謀略で戦国を駆け抜けた男ー尼子経久の波瀾万丈な生涯

目次

はじめに

追放され、すべてを失った男が、芸能集団に変装して自らの城を奪還する―まるで映画のような劇的な逆転劇が、500年以上前の日本で実際に起こりました。
その主人公が、中国地方で「謀聖」と恐れられた戦国大名・尼子経久です。
守護代という中間管理職的な地位から身を起こし、最盛期には十一ヵ国に影響力を及ぼした経久の人生は、戦国時代の「下剋上」を体現するものでした。
武力だけでなく、巧みな謀略と文化的教養を武器に戦国の世を生き抜いた経久の生涯を、わかりやすく紐解いていきます。

note(ノート)
戦国の謀将・尼子経久 ― 月山富田城を取り戻した男の光と影|hiro | ゆる歴史かわら版 はじめに 正月元旦、太鼓や笛の音色が響く中、色とりどりの装束を纏った芸能者たちが城門をくぐります。 城内では新年を祝う人々が舞を見物しようと集まってきました。 し...

目次

  1. 尼子経久という人物
  2. 追放からの劇的な復活
  3. 「下剋上」の真実
  4. 謀略の天才としての手腕
  5. 最盛期:十一ヵ国太守への道
  6. 隠居と晩年の苦悩
  7. 経久亡き後の尼子氏
  8. おわりに

尼子経久という人物

尼子経久は1458年、出雲国の守護代・尼子清定の子として生まれました。
守護代とは、守護大名の代理として現地を治める役職です。
経久の家系は宇多源氏佐々木氏の流れを汲み、京極氏の分家として出雲国に配置されていました。

16〜17歳の頃、経久は人質として京都へ送られ、主君・京極政経の屋敷で約5年間を過ごします。
この京都滞在が、後の経久の教養形成に大きな影響を与えました。
当時最高水準の連歌や和歌といった文芸に触れ、室町幕府を中心とする政治の仕組みを学んだのです。
「文武二道の達者」と評された経久の素養は、この時期に培われたと考えられています。

1478年頃、父から家督を継いだ経久は出雲守護代となりました。
しかし、若き経久の野心は主君の命令に従う範囲には収まりませんでした。

追放からの劇的な復活

経久は守護代として領国経営を進める中で、次第に幕府や主君・京極氏の命令に背くようになります。
寺社領を押領したり、幕府への税金納入を拒否したりと、既存の権威に公然と挑戦する姿勢を示しました。

1484年3月17日、ついに室町幕府は経久追討令を発します。
京極政経の命を受けた諸将の攻撃により、経久は本拠地・月山富田城から追放され、守護代職も剥奪されました。
新たな守護代には塩冶掃部介が据えられ、経久は一介の浪人へと転落します。

しかし、経久はこの屈辱に屈しませんでした。
約2年間の雌伏期間を経て、1486年元旦、驚くべき奇策を実行に移します。
経久が着目したのは、正月の祝賀行事として城内で芸能を披露する「鉢屋衆」という地元の芸能集団でした。

元日、経久と鉢屋衆約70名は「千秋万歳」という正月の舞を演じる芸人として月山富田城に潜入します。
烏帽子や素襖(すおう)の装束の下には武具を隠し持ち、正月で警戒が緩んだ城兵の前で舞を披露しました。
その隙を突いて経久の手勢は城内各所に放火。
合図とともに鉢屋衆も一斉に武器を取り、内側から反撃を開始しました。
不意を突かれた守護代方は混乱し、塩冶掃部介は妻子を手にかけて自害。
こうして経久は劇的に富田城を奪還したのです。

ただし、この奇襲作戦については注意が必要です。
詳細な描写は『雲陽軍実記』や『陰徳太平記』といった軍記物によるもので、後世の脚色が含まれている可能性が指摘されています。
実際には、経久は追放後も出雲国内で一定の権力を保持していたという研究もあります。

「下剋上」の真実

経久は長らく北条早雲と並ぶ「下剋上の典型」とされてきました。
しかし、現代の学術研究では、この評価は再検討されています。

経久が出雲守護に就任したのは、1514〜15年頃に主君・京極政経の孫である吉童子丸が病没し、京極氏宗家が断絶した後のことでした。
経久は京極氏と同じ佐々木氏の一族として、幕府から守護職を公式に認められたのです。
『大舘常興書札抄』には「雲州守護佐々木尼子殿」という記載があり、これは幕府による承認の証拠といえます。

つまり、経久の権力掌握は、守護代が実力で守護を倒した純粋な「下剋上」というより、同族相続の論理に基づく正統な継承プロセスだったという見方が有力です。
とはいえ、かつての主君を実質的に排除して独立勢力となった点では、戦国大名への転換を象徴する存在であることに変わりありません。

