三浦同寸(義同)の最期―相模名門の滅亡と戦国時代の到来

目次

はじめに

三浦半島の先端、油壺と呼ばれる静かな入り江に、かつて壮絶な戦いの舞台となった城がありました。
永正13年(1516年)7月11日、この新井城で鎌倉以来の名門・三浦氏が滅亡します。当主の三浦義同(道寸)が最期に詠んだとされる「討つものも 討たるる者も かわらけよ くだけて後は もとの土くれ」という辞世の句は、敵も味方も土器のように砕ければ元の土に戻るという無常観を表現し、今なお多くの人の心に響いています。

この記事では、戦国時代の到来を象徴する三浦義同の生涯と、北条早雲との死闘、そして名門の滅亡について、分かりやすく解説します。

はじめに

三浦半島の先端、油壺と呼ばれる静かな入り江に、かつて壮絶な戦いの舞台となった城がありました。
永正13年(1516年)7月11日、この新井城で鎌倉以来の名門・三浦氏が滅亡します。
当主の三浦義同(道寸)が最期に詠んだとされる「討つものも 討たるる者も かわらけよ くだけて後は もとの土くれ」という辞世の句は、敵も味方も土器のように砕ければ元の土に戻るという無常観を表現し、今なお多くの人の心に響いています。

この記事では、戦国時代の到来を象徴する三浦義同の生涯と、北条早雲との死闘、そして名門の滅亡について、高校生の皆さんにも分かりやすく解説します。

note(ノート)
三浦道寸 | 三年の籠城戦で散った相模の雄|hiro | ゆる歴史かわら版 はじめに 「討つものも 討たるる者も かはらけよ くだけて後は もとの土くれ」 これは、永正13年(1516年)7月11日、三浦半島の断崖絶壁に築かれた新井城で散った武将・三...

目次

  1. 三浦氏とは―鎌倉以来の名門
  2. 義同の出自と複雑な家督継承
  3. 文化人としての義同
  4. 北条早雲との対決
  5. 新井城籠城戦―3年間の抵抗
  6. 永正13年7月11日―名門の最期
  7. 油壺伝説と後世への影響

1. 三浦氏とは―鎌倉以来の名門

三浦氏は平安時代末期から三浦半島を拠点とした武士団で、源頼朝の挙兵を支援した鎌倉幕府創業の功臣です。
治承4年(1180年)、惣領の三浦大介義明は衣笠城で源頼朝を支援して討死しました。
その後、子の三浦義澄は鎌倉幕府の宿老として重用され、孫の三浦義村は北条氏と並ぶ権勢を誇りました。

しかし宝治元年(1247年)、北条時頼との対立により嫡流が滅亡します(宝治合戦)。
その後、傍流が三浦氏を継承し、室町時代には関東管領・扇谷上杉氏の重臣として相模国に勢力を維持しました。

2. 義同の出自と複雑な家督継承

三浦義同は15世紀中頃、扇谷上杉氏の出身である三浦高救の子として生まれました。
母は小田原城主・大森氏の娘です。
当時の三浦氏当主・時高に男子がいなかったため、義同は養子として迎えられました。
これは上杉氏が三浦氏を統制下に置くための政略的な養子縁組でした。

ところが、時高に実子・高教が誕生すると、義同の立場は一変します。
廃嫡の危機に直面した義同は、一時期出家して「道寸」と号しました。長享2年(1488年)の『梅花無尽蔵』には既に「道寸翁」として記録されており、この時期には出家していたことが分かります。

明応3年(1494年)頃、義同は三浦氏の家督を掌握します。
この経緯について、従来の軍記物では義同が新井城を攻めて時高・高教父子を自害に追い込んだとされてきました。
しかし近年の研究では、武力奪取説を否定し、平和的な家督継承であった可能性も指摘されています。
いずれにせよ、この家督継承は三浦家内部に不和の種を残すことになりました。

3. 文化人としての義同

義同の特筆すべき点は、武将でありながら高い文化的素養を持っていたことです。

明応7年(1498年)、義同は京都の高僧17人に屏風便面の讃を依頼し、漢詩39首と漢文1章を贈られています。
東国の武将が京都の宗教界・文化界と直接交流していた事実は、義同の文化的ネットワークの広さを示しています。

また、三浦市圓照寺には義同が書写したとされる『古今和歌集』写本が現存し、『新横須賀市史』には「伝三浦道寸筆古筆切」が15点確認されています。
義同は和歌や漢詩の書写を熱心に行っていました。

このような文化活動は単なる趣味ではなく、京都の公家や他国の大名との情報収集や外交の手段として活用されていたと考えられます。
戦国時代において、文化は重要な政治的武器だったのです。

4. 北条早雲との対決

義同の最大の敵となったのが、伊勢宗瑞(北条早雲)でした。
早雲は延徳3年(1491年)に伊豆を掌握し、明応4年(1495年)頃には義同の母方の実家である大森氏から小田原城を奪取しました。
これにより、三浦氏の最大の支援者が失われます。

