讃岐うどんの歴史を紐解くー小麦・塩・伝説が織りなす食文化の物語

目次

はじめに

「うどん県」として全国に知られる香川県。
なぜ讃岐うどんはここまで有名になったのでしょうか。
その背景には、降水量の少ない気候、豊富な塩の生産、そして弘法大師空海にまつわる伝説という3つの要素が複雑に絡み合っています。
しかし、よく聞く「弘法大師がうどんを伝えた」という話は本当なのでしょうか。
この記事では、奈良時代から江戸時代にかけての史料を丁寧に読み解き、讃岐うどん文化の本当の成り立ちに迫ります。
歴史の真実と伝説を見極めながら、讃岐うどんがなぜ特別な存在となったのか、その秘密を一緒に探っていきましょう。

目次

  1. 讃岐の気候と小麦栽培
  2. 塩づくりの発展
  3. 弘法大師伝説の真相
  4. うどん文化の確立
  5. まとめ
  6. 参考文献

讃岐の気候と小麦栽培

讃岐国(現在の香川県)は瀬戸内海式気候に属し、年間降水量が約1,100mmと全国平均の6割程度しかありません。
この少雨の気候は稲作には不利でしたが、冬場は温暖で雪や雨が少なく、小麦栽培には適していました。

奈良時代から讃岐は大規模な穀倉地帯として開発が進められ、中央貴族や寺社が荘園を構えていました。
10世紀頃の記録によれば、讃岐国の農地面積は18,674町に達し、南海道で最大規模を誇っていたのです。

しかし、慢性的な水不足は深刻な課題でした。821年(弘仁12年)には、讃岐出身の空海が決壊していた満濃池の大規模修復を指揮し、日本最大級の灌漑池として再生させました。
この事業により、平野部の農地に安定した水源が確保されたと伝えられています。

戦国時代から江戸時代にかけて、二毛作が本格的に普及します。秋に稲を収穫した後、水田の水を抜いて畑として小麦を栽培する方法です。
この農法により、貴重な水資源を有効活用できるようになりました。
その結果、灌漑用のため池が爆発的に増加し、江戸時代には4,000基以上が築造されました。
讃岐平野に点在する無数のため池は、こうして生まれた独特の景観なのです。

1712年(正徳2年)に刊行された百科事典『和漢三才図絵』には、「諸国に小麦はあるが、讃州丸亀産が最上で、饅頭に加工すると色が白い」と記されています。
江戸時代中期には、すでに讃岐産小麦の品質が全国的に高く評価されていました。

昭和14年(1939年)には、香川県の小麦生産量が過去最高の74,000トンを記録しました。
昭和9年(1934年)の時点で、小麦の作付面積は34,502ヘクタールに達し、米の作付面積37,430ヘクタールの約9割に迫る規模でした。
讃岐はまさに「麦王国」と呼ばれる状況だったのです。

塩づくりの発展

うどんに欠かせないもう一つの原料が塩です。
讃岐では古代から塩の生産が行われており、奈良時代には朝廷に塩を献納する記録が『延喜式』に残されています。

塩づくりが飛躍的に発展したのは江戸時代です。
1600年頃(慶長年間)、播磨国赤穂からの移住者が坂出や丸亀に入浜式塩田を開拓しました。
入浜式塩田とは、遠浅の海岸で潮の干満差を利用し、海水を塩田に引き入れて太陽熱と風で蒸発させる製塩法です。
従来の揚浜式に比べて労力を大幅に軽減する技術革新でした。

讃岐の気候は塩田経営に理想的でした。
土地が平坦で雨が少なく、日照が強いという条件が揃っていたからです。
1824年から1829年(文政7年から12年)にかけて、久米栄左衛門通賢が高松藩の財政再建策として久米式塩田を完成させました。
規模は約115ヘクタール、当時日本有数の塩田です。
貯水池と踏車による排水設備を導入し、雨天時の塩田管理を飛躍的に改善した先進的なモデルケースとなりました。

昭和30年頃(1955年頃)には、香川県で全国の塩の約3分の1を生産するまでになります。
坂出市は全国塩生産の中心地となり、宇多津では濾過装置が7,500台も設置されました。
塩は砂糖・綿と並んで「讃岐三白」と呼ばれる主要産物となり、藩の財政を支える柱となったのです。

