賤ヶ岳七本槍の「知られざる生存者」加藤嘉明——40万石をつかんだ武将の全貌

目次

はじめに

「賤ヶ岳七本槍」——この言葉を聞いたことはありますか。
戦国時代、豊臣秀吉を支えた7人の精鋭武将に与えられた称号です。
加藤清正や福島正則の名前は有名ですが、実は七本槍の中で最後まで生き残った武将の名前は、あまり知られていません。

その人物の名は、加藤嘉明(かとう よしあき)。
最終的に40万石前後の大大名となり、七本槍で最後に亡くなった武将です。
なぜ同じ七本槍の福島正則が改易(領地没収)に追い込まれたのに、嘉明は生き残れたのでしょうか。
この記事では、嘉明の生涯をわかりやすく解説します。


目次

  1. 加藤嘉明とは何者か
  2. 賤ヶ岳の戦いと「七本槍」の真実
  3. 水軍指揮官への転身
  4. 朝鮮出兵での活躍
  5. 関ヶ原の戦いと松山城
  6. 福島正則との明暗
  7. 会津43万石と晩年
  8. まとめ

1. 加藤嘉明とは何者か

加藤嘉明は1563年(永禄6年)に三河国(現在の愛知県西尾市)で生まれました。
父・岸三之丞教明は徳川家康(当時は松平元康)の家臣でしたが、三河一向一揆で主君に背いたことで流浪の身となります。

実はこの「加藤」という名字、本来の嘉明のものではありません。
もともとの姓は「岸」で、後に養家となった加藤景泰の家名を受け継いだものです。
有名な加藤清正とは別人ですので混同に注意しましょう。

秀吉に仕えるきっかけは、癖のある馬を鞍なしで乗りこなす少年(嘉明)を加藤景泰が見出し、秀吉に推挙したことだとされています。
1576年(天正4年)の播磨攻めでは無断で従軍して追い出されそうになりますが、秀吉はむしろその積極性を買って300石の直臣に取り立てました。
これが嘉明の立身の原点です。


2. 賤ヶ岳の戦いと「七本槍」の真実

1583年(天正11年)4月、近江国賤ヶ岳で羽柴秀吉と柴田勝家が激突しました。
21歳の嘉明はこの決戦に参加して武功を挙げ、感状(賞状)と3,000石の加増を受けます。

「七本槍」と呼ばれるのはここからですが、実は当時の史料(大村由己著『天正記』)では、功績を認められたのは9名と記されています。
「七本槍」という名称が初めて登場するのは、戦いから40年以上後に書かれた軍記物『甫庵太閤記』(1626年)です。
9名から早世した2名を除いて7名に整えたとされており、後世に作られたブランドといえます。

嘉明が賤ヶ岳でどのような戦いをしたかを詳しく記した同時代の史料は確認されていませんが、感状と石高の加増が記録に残っており、武功があったことは確かです。


3. 水軍指揮官への転身

賤ヶ岳から3年後の1586年(天正14年)、嘉明は24歳で淡路国志知城主(1万5,000石)に任じられます。
ここで初めて水軍の統率を担うことになりました。

ポイントは、嘉明が水軍の家系ではないという点です。
九鬼嘉隆が代々の海上勢力を持つのとは異なり、嘉明の海戦の知識は完全に後から学んだものです。
1587年の九州征伐では淡路水軍を率いて薩摩へ海路から入り、1590年の小田原征伐では伊豆の下田城を海から攻略しました。

「陸戦の武将が必要に迫られて海戦を習得した」——この柔軟な適応力が、嘉明の大きな特徴のひとつです。


4. 朝鮮出兵での活躍

1592年(文禄元年)に豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)が始まると、嘉明は船奉行として約750名〜1,000名の兵を率いて参戦します。

7月に脇坂安治が単独で出撃して閑山島で李舜臣に大敗すると、嘉明と九鬼嘉隆は安骨浦に拠って防御態勢を維持しました。
この戦いで秀吉から感状を受けた嘉明らは、以後、釜山への海上補給路を守る任務に従事し続けます。
華々しい海戦だけでなく、兵糧や物資を届け続けるという地味で重要な仕事を担ったのです。

1597年(慶長2年)の漆川梁海戦では、関船(中型の戦闘船)から敵の大船に跳び込んで奮戦し、矢が股に刺さりながらも別の船を奪取したと伝えられます。
日本水軍はこの海戦で朝鮮船200余隻を捕獲する大勝を収めました。

