武田信玄も認めた上杉の鉄壁——甘粕景持(長重)とは何者か?

目次

はじめに

「信玄が謙信と見間違えた男がいる」——そう聞いても、名前を知っている人は少ないかもしれません。

甘粕景持(甘粕長重)。
戦国時代の越後の武将で、上杉謙信・景勝の二代に仕えた人物です。
派手な名声はありませんが、敵側の記録にその名が刻まれるほどの実力を持ち、裏切りが当たり前の戦国時代を一本筋を通して生き抜きました。

歴史の教科書には出てこないけれど、知れば知るほど面白い——そんな「縁の下の力持ち」を紹介します。

note(ノート)
甘粕景持(長重) | 謙信が最も信頼した武将の生涯と川中島の殿軍|hiro | ゆる歴史かわら版 はじめに 戦国時代、日本中に英雄が溢れていました。 信長、秀吉、信玄、謙信——誰もが知る名前が歴史の表舞台を飾っています。 しかし、その陰には名前すら知られることな...

目次

  1. 甘粕景持はどんな人物?
  2. 川中島の殿軍——最大の見せ場
  3. 御館の乱と新発田重家の乱——忠義の証明
  4. 晩年と甘粕家の存続
  5. まとめ——甘粕景持が教えてくれること

1. 甘粕景持はどんな人物?

甘粕景持(初名・長重)は1529年頃に生まれたとされますが、出自は謎に包まれています。
どのような家の出身かを示す確実な史料がなく、越後の小さな在地領主だったとされる程度しかわかっていません。

ところが不思議なことに、史料に初めて登場する時点(1561年)では、すでに上杉軍のトップクラスの武将として記録されています。
宇佐美定満・柿崎景家・河田長親という名将たちと並んで「御先士大将四頭(ごせんしだいしょうしとう)」の一人に名を連ねているのです。

出自不明の地方武将が、どうやって上杉軍の中枢にまで上り詰めたのか。
史料には残っていませんが、実力と信頼の積み重ね以外に説明がつきません。


2. 川中島の殿軍——最大の見せ場

景持の名を歴史に刻んだのが、1561年(永禄4年)9月10日の第四次川中島合戦です。

武田・上杉の5回にわたる川中島合戦のうち、最大規模で最も激しかったこの戦い。
謙信が武田信玄の「啄木鳥戦法」(山の上の敵を追い立て、川原で包み撃ちにする作戦)を読んで先手を打ちましたが、やがて形勢が逆転し、上杉軍は撤退を余儀なくされます。

このとき、最も危険な役割を任されたのが景持でした。

「殿軍(しんがり)」——退却する味方を守るため、最後尾で敵の追撃を一手に引き受ける任務です。
部隊が崩れれば全軍が壊滅しかねない、極限の統率力が問われる役割です。

景持は約1,000人を率いて3日間、数倍の武田軍の追撃を抑え続け、落ちこぼれた上杉兵を収容して帰還しました。

敵側が称えた「あれは謙信か?」

この活躍を伝えるのが、武田方の軍学書『甲陽軍鑑』です。
敵方の記録に「千人の部隊を少しも崩さず、謙信の本隊と見間違う者が多かった」「謙信秘蔵の侍大将のうち、甘粕近江守はかしらなり(筆頭だ)」と記されています。

「信玄が謙信本人と見間違えた」という逸話はよく語られますが、実際の記録では「多くの武田兵が見間違えた」という集団的な評価です。
信玄個人の言葉として記された一次史料は確認されておらず、この部分は後世の創作が入っている可能性があります。それでも、敵方がわざわざ称賛の言葉を残したこと自体、景持の実力の証明といえます。


