はじめに
今から400年以上前、鎖国が始まる直前の日本で、一人の武将が世界を舞台にした壮大な夢を描いていました。
その武将の名は伊達政宗。
彼が企画し実行した「慶長遣欧使節」は、日本人が初めて太平洋を横断してヨーロッパまで到達した、まさに歴史的な大冒険でした。
しかし、この使節団の7年間にわたる旅路は、栄光と挫折の両方を味わう複雑な物語となったのです。
なぜ政宗はこのような危険な計画を立てたのか、そして使節団は何を成し遂げ、何を失ったのでしょうか。
目次
- 大津波からの復興をかけた政宗の野望
- 世界最大級の船「サン・ファン・バウティスタ号」の建造
- 太平洋を越えた180人の大冒険
- ヨーロッパでの華々しい外交成果
- 日本の政策転換がもたらした悲劇的結末
- 現代に残る貴重な歴史遺産
1. 大津波からの復興をかけた政宗の野望
慶長大津波が変えた政宗の運命
1611年12月2日、東北地方を巨大な地震と津波が襲いました。
この「慶長大津波」により、仙台藩だけで1,783人もの人々が命を落とし、沿岸部は壊滅的な被害を受けたのです。
現代の東日本大震災と同規模の災害に直面した伊達政宗は、復興のために新たな収入源が必要だと考えました。
スペインとの出会いが生んだ構想
災害のちょうどその頃、スペイン人の探検家セバスティアン・ビスカイノが日本を訪れていました。
政宗はビスカイノと交流する中で、スペインの植民地メキシコ(当時のヌエバ・エスパーニャ)との直接貿易の可能性を知ります。
当時の日本は世界最大の銀産出国で、年間約200トンもの銀を産出していました。
この銀をメキシコと直接取引できれば、仙台藩の復興と発展に大きく貢献できると政宗は考えたのです。
宣教師との政治的駆け引き
政宗の計画を後押ししたのが、フランシスコ会の宣教師ルイス・ソテロでした。ソテロは政宗に「キリスト教の布教を許可する代わりに、スペインとの貿易交渉を支援する」という提案を持ちかけます。
政宗はこれを受け入れ、表向きは宣教師派遣の要請、裏では貿易協定の締結を目指す巧妙な外交戦略を立案しました。
2. 世界最大級の船「サン・ファン・バウティスタ号」の建造
45日間で完成した奇跡の船
1613年、政宗は仙台藩の月浦(現在の石巻市)で、日本初の本格的な西洋式大型帆船の建造を開始しました。
この「サン・ファン・バウティスタ号」は全長約55メートル、排水量500トンという当時としては世界最大級の木造船でした。
建造には驚異的な人員が投入されました。
大工800人、鍛冶700人、雑役3,000人の総勢4,500人が動員され、わずか45日間で完成させたのです。
この短期間での完成は、仙台藩の技術力と組織力の高さを示すものでした。
国際技術協力の成果
船の建造には、幕府の船奉行である向井将監や、ビスカイノの技術指導が欠かせませんでした。
西洋の造船技術と日本の職人技術が融合したこの船は、太平洋を往復できる性能を持つ画期的な船舶となりました。
船名の「サン・ファン・バウティスタ」は「聖ヨハネ」を意味し、キリスト教色を前面に出した命名でした。
3. 太平洋を越えた180人の大冒険
歴史的な出航
1613年10月28日、支倉常長(はせくらつねなが)を団長とする180余名の使節団が月浦を出港しました。
この使節団には仙台藩士、商人、水夫、そしてスペイン人も含まれ、まさに国際色豊かなメンバー構成でした。
支倉常長の選出には特別な背景がありました。
常長の父は前年に汚職で処刑されており、本来なら常長も連座して処罰されるはずでした。
しかし政宗は、名誉回復の機会として常長にこの重要な任務を与えたのです。
これにより常長は、一族の運命をかけてこの使命に取り組むことになりました。
メキシコでの歓迎
約3ヶ月の太平洋横断を経て、1614年1月にメキシコのアカプルコ港に到着しました。
これは日本人による初の公式なアメリカ大陸到達でした。
一行はメキシコ市で副王の歓待を受け、現地の人々に大きな驚きを与えました。
4. ヨーロッパでの華々しい外交成果
スペイン国王との歴史的謁見
