関ヶ原で17の首級を挙げた「笹の才蔵」可児吉長の生涯と戦国のプロフェッショナル精神

目次

はじめに

戦国時代、大名や城主を目指さず、生涯「一兵卒」として槍一本で生きた武士がいました。
彼の名は可児才蔵吉長(かに さいぞう よしなが)。
関ヶ原の戦いで17もの敵将の首を討ち取り、その証として笹の葉を使った独創的な方法で武功を証明した男です。

主君を6人以上も変えながら、常に自分の武勇が最も輝く場所を求め続けた才蔵。
現代風に言えば、「専門性を武器に転職を重ねるスペシャリスト」といえるかもしれません。
組織の出世階段を登るより、現場で槍を振るうことを選んだ彼の生き様は、今を生きる私たちにも多くの示唆を与えてくれます。

本記事では、戦国という激動の時代を駆け抜けた可児才蔵の実像に迫ります。

note(ノート)
「笹の才蔵」可児吉長 ― 戦国最強と謳われた槍の名手の生涯|hiro | ゆる歴史かわら版 はじめに 関ヶ原の戦いで東軍随一、17もの首級を挙げた武将がいました。 討ち取った敵の首には、すべて笹の葉が含ませてあったといいます。 戦場を駆け抜けながら、次々と...

目次

  1. 美濃国に生まれた槍の名手
  2. 主君を変え続けた理由―戦国のキャリア戦略
  3. 関ヶ原の戦いと「笹の才蔵」伝説
  4. 広島での晩年と味噌合戦
  5. 才蔵が現代に伝えるもの

1. 美濃国に生まれた槍の名手

可児才蔵は1554年(天文23年)、美濃国可児郡(現在の岐阜県御嵩町)の願興寺で生まれました。
この時代、美濃は斎藤道三による下剋上が完成し、織田信長の侵攻圧力が高まる戦乱の最前線でした。

才蔵が武芸者として頭角を現したのは、宝蔵院流槍術との出会いがきっかけです。
奈良興福寺の僧・覚禅房胤栄が開いたこの流派は、十文字鎌槍という特殊な槍を使います。
普通の槍が「突く」だけなのに対し、十文字槍は鎌の部分で「引く」「薙ぐ」「打ち落とす」など多彩な攻撃が可能でした。

この武器選択こそ、才蔵の生き方を象徴しています。
十文字槍は扱いが難しく、訓練された兵士に持たせる量産武器ではありません。
つまり才蔵は最初から「部隊を率いる」のではなく、「自分一人の腕で敵を倒す」道を選んでいたのです。

1567年頃、最初の主君である斎藤龍興に仕官しますが、稲葉山城の陥落とともに主家は滅亡。
この「主家の滅亡」という原体験が、才蔵に「土地や主君への執着は無意味」というリアリズムを植え付けました。


2. 主君を変え続けた理由―戦国のキャリア戦略

才蔵の最大の特徴は、主君を6〜8人も変えたことです。
仕えた主君は、斎藤龍興、柴田勝家、明智光秀、織田信孝、豊臣秀次、前田利家(資料により異なる)、そして最後に福島正則です。

戦国時代でも、これほど頻繁に主君を変えることは珍しく、「不忠」と見なされる危険性がありました。
しかし才蔵は、自分の武芸を正当に評価してくれる環境を妥協なく求め続けたのです。

1582年、明智光秀に従い本能寺の変に参加したとされます。
軍学者・山鹿素行の『武家事紀』には、首の取り方を知らない者に手本を示したという逸話が記されています。

1584年、小牧・長久手の戦いでは豊臣秀次に従軍しますが、敗走中の秀次から馬を要求された際、「雨の日の傘に候(雨の日に傘を手放せないように、今の自分には馬が必要だ)」と拒否。
この不敬により解雇されました。
組織の論理より個人の論理を優先する才蔵の姿勢が表れています。

1587年頃、ついに理想の主君・福島正則と出会います。
正則自身が槍一本で成り上がった武断派であり、才蔵のような「腕っ節の強い男」を無条件に愛しました。
正則は才蔵に部隊指揮や行政手腕を求めず、「戦場での切り込み隊長」という役割を与えました。
初任の知行は750石。
これは中堅武士として相応の待遇でした。


3. 関ヶ原の戦いと「笹の才蔵」伝説

1600年(慶長5年)9月15日、関ヶ原の戦い。
47歳の才蔵は福島正則隊の先鋒隊長として出陣しました。

福島隊は東軍の最前線に配置され、西軍の精鋭・宇喜多秀家隊と激突します。
才蔵はここで驚異的な戦果を挙げます。
槍を片手に最前線へ突入し、次々と敵将を討ち取ったのです。