3. 御館の乱と新発田重家の乱——忠義の証明

1578年(天正6年)3月、上杉謙信が突然急死します。
後継者を決めていなかったため、養子の上杉景勝上杉景虎(北条氏の子)が激しく争う「御館の乱」が起こります。

景持は景勝方に就きます。どちらを支持するかは一族の命運がかかった決断でしたが、景勝が勝利すると景持は坂戸城の城主に任じられ、引き続き信頼を受けました。

三条城将として5年以上の防衛戦

1581年(天正9年)には、新発田重家(にいばたしげいえ)という武将が恩賞に不満を持ち反乱を起こします(新発田重家の乱)。

景勝は翌年、最前線の三条城(現・新潟県三条市)の城将に景持を任命します。
これは単なる守備ではなく、新潟・沼垂方面への攻略拠点を守りながら、下越全域の情報を収集・報告するという複合的な役割でした。

現存する書状から、景持が周辺地域の動向を細かく把握し、景勝に逐次報告していたことがわかります。
景勝が繰り返し「油断するな」と書き送るほど、この防衛線は緊張の連続でした。

1586年(天正14年)には「御鉄砲大将」として新潟・沼垂方面に布陣し、敵将を討ち取る戦功を挙げて景勝から感状を受けています。
当時の鉄砲は最新兵器であり、その部隊を指揮できることは軍事的な応用力の高さを示していました。

1587年(天正15年)、新発田城が落城して反乱は終結。景持の長期防衛戦は5年以上に及びました。


4. 晩年と甘粕家の存続

反乱鎮圧後、景持は軍事指揮だけでなく行政面でも活躍します。
1595年(文禄4年)には直江兼続の命令で、越後の31か村の検地奉行(土地台帳を作る役割)を務めました。
武将が検地奉行を任されることは、直江政権中枢からの信頼を示すものでした。

1598年(慶長3年)、上杉家は豊臣政権の命令で会津(現・福島県)に移封。景持は随行して石高3,300石を与えられます。
しかし1600年の関ヶ原の戦いで上杉家が西軍について敗れ、翌年には米沢(現・山形県)へと大幅減封され、景持の知行は1,100石となりました。
最盛期の約3分の1です。

それでも景持は主家を離れませんでした。
1602年(慶長7年)に米沢で天正寺を再興し、1604年(慶長9年)6月26日に米沢で生涯を閉じます。
享年は75歳前後と推定されています。

甘粕家はその後も米沢藩士として存続し、近代まで続きました。


5. まとめ——甘粕景持が教えてくれること

甘粕景持という人物を整理すると、次のような姿が見えてきます。

  • 出自不明ながら実力で上杉軍の中枢にまで上り詰めた
  • 川中島の殿軍で、敵方の記録に称賛されるほどの統率力を見せた
  • 御館の乱・新発田重家の乱と、時代の荒波を主家への忠誠で乗り越えた
  • 軍事から行政まで、幅広い実務をこなした

華やかな英雄ではありません。
主君に先立つ大功を立てた記録もありません。
それでも彼は、謙信から景勝へという二代の主君に最後まで仕え続け、その名を敵方の記録にまで刻みました。

「縁の下の力持ち」という言葉がありますが、組織が機能するのは、景持のような人物が各持ち場を支えているからではないでしょうか。


参考文献

  • 『甲陽軍鑑』品第卅二(高坂昌信口述・小幡景憲集成、慶長〜元和初期成立)
  • 『大日本古文書 家わけ第十二 上杉家文書之一〜三』(東京大学史料編纂所編、東京大学出版会、1971年)
  • 『上越市史別編2 上杉氏文書集二』(上越市編さん委員会、2004年)
  • 『上杉家御年譜 第1巻 謙信公・第2巻 景勝公』(米沢温故会編、1989年)
  • 矢田俊文・福原圭一・片桐昭彦『上杉家分限帳——越後・新潟・米沢——』(高志書院、2008年)
  • 長野市「川中島の戦い」総合サイト「甘粕近江守景持」解説ページ
  • 新発田市公式サイト「歴史と概要 新発田重家と上杉景勝の抗争」
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA



reCaptcha の認証期間が終了しました。ページを再読み込みしてください。

目次