はじめに
父を殺され、2歳で家を失い、逃亡生活を送った少年が、わずか20年後には徳川家臣団のトップに立つ―。
井伊直政の生涯は、まさに戦国時代の「下剋上」を体現した物語です。
真紅の甲冑に身を包み、「井伊の赤鬼」と恐れられた彼は、武勇だけでなく、外交や調整役としても卓越した才能を発揮しました。
徳川四天王の最年少として家康の天下統一を支えた直政の42年の生涯を、史実に基づいてわかりやすく紐解いていきます。

目次
- 井伊家の危機と幼少期の逆境
- 家康との出会いと急速な出世
- 「井伊の赤備え」誕生の戦略
- 関ヶ原での活躍と致命的な負傷
- 戦後処理に見る外交手腕
- 42歳の早すぎる死と遺産
- 参考文献
1. 井伊家の危機と幼少期の逆境
永禄4年(1561年)、井伊直政は遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市)で、国人領主・井伊直親の嫡男として生まれました。幼名は虎松。
しかし翌年、父・直親が主君である今川氏真から謀反の疑いをかけられ、わずか2歳で父を失います。
幼い直政も命を狙われる立場となり、新野親矩の助命嘆願によってかろうじて一命を取り留めました。
永禄7年(1564年)に親矩が戦死すると、虎松は井伊家の存続を図るため出家を装い、三河国鳳来寺に身を隠します。
この間、井伊家は女性当主・井伊直虎が統治を担い、家名の存続を懸命に守りました。
この苦難の幼少期は、直政の人格形成に大きな影響を与えたでしょう。
彼は戦国の世の厳しさを幼くして体験し、後に家康に対して示す絶対的な忠誠心の源泉となりました。
2. 家康との出会いと急速な出世
天正3年(1575年)、15歳の直政に転機が訪れます。
家康の鷹狩りの際、井伊直虎や南渓瑞聞の画策により、直政は家康との対面を果たしました。
家康はこの若者の器量を見抜き、小姓として召し抱えます。
直政は「井伊万千代」と改名し、念願の井伊家再興を許可されました。
直政の昇進スピードは驚異的でした。
天正4年(1576年)には遠江で3,000石、天正8年(1580年)には2万石、天正10年(1582年)の元服時には駿河国で4万石の加増を受けます。
三河譜代の古参家臣を差し置いてのこの大抜擢は、家康の直政に対する信頼の厚さを物語っています。
家康にとって直政は特別な存在でした。
三河武士団のしがらみから自由で、自身の意図を忠実に実行する「手足」として機能する人材だったのです。
3. 「井伊の赤備え」誕生の戦略
天正10年(1582年)、武田氏滅亡後の混乱期に、直政のキャリアを決定づける出来事が起こります。
家康は武田旧臣約800名を帰順させ、そのうち精鋭部隊である「赤備え」隊を22歳の直政に預けました。
配属された人数については、直政の直轄となったのが約110-120名程度とされています。
赤備えとは、武田軍の猛将・山県昌景や飯富虎昌が率いた部隊で、甲冑から旗指物まですべてを朱色で統一した精鋭騎馬隊です。
家康がこの象徴的な部隊を新参の直政に預けたのは、敗者の軍事技術を否定せず積極的に継承するという、画期的な人事戦略でした。
朱色の統一には実用的な効果もありました。
戦場で自軍を一目で識別できるため、混戦の中でも効率的に指揮できます。
さらに心理的な効果も絶大で、かつて徳川軍を苦しめた武田の精鋭が復活したことを天下に示すプロパガンダとなりました。
天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いで「井伊の赤備え」は初陣を飾ります。
直政は徳川本隊前衛3,000人を率い、鉄砲300挺を配置して秀吉軍と交戦。
森長可を討ち取る大功を立て、24歳にして「井伊の赤鬼」の異名を天下に轟かせました。
4. 関ヶ原での活躍と致命的な負傷
慶長5年(1600年)9月15日、天下分け目の関ヶ原の戦いで、直政は東軍の軍監として約3,600人を指揮しました。
先鋒は福島正則と定められていましたが、直政は娘婿の松平忠吉とともに制止を振り切り、最初に発砲して開戦の口火を切ります。
