はじめに
「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」―三日月に向かってこう祈ったとされる武将がいます。
山中鹿介幸盛。戦国時代、滅亡した主家・尼子氏の再興に生涯を捧げた伝説的な忠臣です。
わずか34年の人生で、3度にわたる再興戦を展開し、織田信長や羽柴秀吉とも手を結びながら、強大な毛利氏に立ち向かい続けました。
しかし運命は彼に味方せず、最期は護送中に謀殺されるという悲劇的な結末を迎えます。
本記事では、史実に基づいて山中鹿介の波乱に満ちた生涯を追い、戦国時代における「忠義」の意味を考えます。

目次
- 山中鹿介の出自と尼子氏の興亡
- 主家滅亡と再興への誓い
- 第1期再興運動―出雲奪還の夢
- 第2期再興運動―因幡での苦闘
- 織田信長への臣従と第3期再興運動
- 上月城の悲劇と最期
- 「七難八苦」の精神と後世への影響
1. 山中鹿介の出自と尼子氏の興亡
山中鹿介幸盛は、天文14年(1545年)頃、出雲国富田庄(現在の島根県安来市広瀬町)に生まれました。
山中家は、近江源氏佐々木氏の流れをくむ尼子氏の一門衆であり、代々尼子氏に仕える譜代の重臣でした。
幸盛の父・満幸は尼子経久・晴久の2代に仕えましたが、幸盛が生まれた翌年に亡くなり、幸盛は幼くして家督を継ぐことになります。
尼子氏は室町時代に出雲守護代として台頭し、経久の時代には山陰・山陽11カ国に勢力を拡大する戦国大名となりました。
石見銀山の支配権をめぐって周防の大内氏や安芸の毛利氏と抗争を繰り広げ、最盛期には中国地方の覇者として君臨していました。
しかし永禄3年(1560年)、当主・晴久が急死すると、その子・義久の代で勢力は急速に衰退します。
2. 主家滅亡と再興への誓い
永禄6年(1563年)、幸盛が史料に初めて登場するのは白鹿城救援戦でした。
毛利軍の攻撃に対し、幸盛は約200の兵を率いて殿軍を務め、吉川元春・小早川隆景の追撃を7度にわたって撃退する武功を挙げました。
永禄8年(1565年)には、毛利方の猛将・品川将員との一騎討ちに勝利し、「山陰の麒麟児」の異名を得ます。
しかし永禄9年(1566年)11月、毛利元就による1年余りの兵糧攻めに耐えかねた尼子義久は降伏し、月山富田城は落城しました。
義久と弟2名は毛利氏の虜囚となり、尼子氏は滅亡します。
このとき幸盛は20歳前後でしたが、主家再興への決意を固めました。
3. 第1期再興運動―出雲奪還の夢
永禄11~12年(1568~1569年)、幸盛は京都・東福寺で僧侶となっていた尼子勝久を還俗させ、再興軍の盟主として擁立しました。
勝久は尼子誠久の遺児で、義久の従弟にあたります。
幸盛は約3,000名の尼子遺臣を糾合し、1569年6月23日、但馬から海路で島根半島に上陸しました。
「御一家再興」を訴えると、わずか5日間で旧臣3,000余が結集します。
勝久軍は新山城を攻略して本拠とし、毛利方の城を16カ所も攻略して出雲地方をほぼ掌握しました。
しかし元亀元年(1570年)2月14日の布部山の戦いで、尼子軍は吉川元春に大敗を喫します。
元亀2年(1571年)8月、最後の拠点・新山城が落城し、第1期再興運動は終焉を迎えました。
幸盛は吉川元春に捕縛され米子の尾高城に幽閉されましたが、赤痢を装って脱走に成功したと伝えられています。
4. 第2期再興運動―因幡での苦闘
天正元年(1573年)、幸盛は因幡国(現在の鳥取県)へ転戦しました。
山名豊国の軍勢に加わって武田高信と戦い、甑山城の戦いで勝利すると、鳥取城を攻略します。
天正3年(1575年)には若桜鬼ヶ城を拠点とし、一時は東因幡一円を支配下に置きました。
しかし同年、但馬の山名祐豊が毛利輝元と和睦し、同盟者の浦上宗景も宇喜多直家に敗れるなど、状況は悪化します。毛利軍約47,000の大攻勢を受け、天正4年(1576年)には因幡から撤退を余儀なくされました。
5. 織田信長への臣従と第3期再興運動
天正4年(1576年)頃、幸盛は明智光秀の仲介で織田信長に謁見し、中国攻めの先鋒として働くことを約束しました。丹波籾井城攻めでは光秀の殿軍を務めて窮地を救い、天正5年(1577年)には織田信忠軍に配属されて片岡城攻めで一番乗り、信貴山城攻めで二番乗りの功を挙げています。
同年10月以降、幸盛は羽柴秀吉の播磨攻めに参加しました。
