が滅亡したのち豊臣秀吉の配下に入ります。

秀吉の時代は武功と実務で地位を上げ、秀吉が死ぬと幼い秀頼の後見役(傅役)を任されました。
その後約15年にわたり豊臣家を支え続けますが、1614年の「方広寺鐘銘事件」をきっかけに大坂城を退去。
徳川方として大坂の陣に参戦し、豊臣家滅亡の約20日後に60歳で亡くなりました。


2. 賤ヶ岳七本槍——武将としての出発点

1583年(天正11年)5月、賤ヶ岳の戦いで且元は加藤清正・福島正則ら6名とともに先陣を切り、「賤ヶ岳七本槍」の一人に選ばれました。
この武功で摂津国内3,000石を与えられ、秀吉直参の武将として地位を確立します。

ただし「七本槍」という呼び名は後世のものです。
同時代の記録では恩賞を受けた武将は9名おり、7人という整理は江戸時代以降に定着しました。

このとき加藤清正や福島正則が後に50万石規模の大名になったのに対し、且元の加増は最終的に2万8千石にとどまりました。
これは秀吉が且元の才能を戦場よりも「政権の実務管理者」として評価していたためと考えられます。


3. 実務官僚として豊臣政権を支えた

且元が本当に力を発揮したのは、戦場ではなく行政の場でした。

太閤検地の奉行
1594年(文禄3年)、摂津・河内・和泉の広域検地奉行として指揮を執りました。
豊中市・茨木市・伊丹市などに現存する検地帳に且元の花押(サイン)が確認されており、実際に広域を統括していたことが一次資料で証明されています。

方広寺大仏殿の作事奉行
1586年と1607年以降の二度にわたり、秀吉・秀頼発願の方広寺大仏殿(京の大仏)建設の総奉行を務めました。
1614年に完成した梵鐘には「片桐東市正豊臣且元」の名が刻まれています。

多数の寺社再建奉行
東寺金堂・延暦寺横川中堂・熱田神宮・石清水八幡宮・北野天満宮など、国家的な文化財再建事業を次々と担当しました。


4. 豊臣家老として——秀頼を支えた10年

1598年に秀吉が死ぬと、且元は秀頼の後見人の一人に指名されます。
1604年には唯一の家老となり、豊臣家の外交・財政を一手に任されました。

関ヶ原の戦い(1600年)では家臣を西軍方に送りつつ、戦後は長女を徳川家康への人質として差し出します。
この中立的な立場が功を奏し、且元は豊臣・徳川の橋渡し役として機能し続けました。

最大の外交成果が1611年(慶長16年)の二条城会見です。
淀殿が「徳川への臣従」として上洛を拒否する中、且元は「拒めば必ず合戦になる」と現実を突きつけて説得し、家康と秀頼の直接会見を実現させました。


5. 方広寺鐘銘事件——運命の分かれ道

1614年7月、完成した方広寺梵鐘の銘文に問題が浮上します。
国家安康君臣豊楽」という銘文について、家康の側近・林羅山が「家康の名を『家』と『康』に分断した呪詛であり、豊臣の繁栄を祈る意図が隠されている」と批難しました。

豊臣家の全権交渉担当として駿府へ向かったのが且元でした。
しかし約1か月間、崇伝(以心崇伝)や本多正純と交渉を続けたものの、家康本人との面会はかないませんでした。

一方、淀殿が独自に送った使者・大蔵卿局はすぐに家康と面会し「家康は怒っていない」という楽観的な報告を持ち帰ります。この情報の落差が悲劇のもとになります。

なお、近年の研究では「家康の本来の意図は銘文の摺り潰しで事態を収めることだった」とする見方もあり、鐘銘事件の真相については今も研究が続いています。


6. 三条件の提示と大坂城退去

帰坂した且元は、豊臣家が生き残るための最後の手段として「三条件」を示しました。

① 秀頼が江戸・駿府へ参勤する
② 淀殿を人質として江戸に送る
③ 秀頼が大坂城を出て国替えとなる

どれも豊臣家が徳川に事実上従う内容です。
しかし大坂方の首脳には「家康は怒っていない」という認識があり、且元の警告は「家康と密約した裏切り者の言葉」と受け取られました。

暗殺計画が発覚し、1614年10月1日、且元は約300の兵とともに大坂城を退去。
弟・貞隆の茨木城へ向かいました。
同日、家康は大坂への出馬を諸大名に命じます——これが大坂の陣の始まりでした。


7. 大坂の陣と最期

大坂冬の陣(1614年)で且元は徳川方として大坂城への経済封鎖を指揮し、12月には備前島から本丸への砲撃に参加しました。
自分がかつて普請に関わった城を、今度は攻める立場に立ったのです。

1615年5月の大坂夏の陣では岡山口に布陣し、城内に突入。
大坂落城後、大野治長から秀頼・淀殿の助命嘆願を依頼されて秀忠に取り次ぎましたが、聞き入れられず豊臣家は滅亡しました。

豊臣家滅亡から約20日後の5月28日、且元は京都屋敷で60歳で死去。
前年来の肺病によるものとされています。


8. まとめ——片桐且元をどう評価するか

且元の生涯は、単純な善悪では語れません。

彼が豊臣家の実務を支え、外交を担い、会見を実現させたことは歴史的事実です。
同時に、かつての主家に砲撃し、秀頼母子の所在を報告したことも事実です。

坪内逍遥は「忠臣」として描きました。桑田忠親は「裏切り者」と断じました。
一方で長浜城歴史博物館の太田浩司氏は「戦場よりも事務官僚として有能だった人物」と評しています。

豊臣と徳川の間で、誰も正解を出せない状況の中に立ち続けた男——それが片桐且元という人物の実像ではないでしょうか。


参考文献

  • 曽根勇二『片桐且元』(人物叢書228、吉川弘文館、2001年)
  • 辻善之助「片桐且元論」(春秋社、1953年)
  • 草刈貴裕「方広寺大仏鐘銘事件をめぐる片桐且元と大蔵卿局の動向について」(『十六世紀史論叢』15号、2021年)
  • 則竹雄一「文禄三年摂津・河内・和泉国太閤検地帳の基礎的研究」(獨協中学高等学校研究紀要第35号、2020年)
  • 国立公文書館デジタル展示「方広寺鐘銘事件」
  • 尼崎市歴史アーカイブapedia「片桐且元」項
  • 長浜市長浜城歴史博物館「特別展 片桐且元」(2015年)
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