この「抜け駆け」には深い政治的意図がありました。
徳川家の人間が緒戦を飾ることで、この戦いが徳川主導であることを天下に示すためです。
外様大名に先陣を任せれば、勝利後の論功行賞で彼らの発言力が増大してしまうからです。
戦闘終盤、西軍の島津義弘が決行した「島津の退き口」(敵中突破による撤退)を追撃した際、直政は島津軍の柏木源藤から銃撃を受けました。
この重傷が、後に彼の命を奪うことになります。
5. 戦後処理に見る外交手腕
重傷を負いながらも、直政は戦後処理の要として活躍を続けました。
特筆すべきは、敵対した大名への対応です。
薩摩の島津氏に対しては、自らを撃った仇敵であるにもかかわらず、武力討伐ではなく和平交渉を選択しました。
慶長6年(1601年)、直政は島津義弘・忠恒父子に書簡を送り、「起請文」を用いた粘り強い交渉を展開します。
その結果、島津氏には薩摩・大隅・日向三国(約60万石)の本領安堵が認められました。
一方、土佐の長宗我部氏に対しては異なる対応を取ります。
浦戸城受け取りの際、長宗我部遺臣による抵抗(浦戸一揆)が発生すると、直政の家臣は273名を処刑するという厳格な処置を実行しました。
この「硬軟使い分け」の外交手腕こそが、家康から全幅の信頼を寄せられた理由です。
武力による殲滅ではなく、相手の実力と戦略的価値を見極めた対応により、徳川体制への円滑な移行を実現したのです。
6. 42歳の早すぎる死と遺産
慶長6年(1601年)、直政は石田三成の旧領である近江佐和山18万石に入封しました。
これは家康からの最大級の恩賞であり、京都への入り口を守る重要拠点を任されたことを意味します。
しかし慶長7年(1602年)2月1日、関ヶ原で受けた銃傷が悪化し、佐和山城で死去。
享年42でした。死因はガス壊疽または鉛中毒による多臓器不全と推定されています。
直政の死後、長男・直継が家督を継ぎますが病弱だったため、次男・直孝が彦根藩主を継承します。
直孝は大坂の陣で活躍し、井伊家は30万石、後に35万石まで加増されました。
彦根井伊家は幕末まで約260年間、譜代大名筆頭の地位を保ち、大老職を5代6度輩出。幕末の井伊直弼が開国を断行するなど、幕政の中枢を担い続けました。
直政が創設した「井伊の赤備え」の伝統も、彦根藩によって幕末まで継承されています。
井伊直政の生涯は、逆境を糧に自らの力で道を切り開いた、戦国時代の成功物語です。
武勇と知略、戦場と外交の両面で活躍した彼の功績は、単なる武将の枠を超えています。
旧敵の強みを自組織に取り込む柔軟性、視覚的統一による心理戦、粘り強い外交交渉――これらは現代のリーダーシップ論にも通じる示唆に富んだ事例といえるでしょう。
参考文献
一次史料
- 彦根藩井伊家文書(重要文化財)、彦根城博物館所蔵
- 『井伊家伝記』龍潭寺住職・祖山著(1730年)
- 蜂前神社文書(1568年)
- 井伊直政書状(稲葉道通宛、1602年頃)
- 「天正壬午甲信諸士起請文」(1582年、浜松秋葉神社所蔵)
- 「井伊直政書状(慶長六年九月島津家宛写し)」(1601年、鹿児島県蔵)
公的史料
- 『寛政重修諸家譜』堀田正敦総裁/江戸幕府編纂(1812年)
- 『徳川実紀(御実紀)』成島司直編/林述斎監修(1844年)
- 『戦国!井伊直虎から直政へ』特別展展示資料、江戸東京博物館(2017年)
二次資料
- 『大日本維新史料 類纂之部 井伊家史料』全30巻、東京大学史料編纂所編(1959-2016年)
- 『井伊軍志』井伊達夫(1989年)
- 『静岡県史 資料編』静岡県編
- 『徳川十六将 伝説と実態』所収「井伊直政」菊地浩之(2023年)
- 小和田哲男「徳川家康の天下統一を支えた徳川四天王が残した教訓」(2023年)
- 長谷川ヨシテル「関ヶ原で徳川四天王・井伊直政を狙撃した男」(2018年)

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