毛利方の上月城を攻略すると、秀吉は尼子勝久・幸盛主従に同城を与えます。
上月城は備前・美作・播磨の国境に位置する要衝であり、尼子軍はここを再興の「橋頭堡」として位置づけました。
6. 上月城の悲劇と最期
天正6年(1578年)2月、三木城の別所長治が織田信長に反旗を翻します。
これに呼応して毛利軍は播磨侵攻を開始し、4月18日、吉川元春・小早川隆景率いる約3万の大軍が上月城を包囲しました。
城方は勝久以下約2,000~3,000であり、10倍近い兵力差がありました。
秀吉は高倉山に約1万の軍で布陣し、織田信忠を総大将とする援軍も到着しましたが、6月16日、信長から「三木城を落とすことが先決。上月城は見捨てよ」との命令が下ります。
秀吉は撤退を余儀なくされ、尼子軍は孤立無援となりました。
約70日間の包囲により兵糧が尽き、7月3日(別資料では7月5日)、勝久は城兵助命を条件に開城を決定します。
尼子勝久は享年26で自刃し、嫡男・豊若丸、弟・氏久、尼子通久、神西元通ら53名も共に自害しました。
幸盛は家臣・遠藤勘介に書状(絶筆)を与え、他所への奉公を許可しています。
7月17日、備中国阿井の渡し(現在の岡山県高梁市落合町阿部)で、護送中の幸盛は毛利家臣の福間元明(または河村新左衛門)によって謀殺されました。
享年34歳でした。
殺害を命じた者については諸説あり、毛利輝元の判断説、小早川隆景の進言説、足利義昭命令説などが伝えられています。
吉川元春は殺害を知って哀れみ、「尼子家の忠臣なれば、この品永く秘蔵すべし」と幸盛の兜を家宝としました。
幸盛の首は備中松山城の輝元が検分した後、鞆の浦で足利義昭も実見し、首塚が築かれました。
7. 「七難八苦」の精神と後世への影響
「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという逸話は、山中鹿介を語る上で欠かせないエピソードです。
この話は小瀬甫庵『甫庵太閤記』が初出とされ、頼山陽の漢詩で広まりました。
昭和11年(1936年)には国定教科書「三日月の影」で紹介され、「忠君の士」として賞揚されました。
ただし、この逸話の史実性については疑問視されています。
『信長公記』などの同時代史料には記載がなく、江戸時代の軍記物や講談が由来とみられます。
しかし、史実ではなくとも、この「物語」は日本人の精神史において重要な役割を果たしました。
幸盛の長男・山中幸元は他家に預けられて生き延び、武士を辞して摂津国で酒造業を始めました。
清酒醸造に成功して「鴻池新六」と改名し、大坂を代表する豪商・鴻池財閥の祖となります。
鴻池家は「七難八苦」の精神を家訓として重んじました。
また近代においても、ニッカウヰスキー創業者・竹鶴政孝がこの精神に共鳴し、ウイスキー造りの苦難を乗り越える支えとした逸話が残されています。
山中鹿介の生涯は、滅亡した主家への忠義を貫いた武将の物語として、後世に語り継がれてきました。
しかし近年の研究では、尼子再興運動は「ロマン」ではなく「勝算」に基づく組織的な軍事行動として再評価されています。
幸盛は単なる忠臣ではなく、織田信長という中央権力と結びつき、高度なゲリラ戦と情報戦を展開した「戦国末期のレジスタンス・リーダー」だったのです。
高梁川のほとりに残る墓標と、安来に残る一騎討ちの跡は、事実と伝説が交錯する彼の人生の二つの極―武勇と悲劇―を今に伝えています。
参考文献
一次史料
- 天正6年7月8日付山中幸盛書状(絶筆)、吉川史料館所蔵(国指定重要文化財)
- 鉄錆十二間筋兜(山中幸盛所用)、吉川史料館所蔵(国指定重要文化財)
- 『信長公記』巻十一、太田牛一著
二次史料(学術)
- 長谷川博史『戦国大名尼子氏の研究』吉川弘文館、2000年
- 中野賢治「尼子家の『御一家再興』戦争と山中幸盛」島根歴史講座資料、島根県古代出雲歴史博物館、2021年
- 松田修「山中鹿介異聞:『義残後覚』に見る「戦国咄」のありかた」慶應義塾大学学術情報リポジトリ
公的資料
- 『松江市史』通史編2 中世、松江市史編集委員会、2016年
- 島根県古代文化センター編『出雲尼子史料集』、1999年頃
- 佐用町企画財政部「上月城と上月合戦」佐用町公式サイト
- 高梁市観光ガイド「山中鹿介の墓」
その他
- 『陰徳太平記』香川正矩、宝暦14年(1764年)
- 『雲陽軍実記』17世紀前半成立
- 伊丹市「山中鹿介と新六の親子物語」

コメント