謀略の天才としての手腕

経久が「謀聖」(謀略の聖人)と呼ばれた所以は、正面からの武力衝突よりも調略や情報戦を重視した点にあります。

代表的な事例が1523年の鏡山城攻略です。
経久は当時配下にあった毛利元就に命じて、大内氏方の城主・蔵田房信の叔父である蔵田直信を寝返らせました。
「城主の地位を保証する」という約束で直信は内応し、城は陥落します。
しかし、戦後、経久は直信を処刑したとされます
。「主君を裏切る者は信用できない」というのが理由でした。

この冷徹な処断は経久の謀略主義を象徴しますが、同時に重大な副作用をもたらしました。
この一件は毛利元就に「尼子は約束を守らない」という強烈な不信感を植え付け、後に元就が尼子氏から離反する一因となったと考えられています。

経久は鉢屋衆を家臣団の一部として制度化し、諜報活動や破壊工作を担う特殊部隊として活用しました。
また、出雲国内の有力国人との婚姻政策を積極的に展開し、千家氏・北島氏・宍道氏・塩冶氏などを尼子氏の支配体制に組み込んでいきました。

最盛期:十一ヵ国太守への道

1508年、宿敵・大内義興が将軍擁立のため上洛すると、経久はその留守を狙って勢力拡大を図ります。
大内氏との正面衝突を避けつつ、周辺の石見・伯耆・因幡などへ影響力を伸ばしていきました。

最盛期の1520年代、経久の支配領域は出雲・隠岐・石見東部・伯耆西部を直轄支配し、備後・安芸・備中・美作などに影響力を及ぼすまでになりました。
軍記物では「十一ヵ国太守」と称されますが、これは直接領有ではなく、各地の国人領主を従えた影響圏を意味します。

この広大な勢力圏を支えたのが、出雲の豊かな経済基盤でした。
中国山地で産出される鉄(たたら製鉄)は、当時の日本の鉄生産量の約8割を占めたとされ、石見銀山とともに尼子氏の財政を潤しました。

隠居と晩年の苦悩

1537年、経久は80歳近くになって家督を孫の詮久(後の晴久)に譲り隠居しました。
しかし、カリスマ的な経久の引退は、尼子氏の結束に微妙な影を落とします。

1540年、晴久は安芸国の毛利元就を討つべく吉田郡山城へ大軍を派遣しました。
病床の経久はこの遠征を「無謀」として諫めたと伝わりますが、晴久は聞き入れませんでした。
結果は尼子軍の大敗。
毛利元就の巧みな籠城戦術と大内氏の援軍により、多くの国人衆が離反を始めます。

1541年11月、この敗報に衝撃を受けた経久は、84歳で月山富田城にて生涯を閉じました。
死の間際、孫の晴久に「お前の代で尼子が滅ぶのではないか」と懸念を漏らしたといいます。

経久亡き後の尼子氏

経久の死後、尼子氏は急速に瓦解していきます。
晴久は中央集権化を図りましたが、1554年、有力一門である新宮党(経久の次男・尼子国久の一族)を粛清してしまいます。
この事件は毛利元就の謀略によるものとも言われ、精鋭軍事力を失った尼子氏はさらに弱体化しました。

1560年に晴久が病死すると、跡を継いだ義久は既に往時の勢いを失った家中を立て直せませんでした。
毛利元就は調略と兵糧攻めで月山富田城を包囲し、1566年11月、義久は降伏。
ここに戦国大名・尼子氏は滅亡しました。経久の死からわずか25年後のことでした。

おわりに

尼子経久の生涯は、謀略と実力で戦国の世を駆け抜けた一人の男の物語です。
彼が築いた国人連合体は、カリスマ的な個人の力に依存しており、その構造的脆弱性が後の滅亡につながりました。
しかし、既存の権威に縛られず新しい時代を切り開いた経久の生き様は、今なお多くの人々を魅了し続けています。

参考文献

  • 『吉川家文書』所収・室町幕府奉行人連署奉書(東京大学史料編纂所)
  • 『大舘常興書札抄』(東京大学史料編纂所)
  • 『雲陽軍実記』河本隆政著(広瀬町城安寺、東京大学史料編纂所写本)
  • 『陰徳太平記』香川正矩編纂(国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 長谷川博史『戦国大名尼子氏の研究』吉川弘文館、2000年
  • 今岡典和「戦国期の守護権力―出雲尼子氏を素材として」『史林』66巻4号、史学研究会(京都大学)、1983年
  • 『松江市史 通史編2 中世』松江市史編集委員会、2016年
  • 西島太郎「戦国期守護職をめぐる尼子氏と京極氏」『古文書研究』92号、日本古文書学会、2021年
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