はじめに
豊臣秀吉の天下統一を陰で支えた名軍師・黒田官兵衛。
その卓越した知略ゆえに、主君からさえ警戒されたという逸話は有名です。
43歳で突然の隠居を決断し「如水」と号した彼の真意とは何だったのでしょうか。
そして関ヶ原の戦いでは、九州でわずか2ヶ月の間に独自の軍事行動を展開し、「もう一つの関ヶ原」を演じました。
天下を狙ったのか、それとも別の思惑があったのか——戦国最後の策士の実像に迫ります。

目次
- 秀吉を支えた名軍師の誕生
- 九州平定と謎の冷遇
- 「如水」への転身——早すぎる隠居の真意
- 関ヶ原の裏で展開された九州制圧戦
- 晩年とキリシタンとしての信仰
- まとめ
1. 秀吉を支えた名軍師の誕生
黒田官兵衛孝高は天文15年(1546)、播磨国の土豪の家臣として生まれました。
29歳の時、織田信長に謁見してその才能を認められ、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として頭角を現します。
官兵衛の軍略は冷徹かつ効果的でした。天正9年(1581)の鳥取城攻めでは、事前に高値で米を買い占めて城内の備蓄を枯渇させた後、完全包囲による兵糧攻めを実行します。
わずか3ヶ月で城は陥落しましたが、城内は飢餓地獄と化したと記録されています。
天正10年(1582)の本能寺の変では、秀吉が約200kmを7日で移動する「中国大返し」を実現し、明智光秀を討つことに成功しました。
この作戦に官兵衛がどこまで関与したかは史料により見解が分かれますが、秀吉の天下取りの決定的転機となったことは間違いありません。
2. 九州平定と謎の冷遇
天正15年(1587)、秀吉は九州の島津氏を降伏させました。
この戦いで官兵衛は軍監(総指揮官)として先鋒を率い、全軍の作戦指揮を執る重要な役割を果たしています。
しかし、論功行賞では意外な結果が待っていました。
官兵衛に与えられたのは豊前6郡、約12万石から12万5000石(一説には18万石)でした。
一方、小早川隆景には37万石、立花宗茂には13万2000石が与えられています。
軍監として全軍を指揮した官兵衛への加増は、功績に比べて明らかに少ないものでした。
この冷遇の理由について、江戸時代の『常山紀談』や『名将言行録』は「秀吉が官兵衛の才能を恐れた」と記しています。
秀吉が家臣に「私に代わって次に天下を治めるのは誰か」と問うた際、「黒田官兵衛」と答えたという逸話も残されています。
ただし、これらは江戸時代に成立した二次史料であり、同時代の記録では確認できません。
むしろ、イエズス会宣教師ルイス・フロイスの『日本史』は、官兵衛がキリスト教の洗礼を受け(洗礼名ドン・シメオン)、秀吉のバテレン追放令後も信仰を捨てなかったことが冷遇の理由だと記録しています。
3. 「如水」への転身——早すぎる隠居の真意
天正17年(1589)5月、官兵衛はわずか43歳という若さで家督を嫡男・長政に譲り、「如水軒」と号して隠居しました。
この早期隠居には複数の解釈が存在します。
第一に、秀吉の警戒心を緩和する目的です。
功績に対する報酬の少なさから、秀吉が自身を警戒していることを察知した官兵衛は、野心がないことを示すため形式的に一線から退きました。
第二に、黒田家の長期的安泰を図る戦略です。
若い長政に早くから家督を譲ることで、長政自身の実績蓄積の機会を提供し、秀吉の評価が長政に向くよう誘導したのです。
「如水」という号の由来について、フロイスは「予の権力、武勲、領地のすべては今や水泡が消え去るように去って行った」という官兵衛の言葉を記しています。
これは全ての功績と財産が泡沫のように消え去ったという謙虚な表明でした。
しかし、隠居は形式的なものに過ぎませんでした。
天正18年(1590)の小田原征伐では、官兵衛は北条氏政・氏直父子を説得し、小田原城の無血開城を実現します。
秀吉は黒田長政宛ての朱印状に「今度の首尾、勘解由(官兵衛)淵底候」と記し、官兵衛の活躍により戦いが終結したことを報告しています。
4. 関ヶ原の裏で展開された九州制圧戦
慶長3年(1598)8月、秀吉が死去すると、官兵衛は天下の行方を見定めて動き始めます。
慶長5年(1600)7月、石田三成が挙兵し、天下は東西に分裂しました。
黒田家の対応は明確でした。
