はじめに
失明しても、仲間を失っても、何度難破しても諦めなかった一人の僧侶がいました。
唐の高僧・鑑真は、日本に正式な仏教の戒律を伝えるため、12年間で6度の渡航を試み、ついにその使命を果たしました。
彼の物語は、困難に立ち向かう人間の意志の強さを示すだけでなく、日本の仏教史を大きく変えた歴史的な出来事でもあります。
今回は、鑑真の壮絶な東征の物語を、高校生のみなさんにもわかりやすくお伝えします。
目次
- なぜ鑑真は日本に招かれたのか
- 12年間の苦難の航海
- ついに実現した日本到着
- 日本仏教に残した偉大な功績
- 鑑真が教えてくれること
1. なぜ鑑真は日本に招かれたのか
奈良時代の日本では、仏教は既に広まっていましたが、大きな問題を抱えていました。
それは、正式な僧侶の資格を認定する制度がなかったことです。
当時、税金や兵役を逃れるために勝手に僧侶を名乗る「私度僧」が増え、国の財政を圧迫していました。
聖武天皇は仏教を国家の基盤として重視していましたが、この問題を解決するには、正式な「戒律」(僧侶が守るべき規則)を伝える高僧が必要でした。
733年、聖武天皇の命を受けた二人の日本人僧侶、栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)が唐に渡りました。
彼らの使命は、日本に戒律を正しく伝えられる高僧を探すことでした。
10年間の探索の末、742年、二人は揚州の大明寺で「江南第一の大師」と称される鑑真に出会います。
鑑真は当時54歳。すでに4万人以上に授戒を行い、医療や社会事業にも尽力する名僧でした。
栄叡と普照が日本の窮状を訴えると、鑑真は弟子たちに「誰か日本へ行く者はいないか」と問いかけました。
しかし、危険な航海を恐れて誰も応じません。
すると鑑真は静かに言いました。
「これは仏法を広めるための大事である。どうして自分の命を惜しむことがあろうか」
この言葉に感動した21名の弟子たちが、師に従うことを決意したのです。
2. 12年間の苦難の航海
鑑真の日本への道のりは、想像を絶する困難の連続でした。
第1回(743年):出航前に弟子が「日本の僧が師を連れ去ろうとしている」と密告し、栄叡と普照が逮捕されて失敗。
第2回・第3回(743-744年):激しい嵐に遭い、船が難破・座礁して失敗。一行は明州の阿育王寺に保護されます。
第4回(744年):今度は別の弟子が鑑真の安全を心配して役人に通報し、強制的に揚州へ送還されました。
第5回(748年):これが最も過酷な試練となりました。11月に出航した船は激しい暴風に遭い、14日間も漂流した末、遥か南方の海南島に漂着しました。この航海で36名が死亡し、200名以上が離脱する惨事となります。
海南島に約1年滞在した後、陸路で揚州に戻る途中、さらなる悲劇が襲います。
広東省の端州で、10年以上鑑真を支え続けた栄叡が病死したのです。
親友の死と、長年の疲労、南方の過酷な気候により、鑑真は両眼の光を失ってしまいました。
63歳での失明でした。
視力を失い、最も信頼する仲間を亡くしても、鑑真の決意は揺るぎませんでした。
3. ついに実現した日本到着
転機は753年に訪れます。
遣唐使として唐に来ていた副使・大伴古麻呂が、鑑真の苦難の物語を知り、帰国の船に鑑真を乗せることを決意したのです。
当時、唐の政府は重要な高僧の出国を禁じていました。
そのため、大使の藤原清河は鑑真の乗船を拒否せざるを得ませんでした。
しかし、大伴古麻呂は、外交問題になるリスクを承知で、自分の船に鑑真を秘密裏に乗せるという大胆な決断を下したのです。
753年11月16日、蘇州から出航した遣唐使船団。
鑑真が乗る第2船は、12月20日についに日本の薩摩国(現在の鹿児島県)に到着しました。鑑真が渡日を決意してから、実に12年の歳月が流れていました。
翌年2月4日、鑑真は平城京(奈良)に到着します。
聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇は、失明した66歳の高僧を国を挙げて歓迎しました。
4. 日本仏教に残した偉大な功績
鑑真の来日は、日本の仏教史を根本から変えました。
754年4月、鑑真は東大寺の大仏殿前に日本初の正式な「戒壇」(授戒を行う場所)を設けました。
ここで聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇をはじめ、約400~430名が正式な授戒を受けました。
これにより、「三師七証」(10人の高僧が立ち会う正式な儀式)による授戒制度が確立され、この手続きを経た者だけが正式な僧侶として認められるようになったのです。
私度僧の問題は大きく改善され、日本の仏教界に規律がもたらされました。
759年には、朝廷から土地を賜り、唐招提寺を創建します。
この寺は戒律研究の中心地となり、今も律宗の総本山として残っています。
鑑真は戒律だけでなく、医学、建築、彫刻、香の調合など、唐の最先端の文化や技術も日本に伝えました。
彼が携えてきた85名の工人たちは、日本の工芸技術の向上にも大きく貢献しています。
763年、鑑真は唐招提寺で76歳の生涯を閉じました。
彼の死後、弟子たちが制作した「鑑真和上坐像」は、日本最古の肖像彫刻として国宝に指定されています。
5. 鑑真が教えてくれること
鑑真の物語は、単なる一人の僧侶の偉業ではありません。
彼を日本へ招き、志半ばで異国の地に倒れた栄叡。最後まで使命を貫き、鑑真を支え続けた普照。
外交問題のリスクを冒して鑑真を船に乗せた大伴古麻呂。
多くの人々の情熱、信念、そして犠牲の上に、この歴史的な偉業は成し遂げられました。
5度の失敗、失明、仲間の死という絶望的な困難に直面しながらも、12年間決して諦めなかった鑑真の生き方は、「どんな困難も乗り越えられる」という人間の可能性を示しています。
現代を生きる私たちも、目標に向かう途中で挫折や困難に直面することがあるでしょう。
そんな時、鑑真の「これは大事なことだ。どうして命を惜しむことがあろうか」という言葉と、その不屈の精神を思い出してみてください。
鑑真の遺した日本の仏教制度と精神的遺産は、1300年近くたった今も、私たちの文化の根底に息づいています。
参考文献
- 淡海三船(真人元開)撰『唐大和上東征伝』(779年)大正新脩大蔵経 T. 2089, 51:988‒95
- 『続日本紀』巻19・巻20・巻23(797年)藤原継縄・菅野真道等奉勅撰
- Dorothy C. Wong “An Agent of Cultural Transmission: Jianzhen’s Travels to Japan, 743‒63” (2014)
- James C. Dobbins “Ganjin” Encyclopedia of Religion, Encyclopedia.com (1987)
- 唐招提寺公式サイト「鑑真大和上」https://toshodaiji.jp/ganjin.html
- 京都国立博物館『「鑑真和上坐像」と向き合い「律」と向き合う―鑑真和上と戒律のあゆみ』(2021年)
- 太宰府市文化ふれあい館 学芸だより「鑑真大和尚と戒律」第19号(2018年)

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