明応7年(1498年)、義同は早雲と和睦し、伊豆を二分する協定を結びました。
早雲が伊豆半島を、義同が伊豆諸島を管轄するという取り決めです。
しかしこの和睦は約14年間しか続きませんでした。

永正7年(1510年)、義同は扇谷上杉朝良と連携して早雲方の住吉要害や高麗寺城を攻略し、小田原城にまで迫りました。
この反撃により、義同は相模国中郡を獲得し、岡崎城を拠点として勢力の頂点に達します。

5. 新井城籠城戦―3年間の抵抗

しかし、この最大版図は長く続きませんでした。

永正9年(1512年)8月7日、早雲は岡崎城への攻撃を開始します。
義同は防戦しましたが、8月12日には敗北し、弟・三浦道香が守る住吉城(逗子市)へ退却しました。

早雲の戦略は極めて緻密でした。
同年10月、早雲は三浦半島の入り口にあたる鎌倉に玉縄城を築城し、次男・北条氏時を城主に据えます。
この玉縄城は、扇谷上杉氏の武蔵方面からの援軍を物理的に遮断する拠点として機能しました。

永正10年(1513年)7月頃、住吉城も落城し、道香は延命寺で自害します。
これにより三浦氏は新井城1城に完全に封じ込められました。

新井城は三浦半島西岸、小網代湾と油壺湾の間に突出する標高26mの岬状台地に位置し、三方を海に囲まれた天然の要害でした。
陸路は北方約3kmの「外の引橋」のみであり、有事にはこの引橋を落として島城と化す構造でした。

義同・義意父子は、この難攻不落の城で永正10年から13年までの約3年間にわたる籠城戦を維持します。
三浦水軍を活用した海路からの補給が籠城を可能にしており、永正11年(1514年)には八丈島へ軍勢を送り、海路で年貢を新井城へ輸送させています。

一方、扇谷上杉氏は義同救援を複数回試みましたが、いずれも玉縄城で早雲に阻止されました。
永正11年5月には上杉朝良・長尾景長が出陣しましたが、新井城の包囲を解くには至りませんでした。

6. 永正13年7月11日―名門の最期

永正13年(1516年)7月、扇谷上杉朝興が最後の援軍として玉縄城を攻撃しましたが、早雲によって打ち破られました。
この時点で、三浦氏の外部支援は完全に絶たれます。

同月11日、新井城はついに落城しました。
義同は自害し、子の義意は父の切腹を見届けた後、敵中に突撃して討死したと伝えられます。

義同の辞世として「討つものも 討たるる者も かわらけよ くだけて後は もとの土くれ」という句が『北条五代記』に記録されています。
ただし、同書より前に成立した『北条記』にはこの辞世の記載がなく、後世の付加である可能性も指摘されています。

いずれにせよ、この句が表現する無常観は、激しい殺戮の果てにある虚無と、仏教的な世界観を見事に示しており、多くの人の心に響き続けています。

7. 油壺伝説と後世への影響

三浦氏の滅亡に関する最も有名な伝承が「油壺」の地名由来です。
城が陥落した際、多くの将兵が海へ身を投げ、湾一面が三浦一族の血で赤く染まり、まるで油を流したように淀んで見えたことから「油壺」と呼ばれるようになったといいます。

三浦氏滅亡後、伊勢宗瑞(北条早雲)は相模国全域の統一を完成させました。
この戦いは、血統と家格に基づく中世的な支配秩序が、戦略と実力に基づく戦国大名の支配に置き換わっていく過程を象徴しています。

現在、新井城跡の大部分は東京大学臨海実験所の敷地内にあり、立ち入りは原則禁止されています。
しかし三浦市三崎町小網代には三浦義同公墓所(供養塔)が建ち、道寸の辞世が刻まれています。
毎年5月には三浦市主催の「道寸祭り」が開催され、三浦一族供養祭と笠懸が披露されています。

三浦義同の生涯は、滅びゆく時代の美学を体現し、その最期を通じて武人の誇りと教養を後世に刻んだものとして、今なお多くの人々の記憶に残っているのです。


参考文献

  1. 神奈川県立公文書館「The Rise and Fall of the Odawara Hojo Family」(2024年)
  2. 黒田基樹「戦国期扇谷上杉氏の政治動向―朝良・朝興を中心として―」『第五巻 扇谷上杉氏』戎光祥出版(2012年)
  3. 真鍋淳哉『三浦道寸―伊勢宗瑞に立ちはだかった最大のライバル』戎光祥出版(2017年)
  4. 家永遵嗣「三浦義同」『戦国人名辞典』吉川弘文館(2006年)
  5. 武藤康弘「三浦市新井城趾」『第17回神奈川県遺跡調査・研究発表会発表要旨』(1993年)
  6. 玉川文化財研究所『新井城跡発掘調査報告書』(2020年)
  7. 三浦市役所「観光解説板」各種
  8. 川崎市教育委員会『学び館かわさきニュース』2025年3月号
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