はじめに
戦国時代、70回以上の戦いに参加しながら、最後の長篠の戦いまで「かすり傷一つ負わなかった」という伝説的な武将がいました。
武田信玄の四天王の一人、馬場美濃守信春です。
彼は単なる猛将ではありませんでした。
築城技術に優れたエンジニアであり、冷静な戦場分析を行う戦略家でもあったのです。
武田信虎・信玄・勝頼の三代に仕え、最期は主君を逃がすため自ら殿軍を務めて散りました。
その死は、敵である織田信長の記録にまで「比類なき働き」と称賛されています。
本記事では、この「不死身の鬼美濃」と呼ばれた馬場信春の生涯と、彼が残した功績について詳しく見ていきます。

目次
- 辺境の武士から武田家の重臣へ
- 「不死身」の秘密ー冷静な戦場分析
- 築城の名手として
- 主要な戦いでの活躍
- 長篠の戦いと壮絶な最期
- 歴史的評価と遺産
1. 辺境の武士から武田家の重臣へ
馬場信春は永正年間(1514年頃)、甲斐国北西部の教来石村(現在の山梨県北杜市)に生まれました。
父は教来石信保で、一族は「武川衆」と呼ばれる甲斐国境の防衛を担う武士団の一員でした。
初陣と頭角を現す
天文5年(1536年)、21歳の信春(当時は教来石景政)は武田晴信(後の信玄)の初陣となった信濃海ノ口城攻めに参加します。
この戦いで敵将・平賀源心を討ち取る功績を挙げ、武田家中での地位を確立しました。
馬場氏の名跡継承
大きな転機は天文15年(1546年)に訪れます。
武田信玄は、かつて父・信虎によって処刑され断絶していた名門・馬場氏の名跡を、教来石景政に継承させたのです。
これにより「馬場信房」(後に信春)と改名し、50騎を率いる侍大将に抜擢されました。
この人事は単なる恩賞ではありません。
有能な人材に名門の看板を背負わせることで、古参の兵士たちへの統率力を高める戦略的な判断でした。
2. 「不死身」の秘密ー冷静な戦場分析
馬場信春が「不死身の鬼美濃」と呼ばれた理由は、単なる武勇だけではありませんでした。
彼の戦い方には、高度な危機管理の思想が貫かれていたのです。
戦場での判断基準
『甲陽軍鑑』によれば、小幡信貞(信玄の重臣)の教えを実践していたとされます。
それは「まず味方を見て、それから敵を見る。敵の中に深く入るときは、経験豊富な者と共に慎重に行動する。敵が味方の中に深く入ってきたら、敵の兜の吹き返しをよく見る」というものでした。
これは現代的に言えば、情報収集と状況分析を徹底し、勝機のある場面でのみ最大限の力を発揮するというリスクマネジメントの手法です。
猪突猛進とは対極にある「静謐なる猛勇」が、彼の40年以上にわたる無傷の軍歴を支えました。
ブランド戦略としての「鬼美濃」
永禄5年(1562年)頃、信春は120騎持に加増され、譜代家老衆に列せられます。
この頃、隠退した原虎胤から「美濃守」の受領名を継承し、「鬼美濃」の異名も引き継ぎました。
この「鬼美濃」というブランドは、実力に裏打ちされた心理戦の武器でした。
彼が前線に現れるだけで敵の戦意を削ぐという、戦わずして有利な状況を作り出す効果をもたらしたのです。
3. 築城の名手として
馬場信春のもう一つの顔は、卓越した築城エンジニアでした。
『甲陽軍鑑』によれば、山本勘助から「城取(築城術)」を伝授されたとされています。
主要な城郭プロジェクト
信春が関わった主な城郭は以下の通りです:
- 深志城(現・松本城):天文19年(1550年)に城代に就任し、信濃攻略の拠点として改修
- 牧之島城:永禄年間に築城。犀川の地形を活かした要塞
- 諏訪原城:元亀2-3年(1571-72年)頃築城。巨大な丸馬出しを備える
- 田中城:円郭式という珍しい縄張りを持つ
- 古宮城:独立丘陵を要塞化した城郭
甲州流築城術の特徴
信春の築城には、いくつかの特徴的な技術が見られます:
- 丸馬出し:虎口(入口)前面に半円形の小郭を配置
- 三日月堀:丸馬出しの外側を三日月形の堀で囲む
- 地形の活用:台地の突端部や河川の蛇行部を利用
ただし、近年の発掘調査により、諏訪原城の丸馬出しの一部は武田氏滅亡後の徳川氏による改修であることが判明しています。
それでも、基本コンセプトは馬場信春らの技術的知見に基づいていることは確かです。
4. 主要な戦いでの活躍
第四次川中島の戦い(1561年)
永禄4年(1561年)の川中島の戦いでは、山本勘助の「啄木鳥戦法」に基づく別働隊の指揮を担いました。
妻女山への夜間攻撃を率いるという重要な役割でしたが、上杉軍に察知され空振りに終わります。
しかし、別働隊を無事に八幡原へ急行させ、戦線を立て直すことに成功しました。
三方ヶ原の戦い(1572年)
元亀3年(1572年)12月の三方ヶ原の戦いでは、武田勝頼とともに第二陣を務めました。
徳川家康軍を浜松城下まで追撃した際、城の大手門が開け放たれ篝火が焚かれている様子を見て、罠を警戒して攻撃を控えたとされます。
この判断は、城郭の防御メカニズムを熟知していた信春だからこそ可能な、冷静な危機管理でした。
駿河侵攻と三増峠の戦い
