はじめに
戦国時代の「謀反人」として知られる明智光秀。
しかし、本能寺の変で織田信長を討った「逆賊」というイメージだけで彼を語ることはできません。
光秀は実は、城下町の経済振興や治水事業、軍制改革など、近世的な統治システムを先駆的に実践した革新的な領主でした。
わずか数年の統治期間に、福知山では今も「名君」として慕われる基盤を築き上げたのです。
本記事では、史料に基づいて明智光秀の統治の実像に迫ります。

目次
- 福知山での革新的な経済政策
- 坂本城と琵琶湖水運の掌握
- 織田家唯一の明文化された軍法
- 文化人としての光秀
- 本能寺の変から山崎の戦いへ
- なぜ福知山では「名君」なのか
- 参考文献
1. 福知山での革新的な経済政策
1579年、光秀は丹波国を平定すると、横山城を改修して福知山城を築きました。
ここで光秀が実施したのが、当時としては画期的な経済政策です。
光秀は城下町の商工業者に対して「地子銭」(宅地税に相当する税金)を免除しました。
戦国時代は略奪や重税が当たり前の時代でしたから、この免税政策は周辺地域から商人や職人を呼び込む強力な誘因となりました。
この政策は信長の楽市楽座に倣ったものとされ、福知山の経済発展に大きく貢献しています。
さらに光秀は由良川の治水事業にも取り組みました。
福知山城下は由良川と土師川の合流点に位置し、洪水の被害を受けやすい土地でした。
光秀は蛇ヶ端から鋳物師町まで約1キロメートル以上にわたる堤防を築き、その前面に竹藪を植林して水流の衝撃を緩和する仕組みを作りました。
この堤防は「明智藪」と呼ばれ、生態系を活用した防災の先駆的事例として評価されています。
2. 坂本城と琵琶湖水運の掌握
1571年、比叡山焼き討ちの直後、光秀は琵琶湖畔に坂本城の築城を開始しました。
この城は単なる軍事拠点ではなく、琵琶湖の水運を支配する物流の要でした。
近年の発掘調査により、坂本城には幅約9メートルの堀や大量の瓦が確認されています。
これは安土城(1576年築城開始)に先行する織豊系城郭の特徴を示すもので、城郭建築史上重要な発見です。
宣教師ルイス・フロイスは「安土城に次ぐ天下第二の城」と記録しており、その壮麗さがうかがえます。
坂本城の最大の特徴は「水城」としての構造でした。
城内から直接船に乗れる仕組みになっており、北陸や東国から京都へ向かう物資(米、海産物、木材など)の集積地として機能していました。
光秀はこの琵琶湖水運を掌握することで、織田政権の経済基盤を支える重要な役割を担ったのです。
3. 織田家唯一の明文化された軍法
1581年6月2日、光秀は福知山城において「明智光秀家中軍法」を制定しました。
全18条からなるこの軍法は、織田家臣団の中で唯一明文化された軍事規定です。
軍法の内容は実に具体的です。100石につき6人の動員を基準とし、500〜600石で総人数30人・甲(鎧を着た武者)2人・馬2頭・鉄砲2挺といった詳細な装備規格が定められていました。
また、陣中での私語禁止、遅参者への領地没収、命令系統の厳守など、厳格な規律も規定されています。
この軍法は、個々の武勇を誇る中世的な「騎士」の集団から、指揮官の命令で機能的に動く近代的な「兵士」の集団への転換を目指したものでした。
歴史家の高柳光寿は「当時における信長配下の諸将の軍隊の構成をも推測し得られる資料」と評価しています。
4. 文化人としての光秀
光秀は武将としてだけでなく、教養ある文化人としての顔も持っていました。
連歌では、1568年に細川藤孝に伴われて初めて連歌会に参加して以来、技量を磨き続けました。
1582年5月24日(本能寺の変の約1週間前)には、愛宕山で「愛宕百韻」を主催しています。
当代随一の連歌師・里村紹巴を招聘できた事実は、光秀の京都文化圏における深い人脈を示しています。
茶の湯においても、光秀は天正6年(1578年)に信長から茶会開催を許可された12名の家臣の一人に選ばれました。
津田宗及や今井宗久ら当代一流の茶人と交流し、坂本城で12回の茶会を開催しています。
堺の豪商との茶会は、単なる遊興ではなく、鉄砲や火薬といった軍需物資の安定調達にもつながる重要な政治活動でした。
5. 本能寺の変から山崎の戦いへ
1582年6月2日未明、光秀は約1万3千の兵で本能寺を襲撃し、信長を自害に追い込みました。
変後、光秀は細川藤孝や筒井順慶らに協力を要請しましたが、いずれも拒否されました。
「主殺し」という行為は、当時の武家社会では許されざる大罪だったのです。
6月13日、山崎で羽柴秀吉軍と激突した光秀軍は、兵力差(明智軍約1万3千〜1万6千に対し羽柴軍約4万)もあり、約1時間半で総崩れとなりました。
光秀は脱出を試みましたが、小栗栖で落武者狩りに遭い死亡しました。
本能寺の変から敗死までわずか11日間、いわゆる「三日天下」でした。
6. なぜ福知山では「名君」なのか
全国的には「逆賊」とされる光秀が、福知山では今なお「名君」として慕われているのはなぜでしょうか。
その理由は、光秀の実施した具体的な善政にあります。
地子銭免除による経済振興、治水事業による安全確保、そして領民の安全を守る姿勢が、人々の記憶に深く刻まれたのです。
光秀の死後、福知山で火災や洪水が頻発すると、人々はこれを「光秀の祟り」として恐れ、1705年に御霊神社に光秀を合祀しました。
明治時代には「謀反人を崇めることの禁止」という通達がありましたが、市民によって関連資料は守られました。
現代では福知山市の重要な文化資源として、市のキャラクター「光秀くんとひろこさん」や市の花である桔梗(明智家の家紋)など、多面的に顕彰されています。
光秀の真価は「謀反人」としてではなく、わずかな統治期間に近世都市の原型を完成させた、その卓越した行政手腕と構想力において評価されるべきでしょう。
彼が実践した経済政策や軍制改革は、後の豊臣・徳川政権が採用する統治システムの先駆けとなったのです。
7.参考文献
- 『信長公記』太田牛一(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 『兼見卿記』吉田兼見(八木書店『史料纂集古記録編 新訂増補 兼見卿記』)
- 『日本史』ルイス・フロイス(中央公論社『完訳フロイス日本史』)
- 明智光秀家中軍法(紙本墨書)御霊神社蔵、福知山市指定文化財
- 明智光秀覚条々(細川宛書状)永青文庫蔵、重要文化財
- 『福知山市史 第2巻』福知山市(1978年)
- 『由良川改修50年史』建設省近畿地方建設局福知山工事事務所(1998年)
- 『明智光秀』高柳光寿、吉川弘文館(1958年、新装版1986年)
- 『織田信長家臣 明智光秀』金子拓、平凡社新書(2019年)
- 坂本城跡発掘調査報告書、大津市教育委員会(2008年)

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