はじめに
室町幕府を開いた足利尊氏。
教科書では「鎌倉幕府を倒した武将」として紹介されますが、その実像はもっと複雑で人間味あふれる人物でした。
一度は幕府軍の総大将でありながら裏切って天皇側につき、その後また対立して独自の朝廷を立てる。
戦いで負けて九州まで逃げても、短期間で勢力を立て直して京都を奪還する。
そして弟と二人で幕府を運営しながら、最後には骨肉の争いを経験する――。
この記事では、そんな波乱万丈の生涯を送った足利尊氏について、最新の研究成果を踏まえながら、わかりやすく解説します。
彼はなぜ幕府を裏切ったのか、どうやって全国の武士をまとめたのか、そして室町幕府はどんな特徴を持っていたのか。
尊氏の人間性にも迫りながら、中世日本の転換期を見ていきましょう。

目次
- 鎌倉幕府への反旗~なぜ裏切ったのか~
- 九州での再起と北朝の樹立
- 建武式目と室町幕府の成立
- 兄弟による二頭政治の仕組み
- 観応の擾乱~幕府を二分した内乱~
- 禅宗への帰依と文化政策
- 尊氏の人物像~弱さと強さの両面~
- まとめ
- 参考文献
1. 鎌倉幕府への反旗~なぜ裏切ったのか~
1305年に生まれた足利尊氏(当時の名は高氏)は、源氏の名門・足利家の跡継ぎとして育ちました。
足利家は鎌倉幕府の有力な御家人で、尊氏は北条氏の娘を妻に迎えるなど、幕府との関係は良好でした。
しかし1333年、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の挙兵をすると、状況は一変します。
幕府から京都の六波羅探題を守るよう命じられた尊氏でしたが、彼は突然方針を転換し、5月7日に六波羅探題を攻撃したのです。
なぜ尊氏は幕府を裏切ったのでしょうか。
背景には、北条氏による専制政治への不満がありました。
元寇以降、功績のあった武士たちへの恩賞が不足し、多くの御家人が困窮していました。
尊氏は、もはや幕府という既存システムでは武士の利益を守れないと判断したのです。
この決断により鎌倉幕府は崩壊し、後醍醐天皇による建武の新政が始まります。
尊氏は最大の功労者として「尊氏」という名を天皇から賜りました。
2. 九州での再起と北朝の樹立
建武の新政は、天皇中心の政治を目指しましたが、武士たちの期待に応えることができませんでした。
恩賞の配分は遅れ、朝令暮改が続きます。
武士たちの不満が高まる中、1335年に尊氏は再び反旗を翻しました。
最初は京都を制圧したものの、北畠顕家や楠木正成らに敗れ、尊氏は九州まで敗走します。
しかし、ここで尊氏の真価が発揮されました。
彼は「勝利した暁には土地を与える」という約束の文書(下文)を次々と発行し、現地の武士団を味方につけたのです。
1336年3月、多々良浜の戦いで菊池氏を破り九州を制圧した尊氏は、瀬戸内海を東進します。
そして5月25日の湊川の戦いで楠木正成を討ち、京都を奪還しました。
ここで尊氏は重要な決断をします。
後醍醐天皇に対抗して、光明天皇を擁立したのです。
これが「北朝」の始まりで、吉野に逃れた後醍醐天皇の「南朝」と対立する南北朝時代が始まりました。
3. 建武式目と室町幕府の成立
1336年11月7日、尊氏は新政権の基本方針として「建武式目」17条を制定しました。
これは建武の新政の失敗を反省し、武士たちの現実的な要求に応える内容でした。
建武式目の主な内容は次の通りです。
倹約を奨励し、派手な振る舞い(婆娑羅)を禁止する。
守護は能力のある者を選ぶ。
訴訟を迅速に処理する。
金融業の復興を図る。
これらは、建武政権の理想主義とは対照的な、現実的で実務的な方針でした。
1338年8月11日、尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任命され、室町幕府が正式に成立しました。
幕府の名前は、京都の室町に将軍の御所が置かれたことに由来します。
室町幕府の大きな特徴は、鎌倉幕府の御成敗式目を基本法として継承しつつ、建武式目で時代に合わせた更新を行った点です。
これにより、武家社会の伝統を尊重しながら新しい秩序を築くことができたのです。
4. 兄弟による二頭政治の仕組み
室町幕府のもう一つの特徴は、尊氏と弟の直義による「二頭政治」でした。二人は役割を明確に分担します。
尊氏は軍事指揮と恩賞の配分を担当しました。
戦いで功績のあった武士に土地を与える権限を持ち、カリスマ性と寛大さで武士たちの忠誠を集めました。
一方の直義は、行政・裁判・日常政務を統括しました。
冷静沈着な性格で、法と証文を重視した保守的な政治を行いました。
この分業体制は、急速に拡大する武家政権を効率的に運営するための工夫でした。
尊氏が「情」の部分を、直義が「理」の部分を担うことで、複雑な利害調整を可能にしたのです。
また、室町幕府は地方統治においても新しいシステムを導入しました。
守護に大幅な権限を与え、地域の自律性を重んじたのです。
1351年の半済令では、守護が荘園の年貢の半分を軍費として徴収することを認めました。
これが後の「守護領国制」の基礎となります。
5. 観応の擾乱~幕府を二分した内乱~
二頭政治は当初うまく機能しましたが、やがて矛盾が表面化します。
1350年から1352年にかけて起きた「観応の擾乱」です。
直接のきっかけは、尊氏の側近・高師直と直義の対立でした。
