はじめに
戦国時代、天下統一を目指す織田信長の前に立ちはだかった最強の敵は、武田信玄でも上杉謙信でもありませんでした。
それは、浄土真宗本願寺派の第11世門主・顕如が率いる石山本願寺という宗教勢力だったのです。
1570年から1580年まで続いた石山合戦は、信長にとって最も長く、最も消耗した戦いとなりました。
なぜ一つの寺院が、日本最強の戦国大名と10年以上も戦い続けることができたのでしょうか。
顕如の巧みな戦略と、本願寺が持つ独特の力の秘密に迫ります。

目次
- 顕如という人物:二つの顔を持つ指導者
- 石山本願寺:要塞化した宗教都市
- 信長との対決が始まった理由
- 一向一揆という武装ネットワーク
- 外交の天才:信長包囲網の構築
- 講和という苦渋の決断
- 東西本願寺分裂への道
- 参考文献
1. 顕如という人物:二つの顔を持つ指導者
顕如(1543-1592)は、本願寺第10世証如の長男として生まれました。
わずか12歳で父の死により第11世を継承し、17歳で朝廷から「門跡」という格式を認められます。
門跡とは皇族や公家が住職を務める格式の高い寺院のことで、これにより顕如は武家を超える社会的地位を獲得しました。
顕如の強みは、この「権威」と「実力」の二重性にありました。
一方では朝廷とつながる門跡として外交交渉を有利に進め、もう一方では全国に広がる数万の門徒(信者)を動員できる軍事指導者として振る舞ったのです。
この二つの顔を使い分ける能力こそが、信長という強大な敵と渡り合える基盤となりました。
2. 石山本願寺:要塞化した宗教都市
石山本願寺(現在の大阪城付近)は、単なる寺院ではありませんでした。
淀川と大和川が合流する水運の要衝に位置し、三方を水域と湿地帯に囲まれた天然の要害だったのです。
その規模は約763メートル×545メートルで、最盛期には2万から4万人が居住する巨大な都市でした。
この寺内町の最大の特徴は、守護権力が課す税や労役を免除される「特権」を持っていたことです。
1559年の史料によれば、河内守護の畠山高政は本願寺に対し、諸税の免除、商人組合への課税免除、債務帳消し令(徳政令)の適用除外などを認めていました。
これは信長の「楽市楽座」よりも先行する政策で、商人や職人が集まる経済都市として発展する基盤となりました。
この経済力が、10年に及ぶ籠城戦を支える軍事費となったのです。
3. 信長との対決が始まった理由
1568年に足利義昭を擁立して上洛した信長は、当初は本願寺と友好関係を保っていました。
しかし信長の要求は次第にエスカレートし、最終的には「石山本願寺からの退去」を求めるまでになります。
1570年9月12日、顕如は信長を「仏敵」と断定し、全国の門徒に蜂起を呼びかけました。
これが石山合戦の始まりです。
顕如は「仏法の灯火を守るため戦え」と檄文を発し、従わない者は破門すると警告しました。
この宗教的な大義名分が、門徒たちに命をかけて戦う動機を与えたのです。
4. 一向一揆という武装ネットワーク
本願寺の軍事力の本質は、中央集権的な軍隊ではなく、各地の門徒が自律的に連携する「ネットワーク型組織」でした。
顕如の号令一つで、加賀、越前、長島など全国各地で一斉に蜂起が起こり、信長軍を分散させることができました。
特に重要だったのが、紀伊国の「雑賀衆」という鉄砲傭兵集団です。
約3,000人の雑賀衆は鉄砲装備率15~20%という当時最高水準の火力を持ち、1576年の天王寺の戦いでは信長自身の足に銃弾を命中させるほどの戦果を上げました。
顕如は自前の僧兵だけでなく、こうした専門家集団を積極的に活用する戦略的柔軟性を持っていました。
長島一向一揆では約10万人が居住する地域が拠点となり、越前一向一揆では一国全体を支配するなど、その規模は戦国大名に匹敵するものでした。
5. 外交の天才:信長包囲網の構築
顕如の真の才能は外交にありました。
彼は武田信玄、毛利輝元、上杉謙信、浅井長政、朝倉義景、足利義昭といった有力大名や将軍と同盟を結び、信長を多方面から封じ込める「信長包囲網」を構築したのです。
特に武田信玄とは姻戚関係にありました。
顕如の妻・如春尼の姉が信玄の正室だったため、両者は義兄弟の関係だったのです。
この個人的なつながりを活用し、1572年には信玄の西上作戦に合わせて各地の一揆が呼応する計画が進められました。
また、中国地方の毛利氏は瀬戸内海の水軍を動員して石山本願寺への補給を支援しました。
1576年の第一次木津川口の戦いでは、毛利水軍700~800隻が織田水軍を壊滅させ、兵糧や武器の搬入に成功しています。
6. 講和という苦渋の決断
しかし1570年代後半から戦局は信長有利に傾きます。
1573年に武田信玄が病没し、同年に浅井・朝倉が滅亡、1578年には上杉謙信が急死するなど、包囲網は次々と崩壊していきました。
さらに同年の第二次木津川口の戦いでは、信長が九鬼嘉隆に建造させた鉄甲船により毛利水軍が敗北し、石山への海上補給路が完全に遮断されました。
1580年、正親町天皇の仲介により講和が成立します。
顕如は「天皇の勅命による講和は面目が立ち、門徒に顔向けできる」と判断し、4月9日に紀伊鷺森別院へ退去しました。
彼は「抵抗を続ければ本願寺も滅び、法灯(教えの継承)が絶える」と考え、教団の存続を最優先したのです。
7. 東西本願寺分裂への道
しかし、この決断に長男・教如は激しく反発しました。
教如は徹底抗戦を主張し、顕如の退去後も4カ月間籠城を続けたのです。
顕如は教如を義絶(勘当)するという厳しい処置をとりました。
この父子対立が、後の東西本願寺分裂の遠因となります。
1592年に顕如が死去した後、最終的には准如の西本願寺と教如の東本願寺に分かれることになりました。
徳川家康は1602年に教如に寺地を寄進して東本願寺を創立させましたが、これは本願寺の勢力を二分して力を削ぐ政策だったとされています。
しかし結果的に、この分裂は両派の信者を繋ぎ止めるリスクヘッジとして機能し、現在も浄土真宗は日本最大級の宗教教団として存続しています。
参考文献
- 藤島達朗『顕如』(吉川弘文館人物叢書、1984年)
- 神田千里『一向一揆と石山合戦』(吉川弘文館戦争の日本史シリーズ、2007年)
- 武田鏡村『本願寺はなぜ東西に分裂したのか』(扶桑社新書、2018年)
- 太田光俊「本願寺『門跡成』ノート」『佛教史研究』43号(J-STAGE、2007年)
- Carol Richmond Tsang, “War and Faith: Ikkō Ikki in Late Muromachi Japan” (Harvard University Asia Center, 2007)
- 『大阪府史』第4巻(中世編II)(大阪府、1981年)
- 『富田林市史』第1巻(富田林市教育委員会、1985年)
- 『信長公記』(太田牛一、1610年頃成立)
- 『顕如上人文案』(西本願寺史料研究所蔵)
- 今井修平「石山本願寺寺内町に関する一考察」(1973年)

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