しかし、ここで問題が発生しました。
討ち取った首が多すぎて持ち帰れないのです。
人間の頭部は約4〜5kgあり、17個では合計70〜85kg。
これを戦闘中に運ぶことは物理的に不可能でした。

そこで才蔵が考え出したのが、独創的な識別方法です。
討ち取った敵の首の口や耳、鼻に笹の葉を挿入し、その場に目印として残したのです。
戦後の首実検(討ち取った首を確認する儀式)で、才蔵は検分役に「笹をくわえた首は全て自分の手柄である」と宣言しました。

戦場を捜索させたところ、実際に笹を含んだ首が17個発見されました。
徳川家康はこの工夫に驚嘆し、「おまえは今後、笹の才蔵と名乗るが良い」と命名したといいます。

この「笹」の使用は、単なる識別マーカーではなく、視覚的な威圧効果もありました。
才蔵は背中にも笹の指物をつけて戦ったとされ、「あの笹を背負った武者に遭えば首を取られる」という恐怖を敵に植え付けたのです。

なお、「笹の才蔵」の由来については、1582年の甲州征伐で16の首級を挙げた際という説もあり、どちらが正しいかは確定していません。

この戦功により、才蔵は正則から500石を加増され、最終的な知行高は746石となりました。


4. 広島での晩年と味噌合戦

関ヶ原の後、福島正則は安芸・備後49万8000石の大大名となり、広島に入封しました。
才蔵もこれに随従して広島へ移住します。

興味深いのは、才蔵が高い知行を得ながらも、部下を率いる指揮官の役割を嫌い、生涯「槍を振るう現場の武士」であり続けたことです。
現代でいえば、管理職への昇進を拒否し、現場のスペシャリストであり続ける技術者のようなものです。

平和な時代になっても、才蔵の活躍は続きました。
有名なのが「味噌合戦」の逸話です。
広島城下を襲った洪水で堤防が決壊し、城の石垣にも被害が及ぶ危機が発生しました。
しかし、幕府の許可なく城郭を修築することは厳禁されていました。

才蔵は緊急工事の陣頭指揮をとり、人夫や足軽たちに大量の味噌を煮た鍋や酒を振る舞いました。
自らも泥にまみれて作業し、短期間で難工事を完遂させたのです。
才蔵にとって、この緊急工事は平和な時代の「合戦」でした。
槍を鍬や土嚢に持ち替え、敵兵ではなく濁流と戦ったのです。

1613年(慶長18年)6月24日、愛宕権現の縁日に才蔵は死去しました。
享年60。彼は若い頃から愛宕権現を厚く信仰し、「我は愛宕権現の縁日に死なん」と予言していたといいます。
死の際には潔斎して身を清め、甲冑を着けて薙刀を持ち、床几に座したまま息絶えました。
武人として生き、武人として死ぬことを貫いた最期でした。


5. 才蔵が現代に伝えるもの

可児才蔵の墓所である才蔵寺(広島市東区)には、今も多くの参拝者が訪れます。
特に「笹の知恵」にあやかり、受験合格やボケ封じの信仰対象となっています。
生涯を通じて肉体的な武勇を誇った男が、死後に「知恵」の神として祀られているのは興味深いことです。

才蔵の生涯は、組織の中での個人のあり方という普遍的な問いに答えを示しています。
彼は「家」を守るために官僚化する道ではなく、最後まで「自分の専門性で勝負する」道を選びました。
主君を変えることを恐れず、自分が最も輝ける場所を求め続けた姿勢は、現代のキャリア形成にも通じるものがあります。

また、関ヶ原での「笹」の使用は、困難な状況下で独創的な解決策を編み出す才蔵の知恵を示しています。
彼は決して猪武者ではなく、極めて合理的で知的な戦術家だったのです。

戦国から江戸への過渡期を生きた可児才蔵。
組織の歯車になることを拒み、個人の名前で歴史に刻まれることを選んだ彼の生涯は、時代を超えて私たちに大切なメッセージを伝え続けています。


参考文献

『大寺記(坤)』願興寺、原本:中山道みたけ館
『誓文日記』可児才蔵(伝)、『石川県史 第2編』石川県、1939年
『福島正則感状(写本)』福島正則、中山道みたけ館所蔵
『常山紀談 巻之十一「可児才蔵が事」』湯浅常山、1770年
『名将言行録 巻之三十四「可児吉長」』岡谷繁実、1869年
『御嵩町史 通史編 上「可児才蔵の活躍」』御嵩町史編さん室、1992年
『石川県史 第2編「可兒才蔵」』石川県、1939年

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA



reCaptcha の認証期間が終了しました。ページを再読み込みしてください。

目次