師直は実力主義で革新的な政策を推進し、直義は伝統的な法秩序を重視しました。
両者の路線対立は次第に激化し、ついに武力衝突に発展します。
この内乱では、尊氏と直義が南朝・北朝の権威を使い分けながら戦うという複雑な展開となりました。
1351年には師直が殺害され、翌1352年には直義が降伏して急死します(毒殺説もありますが確証はありません)。
観応の擾乱を経て、幕府の権力構造は大きく変化しました。
二頭政治は終わり、将軍への権力集中が進みます。
また、守護の権限が強化され、後の守護大名制への道が開かれていきました。
6. 禅宗への帰依と文化政策
尊氏は武力だけでなく、宗教や文化の保護にも力を注ぎました。
特に禅宗の高僧・夢窓疎石との関係は深く、政治顧問としても重用しています。
1339年、後醍醐天皇が崩御すると、尊氏は夢窓疎石の勧めで天龍寺を建立しました。
敵対した後醍醐天皇の菩提を弔うという行為は、尊氏の宗教的な寛容さを示すものでした。
建設資金を得るため、元(中国)との貿易船「天龍寺船」を派遣し、巨額の利益を得ました。
さらに、全国66か国に安国寺と利生塔を建立し、戦没者の追善と国家の安寧を祈りました。
これらの寺院ネットワークは、禅宗文化を全国に広めるとともに、幕府の権威を地方に浸透させる役割も果たしたのです。
禅宗は武士階級に深く浸透し、五山文学や庭園文化など、室町時代の独特な文化を生み出す基盤となりました。
7. 尊氏の人物像~弱さと強さの両面~
尊氏の人物像は、同時代の他の武将と比べて際立って複雑です。
1336年、京都奪還直後に清水寺に奉納した願文には「この世は夢のようなもの、出家したい。今生の幸福はすべて直義に与えたい」と記されています。
権力の絶頂期にこのような弱音を吐くのは異例でした。
また、戦局が悪化すると「切腹したい」と口走ることもありました。
こうした不安定さは、一見すると武将として弱点のように見えます。
しかし、この「人間臭さ」こそが、周囲の武士たちに「この人を支えなければ」という忠誠心を生んだとも言われています。
一方で、九州での劣勢からの逆転劇や、観応の擾乱を乗り切った政治力は、尊氏の並外れた実行力を示しています。
恩賞配分を通じて全国の武士をまとめ上げる手腕は卓越していました。
尊氏は、小心さと豪胆さ、執着のなさと政治的野心が同居する、矛盾に満ちた人物だったのです。
8. まとめ
1358年、尊氏は54歳で京都にて病没しました。
背中の腫れ物が死因とされています。
彼の死後、嫡男の義詮が二代将軍となり、室町幕府は約240年続く長期政権となりました。
足利尊氏の生涯を振り返ると、既存の秩序を破壊し、新しい時代を切り開いた革命家としての顔が浮かび上がります。
同時に、武士たちの現実的な要求に応え、恩賞や宗教を通じて支持を集めた現実主義者でもありました。
建武式目による法整備、二頭政治という柔軟な権力分担、守護領国制という地方分権的な統治、そして禅宗を中心とした文化政策。
これらすべてが、室町時代という新しい時代の基礎となったのです。
教科書では「裏切り者」として描かれることもある尊氏ですが、彼がいなければ中世日本の歴史は大きく異なっていたでしょう。
複雑な人間性を持ちながらも、時代の転換点で決断し、行動し続けた武将――それが足利尊氏の真の姿なのです。
参考文献
一次資料
- 『太平記』(14世紀中葉成立)
- 『梅松論』(14世紀中葉成立)
- 足利尊氏自筆清水寺願文(1336年8月17日、常盤山文庫蔵、重要文化財)
- 建武式目(17条、1336年11月7日)
- 足利尊氏袖判下文(国立公文書館所蔵、1351年)
二次資料
- 佐藤進一『南北朝の動乱』中央公論社、1965年
- 亀田俊和『観応の擾乱―室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』中公新書、2017年
- 森茂暁『足利尊氏』中公新書、2017年改訂版
- Kenneth A. Grossberg & Nobuhisa Kanamoto, “The Laws of the Muromachi Bakufu: Kemmu Shikimoku (1336) and Muromachi Bakufu Tsuikahō”, Monumenta Nipponica Monographs, Sophia University, 1981
- Martin Collcutt, “Five Mountains: The Rinzai Zen Monastic Institution in Medieval Japan”, Harvard University Press, 1981
- Thomas Conlan, “State of War: The Violent Order of Fourteenth-Century Japan”, University of Michigan Center for Japanese Studies, 2003
- 福井県史『通史編2 中世』福井県、2018年
- 岡山県立古代吉備文化センター「南北朝時代のはじまり」岡山県、2010年
- 倉敷市教育委員会「亀山家文書(足利尊氏感状・足利直義下文)」

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