同年9月の鳴梁海戦では、復帰した李舜臣の巧みな戦術に日本側は31隻を失いました。
この海戦の評価は日韓の史料で大きく異なっており、定説はありません。


5. 関ヶ原の戦いと松山城

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、嘉明は東軍(徳川方)の先鋒として石田三成の軍と直接交戦しました。
留守となった伊予(現在の愛媛県)には毛利勢約2,500が侵攻しましたが、老臣・佃十成が200の兵で夜襲を敢行して撃退しています。

戦後、10万石から20万石に加増された嘉明は、1602年(慶長7年)に松山城の築城を開始します。
勝山に建てられた松山城は、連立式天守と登り石垣という、朝鮮出兵での倭城(日本式城郭)建設経験を活かした実戦的な設計が特徴です。

城下町は30町の地割で計画され、嘉明が20町、家老・佃十成が10町を担当しました。
商人街(古町)を城の北西に置いたのは、外港・三津への物流ルートを最短にしつつ、海からの攻撃に対する守りも兼ねるという合理的な理由からでした。

家臣・足立重信は石手川の流路を大幅に変更する大工事を成し遂げ、灌漑面積約3,000ヘクタールの農業基盤を整備しました。
この功績から川は「重信川」と名付けられ、現在も愛媛県を流れています。


6. 福島正則との明暗

同じ七本槍の仲間として並び称される福島正則との対比は、嘉明の特徴をよく示しています。

正則は安芸・備後(現在の広島県)49万8,000石の大大名となりましたが、豊臣家への強い思い入れを持ち続け、幕府の天下普請(国家プロジェクト)には消極的でした。
1619年(元和5年)、広島城の石垣を幕府に届け出ずに修築したことが問題とされて改易となり、失意のうちに亡くなっています。

嘉明はこれとは対照的に、天下普請に積極的に参加し続けました。
そして正則が改易された際には、幕府の命で広島城の接収役(没収する側の担当)という、同輩に対する「汚れ役」を引き受けています。
感情より公務を優先したこの判断が、将軍家との信頼を積み上げることになりました。


7. 会津40万石と晩年

1627年(寛永4年)、嘉明は伊予松山20万石から会津へ転封(幕府命令による領地の移動)されました。
石高は40万石前後(資料により異なる)となり、大名としての絶頂期を迎えます。

この転封に際して、かつての宿敵・藤堂高虎が嘉明を幕府に推薦しました。
漆川梁海戦の軍功をめぐって30年以上も不仲だった二人が、「私事より公事」という判断で和解するというエピソードは、戦国から江戸への時代の変化を象徴しています。

嘉明は1631年(寛永8年)9月12日、江戸の屋敷で69歳で亡くなりました。
七本槍7名の中で最後の死でした。

その後、嫡子・明成が家督を継ぎましたが、家臣団との対立が深刻化し、1643年(寛永20年)に会津騒動が起きて40万石は没収されます。
孫・明友が石見(現在の島根県)に1万石を与えられて家名を存続させ、加藤家は明治維新まで続きました。


8. まとめ

加藤嘉明の生涯は、「適応力」と「判断力」で築かれたものでした。

場面嘉明の行動
播磨攻め(無断従軍)追放されかけるが秀吉に評価され直臣に
淡路城主就任陸戦武将から水軍指揮官に転身
関ヶ原東軍を選択し石高倍増
福島正則改易汚れ役の接収役を引き受け将軍家の信頼を得る
会津転封宿敵・藤堂高虎と和解し43万石を受ける

七本槍の称号で知られながら、嘉明を際立たせたのは武力よりも状況を読む眼でした。
乱世が終わり、幕府の支配が安定していく時代に、嘉明は「戦う武将」から「統治する武将」へと自らを変えていきました。
目立たない武将こそ、実は最も賢い生存者だったのかもしれません。


参考文献

  • 『新訂 寛政重修諸家譜 第13巻』続群書類従完成会、1965年(原編纂1812年)
  • 『天正記』内「柴田合戦記」大村由己、1583年頃成立(翻刻:『続群書類従』等)
  • 『加藤嘉明伝』著者不詳、1677年成立、甲賀市水口図書館蔵
  • 『愛媛県史 近世 上』愛媛県史編纂委員会、1986年
  • 『時代を駆け抜けた武将加藤嘉明——安城ゆかりの大名』安城市歴史博物館、2014年
  • 『松前・松山領主加藤嘉明と松山城』増補版、日下部正盛、2002年
  • 「系譜から見る加藤嘉明の出自について」『安城歴史研究』第40号、2015年
  • 加藤嘉明書状(片桐且元宛)、文化遺産オンライン
  • 松山城保存活用計画、松山市、2023年
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