永禄11-12年(1568-69年)の駿河侵攻では先鋒を務め、三増峠の戦いでも主力として活躍しました。
『甲陽軍鑑』には、今川館焼き討ちの際、他の武将が財宝を持ち去るのを見て自分の分を焼却したという清廉の逸話も残されています。
5. 長篠の戦いと壮絶な最期
天正3年(1575年)5月21日、馬場信春61年の生涯は、長篠の戦いで幕を閉じます。
撤退進言と決戦
織田・徳川連合軍が設楽原に築いた馬防柵と鉄砲陣地を見て、信春は山県昌景らとともに撤退を進言したとされます(『甲陽軍鑑』の記述、『信長公記』には記載なし)。
しかし勝頼は決戦を選択しました。
丸山での戦闘
信春は武田軍右翼の中核に約700の兵で配され、丸山に陣を構えました。
正面には佐久間信盛隊約6,000が対峙します。
『甲陽軍鑑』によれば柵の内に追い込むほどの奮戦をしたとされますが、圧倒的な火力と兵力差の前に配下は80名まで激減しました。
殿軍としての最期
武田軍の壊滅が決定的となると、信春は勝頼を逃がすため自ら殿軍を務めます。
勝頼の退却を見届けた後、豊川(寒狭川)沿いの出沢で反転突撃し、壮絶な戦死を遂げました。
敵方の記録である『信長公記』は、その最期を「中にも、馬場美濃守手前の働き、比類なし」と記しています。
これは織田方の一次史料が敵将を名指しで称賛した極めて稀な事例であり、馬場信春の武人としての力量を客観的に裏付ける最も重要な記述です。
6. 歴史的評価と遺産
敵からも惜しまれた武将
馬場信春の死は、敵である織田信長からも深く惜しまれました。
その自己犠牲の精神と、武将としての気高い仕事ぶりが、敵味方の境界を超えて尊敬を集めていたのです。
技術的遺産
信春が確立に関与した甲州流の築城術は、武田氏滅亡後に徳川氏へと引き継がれ、近世城郭の発展に大きな影響を与えました。
特に「馬出し」の概念は、その後の日本の城郭建築における標準的な防御機構となっていきます。
史料的課題
一方で、歴史学的には課題も残ります。馬場信春自身が発給した龍朱印状(武田家の公的文書)は一通も確認されていません。
同じ四天王の山県昌景が龍朱印状の奏者として武田軍政の中枢にいたことが一次文書で確認されているのとは対照的です。
このため、信春の実際の地位は『甲陽軍鑑』の描写ほど高くなかった可能性も指摘されています。
彼の実権は、野戦指揮と築城という実務部門に限定されていたのかもしれません。
後世への影響
それでも、馬場信春の「生涯無傷」という逸話は、江戸時代を通じて武士の理想像として語り継がれました。
彼は単なる戦士ではなく、技術・知略・忠誠心を高次元で融合させた「完成された武人」として認識されていたのです。
また、武田家滅亡後、信春の子孫や旧配下の武士たちは徳川家康に召し抱えられました。
彼の娘は徳川の重臣・鳥居元忠の妻(または側室)となり、子孫を残しています。
信春の技術的遺産と精神的遺産は、勝者である徳川氏の体制の中に吸収され、近世社会へと引き継がれていったのです。
まとめ
馬場信春は、1514年頃から1575年までの激動の60年間を、武田家という組織の屋台骨として駆け抜けました。
彼の「不死身」の伝説は、徹底した現状分析に基づいた危機管理能力の賜物でした。
また、彼が手がけた堅城の数々は、土木エンジニアリングにおける卓越した知見を証明しています。
特に注目すべきは、信玄という偉大な指導者の後を継いだ勝頼を、厳しい進言を行いながらも最後まで守り抜いた姿勢です。
個人の感情や名誉以上に組織の目的を優先する、現代にも通じる高度なフォロワーシップを体現していました。
長篠の戦いにおいて、時代が「騎馬から鉄砲へ」と大きくシフトする瞬間を、彼は丸山の砦から冷静に見届けていました。
自らの死を賭して主君を救ったその決断は、中世武士道の終焉と、新たなプロフェッショナルな武将像の始まりを告げる象徴的な出来事だったのです。
参考文献
一次史料
- 『信長公記』巻八(太田牛一著、16世紀末成立)
- 『甲陽軍鑑』品第6・25・34・35・39・52他(高坂昌信口述、小幡景憲編、天正3年~元和年間成立)
- 『寛政重修諸家譜』巻第184(江戸幕府編纂、寛政年間)
- 『甲斐国志』武家部(松平定能命、内田清宣ら編、文化11年/1814年)
- 『高白斎記(甲陽日記)』(駒井高白斎、16世紀中葉)
二次史料(学術)
- 酒井憲二『甲陽軍鑑大成』全7巻(汲古書院、1994-1998年)
- 鴨川達夫『武田信玄と勝頼―文書にみる戦国大名の実像』(岩波新書1065、2007年)
- 平山優「馬場信春」(柴辻俊六編『新編武田信玄のすべて』所収、新人物往来社、2008年)
- 小和田哲男「戦国武将 馬場美濃守信房」自元寺開創450年記念講演録(2022年)
Web資料
- 長野市公式サイト「川中島の戦い・主要人物」
- 日本城郭協会『城びと』関連記事
- PHP研究所『歴史街道WEB』「武田の名将・馬場信春~その働き、比類なし」

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