1615年1月30日、常長とソテロはマドリードでスペイン国王フェリペ3世との謁見を果たしました。
常長は政宗からの親書を奉呈し、メキシコとの貿易許可を求めました。
この謁見で常長は極めて重要な決断を下します。
カトリックへの改宗です。
国王の臨席のもとで洗礼を受け、「ドン・フィリッポ・フランシスコ・支倉」という洗礼名を授かりました。
ローマ教皇との感動的な出会い
1615年11月3日、使節団はローマ教皇パウロ5世との謁見を実現しました。
教皇は一行の長い旅路を労い、常長を含む8名にローマ市民権を授与するという異例の厚遇を示しました。
この時に作成された「ローマ市民権証書」は現在も仙台市博物館に保管され、国宝に指定されています。
また、この時期に制作された常長の肖像画は、ロザリオを手に祈りを捧げる姿で描かれており、彼の改宗がヨーロッパ社会に正式に認知されたことを示す貴重な資料となっています。
5. 日本の政策転換がもたらした悲劇的結末
禁教令が全てを変えた
しかし、常長がヨーロッパで外交活動を行っている間に、日本の情勢は劇的に変化していました。
1614年、徳川幕府は全国にキリスト教禁止令を発布し、宣教師の追放と教会の破壊を命じたのです。
この情報がヨーロッパに伝わると、スペイン側の態度は一変しました。
伊達政宗がキリスト教への好意を示す一方で、日本の中央政府は激しい弾圧を行っている。
この矛盾により、スペイン国王は使節団への信頼を失い、当初前向きだった貿易協定への態度を硬化させました。
交渉の完全な決裂
1616年、常長は再度スペイン国王との交渉に臨みましたが、もはや状況は絶望的でした。
国王は日本の禁教政策を理由に貿易協定の締結を最終的に拒否したのです。
使節団の最大の目的であったメキシコとの直接貿易の夢は、ここで完全に潰えました。
6. 現代に残る貴重な歴史遺産
7年間の長い旅路の終わり
1620年9月、7年間の長期外交を終えて常長は仙台に帰国しました。
しかし、彼を待っていたのは変わり果てた日本でした。
禁教令により、使節の国際的成果は政治的に活用されることなく、常長自身も帰国後の信仰について様々な説が残されています。
常長は帰国から2年後の1622年に病没し、さらに1640年には息子の常頼がキリシタンとして処刑され、支倉家は断絶という悲劇的な結末を迎えました。
ユネスコ世界記憶遺産への登録
外交的には失敗に終わった慶長遣欧使節でしたが、その歴史的価値は計り知れません。
常長が持ち帰った品々や、スペイン・バチカンに残された外交文書は、17世紀の東西文化交流を示す第一級の史料として現在も大切に保管されています。
2013年には、これらの資料群が日本とスペインの共同推薦により「慶長遣欧使節関係資料」としてユネスコ世界記憶遺産に登録されました。
支倉常長像、ローマ市民権証書、各種ヨーロッパ工芸品などは、400年前の壮大な冒険の証人として、現代の私たちに貴重な教訓を与え続けています。
おわりに
慶長遣欧使節は、目的とした貿易協定の実現には失敗しましたが、日本人が初めて組織的に世界規模の外交を展開した画期的な出来事でした。
伊達政宗の野心的な構想と支倉常長の献身的な努力は、鎖国という内向きの時代にあっても世界に挑戦する精神の重要性を現代に伝えています。
この物語は、困難な状況でも可能性を信じて挑戦することの大切さと、国際理解の複雑さを教えてくれる貴重な歴史の教訓なのです。
参考文献
- 仙台市博物館「慶長遣欧使節関係資料」
- 宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)資料
- バチカン教皇庁宝物館「伊達政宗書翰」
- スペイン国立古文書館「慶長遣欧使節関係文書」
- 『伊達治家記録』仙台市史編纂室
- UNESCO Memory of the World Register「Materials Related to the Keicho-era Mission to Europe」(2013)
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