弘法大師伝説の真相

讃岐うどんの起源として、地元では「弘法大師(空海)が唐からうどんの製法を持ち帰った」という伝説が広く知られています。
空海は804年に遣唐使として長安に渡り、密教を学んで806年に帰国しました。
伝説によれば、この時に中国の麺料理を持ち帰ったとされています。

しかし、この伝承を裏付ける史料は一切存在しません。
空海が朝廷に提出した『御請来目録』(806年)には、密教経典や法具、仏像は詳細に記録されていますが、食品・食文化・製粉技術・麺類に関する記述は皆無です。
空海の著作『三教指帰』や『性霊集』にも、うどんや麺類への言及は存在しません。

江戸時代に編纂された空海の伝記や讃岐の地誌を調査しても、空海とうどんを結びつける記述は確認できていません。元禄時代(1700年頃)に制作された『金毘羅祭礼図屏風』には、金刀比羅宮門前町で「うどん」の看板を掲げる店が3軒描かれていますが、空海との関連は一切記されていないのです。

弘法大師伝説は全国に5,000以上存在し、井戸、温泉、池などの地域資源と弘法大師を結びつける典型的なパターンを持っています。
うどん伝承もこの類型に属し、地域の名産品と郷土の偉人を結びつけることで、権威性と文化的アイデンティティを獲得する民間伝承の一つと考えられます。

史料批判的検証の結果、この伝承は史実ではなく、江戸時代以降、おそらく明治時代以降の地域振興の文脈で形成・定着した可能性が高いと結論づけられています。

うどん文化の確立

では、讃岐でうどん文化はいつ確立したのでしょうか。

江戸時代初期の料理書『料理物語』(1643年刊)には、「切麦」「うどん」「そうめん」の調理法が記載されています。
当時の麺つゆは味噌仕立てが一般的で、醤油が庶民に普及するのはもう少し後のことでした。

江戸時代後期、金刀比羅宮への参詣がブームになると、門前町や港町で参拝客相手のうどん店が繁盛しました。
店頭の大釜で茹でた麺を素焼鉢に盛り、汁の入った猪口と薬味(生姜・葱)を添えて提供するつけ麺式が一般的だったようです。

しかし、江戸時代の讃岐でうどんは日常食ではありませんでした。
手間と時間をかけて作る「ハレ」の日の料理、つまり祝い事や祭礼の特別な食べ物だったのです。
うどんが日常的な外食として広がるのは、戦後になってからのことでした。

讃岐うどん文化の核心は、江戸時代に確立した塩という強固な経済基盤と、小麦という農業基盤によって形成されました。
讃岐国は、うどんの二大原料である小麦と塩を、いずれも産業レベルの規模で地元調達できた、日本国内でも稀有な地域だったのです。

まとめ

讃岐うどん文化の形成には、降水量の少ない気候下での小麦栽培、瀬戸内海の豊富な塩生産という2つの物質的基盤が不可欠でした。
弘法大師伝説は史実ではありませんが、郷土の偉人と名産品を結びつけることで、讃岐うどんに特別な文化的価値を与える役割を果たしてきました。

歴史の実証研究は、伝説と史実を厳密に区別します。
しかし同時に、伝説もまた地域のアイデンティティを形成する重要な文化的要素であることを認識する必要があります。
讃岐うどんは、確かな物質的基盤の上に、人々の想いと伝承が重なり合って育まれた、豊かな食文化なのです。


参考文献

一次資料

  • 『延喜式』藤原時平・藤原忠平等撰、927年(延長5年)成立、国立国会図書館デジタルコレクション
  • 『和漢三才図絵』寺島良安編、1712年(正徳2年)、国立国会図書館デジタルコレクション
  • 『金毘羅祭礼図屏風』狩野休円清信作、1702年頃(元禄15年頃)、金刀比羅宮所蔵
  • 『御請来目録』空海撰、806年(大同元年)、国立国会図書館デジタルコレクション
  • 『続日本後紀』藤原良房等撰、869年(貞観11年)成立、国立国会図書館デジタルコレクション
  • 『料理物語』著者不詳、1643年(寛永20年)

二次資料(公的)

学術論文・研究資料

  • 真部正敏「讃岐うどんの発祥と躍進」『Civil Engineering Consultant』Vol.259、建設コンサルタンツ協会誌、2013年
  • 溝渕利博「明治中期香川県における『讃岐三白』誕生の背景」高松大学研究紀要、2016年
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