長政は東軍(徳川家康方)として関ヶ原本戦に参加し、小早川秀秋の寝返りや吉川広家の内通工作に成功します。
一方、55歳の如水は中津城に留まり、独自の軍事行動の準備を進めました。
如水は事前に家康と密約を結び、九州での自由な軍事活動と「切り取り次第」(征服した領地を自分のものにできる権利)の許可を得ていました。
9月9日、如水は中津城より出陣します。蓄財していた私財を全額投入し、領内の金蔵を開放して農民などに支度金を与え、約9000人の速成軍を編成しました。
9月13日の石垣原の戦いで、如水軍は大友義統軍を撃破します。
9月19日、富来城攻略中に関ヶ原での東軍勝利の報が届きましたが、如水は攻撃を止めませんでした。
それどころか、軍事行動をさらに加速させたのです。
10月には久留米城を攻略し、西軍の名将・立花宗茂が守る柳川城を攻めました。
この時点で如水の軍勢は約13000人に達し、立花宗茂、鍋島直茂、加藤清正らと合流すれば約40000人規模の大軍勢となりました。
如水の次の目標は島津氏の討伐でした。
11月12日、如水軍は肥後国水俣まで到達しましたが、徳川家康と島津義久の和議成立により停戦命令が下され、如水は軍を解散せざるを得ませんでした。
如水の真意について、慶長5年10月の吉川広家宛書状には率直な本音が記されています。
「関ヶ原の戦いがあともう1ヶ月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで華々しい戦いをするつもりであった」——この言葉は、如水が状況次第で大規模な軍事行動を企図していた可能性を示しています。
関ヶ原後の論功行賞で、黒田家は筑前国福岡52万3000石へ大幅に加増移封されました。
ただしこれは主に長政の功績に対する恩賞でした。
如水自身には追加恩賞は見送られましたが、家康は黒田家全体の貢献を高く評価したのです。
5. 晩年とキリシタンとしての信仰
如水は筑前入国後、太宰府天満宮内の草庵や福岡城三の丸の「御鷹屋敷」に隠居しました。
慶長9年(1604)3月20日、如水は京都伏見藩邸において58歳または59歳で病没します。
死の直前まで、如水はキリシタンとして「神の小羊」の祈祷文とロザリオを使用していました。
遺言により博多のキリシタン墓地に埋葬され、慶長11年(1606)には追悼記念聖堂が完成しています。
官兵衛は生涯を通じて信仰を守り抜いたのです。
6. まとめ
黒田官兵衛の生涯は、確実な史実と後世の伝説が複雑に入り混じっています。
秀吉が官兵衛の才能を恐れたという有名な逸話の多くは、江戸時代に成立した二次史料に由来し、同時代史料では確認できません。
一方、功績に比して領地が少なかったこと、43歳で早期隠居したこと、関ヶ原時に九州で独自の軍事行動を展開したことは、一次史料で確認できる史実です。
その理由や意図の解釈については、同時代史料と後世の創作を慎重に区別する必要があります。
フロイスの『日本史』が示すように、キリスト教信仰という宗教的要因が官兵衛の処遇に大きく影響した可能性は高いといえます。
黒田官兵衛という人物は、間違いなく戦国時代屈指の軍師・戦略家でした。同時に、キリシタンとしての信仰を死の直前まで保持し、老子思想に基づく「如水」の号を採用するなど、文化的・精神的にも深い教養を持った人物だったのです。
参考文献
- ルイス・フロイス『日本史』(松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史』中央公論新社)
- 黒田如水書状(松本家文書)福岡市博物館所蔵
- 豊臣秀吉朱印状(黒田長政宛、天正18年7月10日)福岡市博物館所蔵『黒田家文書』
- 井伊直政書状(黒田長政宛、慶長5年8月25日)福岡市博物館所蔵『黒田家文書』
- 黒田如水書状(吉川広家宛、慶長5年10月)『高山公実録』所収
- 『黒田家譜』『黒田続家譜』(貝原益軒編、貞享4年-元禄元年完成)
- 『常山紀談』(湯浅常山、元文4年-明和7年)
- 『名将言行録』(岡谷繁実、安政元年-明治2年)
- 『石垣原戦の次第』別府大学紀要所収
- Mary Elizabeth Berry “Hideyoshi” (Harvard University Press, 1982)

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