はじめに
戦国時代の勇猛果敢な武将として知られる福島正則。
豊臣秀吉の親族として「賤ヶ岳七本槍」に名を連ね、関ヶ原の戦いでは東軍の先鋒を務めた彼は、なぜ最期に49万石から4万5000石へと91%もの領地を失う屈辱的な転落を経験したのでしょうか。
城の修理という些細な理由で改易された裏には、武力の時代から法治の時代への大きな転換期における悲劇が隠されています。
本記事では、福島正則の生涯を通じて、戦国から江戸時代への移行期に生きた武将たちの運命を読み解きます。

目次
- 豊臣秀吉との血縁関係と出世
- 賤ヶ岳の戦いと武断派の形成
- 石田三成との対立
- 関ヶ原の戦いでの活躍
- 広島藩主としての治績
- 酒豪エピソードと「日本号」
- 改易への道のり
- 晩年と最期
- まとめ
1. 豊臣秀吉との血縁関係と出世
福島正則は1561年、尾張国海東郡二ツ寺村(現在の愛知県あま市)に生まれました。
母が豊臣秀吉の叔母であったため、正則は秀吉の従兄弟という関係にあたります。
この血縁関係により、幼少期から秀吉の小姓として仕え、1578年の播磨国三木城攻めで初陣を飾りました。
「豊臣正則」を名乗った時期もあったほど、秀吉との結びつきは強固でした。
この親密な関係が、後の徳川政権下で彼を「潜在的な脅威」として警戒される要因となったのは皮肉な運命といえるでしょう。
2. 賤ヶ岳の戦いと武断派の形成
1583年の賤ヶ岳の戦いは、福島正則の名を天下に轟かせた戦いです。
この戦いで敵将・拝郷家嘉(はいごういえよし)を討ち取る「一番槍」の武功を挙げ、他の六本槍が3000石の恩賞を得たのに対し、正則は5000石を賜りました。
ただし、「七本槍」という呼称自体は江戸時代の『太閤記』(1625年)以降に定着した名称であり、当時の一次資料では確認されていない点には注意が必要です。
この戦功により、正則は加藤清正らとともに豊臣政権の武断派(軍務を担う武闘派)の中核となっていきます。
3. 石田三成との対立
豊臣政権内部では、軍務を担う武断派と、行政・兵站を担う文治派の間に深刻な対立が生じました。
その象徴的存在が福島正則と石田三成です。
文禄・慶長の役(1592-1598年の朝鮮出兵)では、三成が五奉行の一人として戦功評価を統括しました。
前線で命を張った武将たちは、自らの功績が正当に評価されないことに強い不満を募らせます。
特に蔚山城の戦いでの不公平な処分は、武断派の怒りを決定的なものとしました。
1599年、調停役だった前田利家の死去直後、福島正則ら七将が石田三成を襲撃する事件が発生します。
近年の研究では、これは「武装襲撃」ではなく三成への制裁を求める「訴訟騒動」であったとする見解も有力です。
徳川家康の仲裁により三成は佐和山城へ退去し、武断派と徳川家の政治的接近が進みました。
4. 関ヶ原の戦いでの活躍
1600年9月15日の関ヶ原の戦いで、福島正則は東軍先鋒として約6000の兵力を率いて参戦しました。
正則が東軍に与した理由は「石田三成憎し」という感情が大きかったとされます。
黒田長政から「この戦は豊臣家に弓引くものではなく三成討伐である」と説得されたことも影響しました。
戦闘では西軍最大勢力・宇喜多秀家軍(約1万7000人)の猛攻を受け、一時約500メートル後退する危機に陥りましたが、援軍の到着と小早川秀秋の寝返りにより戦局は一変します。
家臣の可児才蔵が17の首級を挙げるなど、正則隊は東軍勝利の立役者となりました。
この戦功により、正則は西軍総大将・毛利輝元の旧領である安芸・備後約50万石を賜りました。
敵軍総大将の居城を恩賞として与えられたことは、正則が「功績第一」と評価された証左です。
5. 広島藩主としての治績
1601年3月、正則は広島城に入城しました。
彼の領国経営は、単なる武人のイメージを覆す緻密さを示しています。
主な治績:
- 検地の実施:1601年秋までに安芸・備後両国の約900余村について詳細な検地を完了
- 城下町開発:西国街道(山陽道)を城下に引き入れ、商業発展を促進
- 治水事業:太田川水系の舟運整備、堤防工事など
- 宗教統制:修験者(山伏)を組織化し、情報収集網として活用
検地結果に基づく「惣百姓による年貢村請制」により、毛利時代の約40万石余から福島氏時代には52万石余へと石高が増加しました。
これらの実績は、正則が優れた統治者としての能力を持っていたことを物語ります。
6. 酒豪エピソードと「日本号」
福島正則の人物像を語る上で欠かせないのが、酒にまつわる逸話です。
最も有名なのが、黒田節のモデルとなった名槍「日本号」の譲渡劇でしょう。
1596年頃とされる宴席で、酩酊状態の正則は黒田家臣・母里太兵衛に「三升入りの大杯を飲み干せば何でも褒美をやる」と豪語しました。
太兵衛は見事に飲み干し、天下三名槍の一つ「日本号」を所望します。
正則は狼狽しましたが「武士に二言はない」として渡さざるを得ませんでした。
この逸話について、一次資料は現在まで発見されていませんが、「日本号」という槍自体は実在し(現・福岡市博物館所蔵)、その伝来が「皇室→足利義昭→織田信長→豊臣秀吉→福島正則→母里太兵衛」であることは物理的証拠から概ね事実と認められています。
7. 改易への道のり
1615年の大坂の陣による豊臣家滅亡後、幕府は「武家諸法度」を制定しました。
その重要条項の一つが「城の修復は必ず幕府に届け出て許可を得ること」でした。
1617年、大洪水により広島城の石垣や櫓が破損します。
正則は修復の許可を申請しましたが、幕府は意図的に許可を先延ばしにしたとされます。
業を煮やした正則は1618年4月から修復工事を開始しました。
1619年4月、将軍徳川秀忠は激怒し、当初は改易を検討しましたが、「本丸以外の修築分をすべて破却」「嫡子忠勝の上洛」を条件に赦免を決定します。
しかし正則は「本丸の修築分のみ破却」し、二の丸・三の丸の修築分は据え置きました。
さらに人質として送るべき嫡子の出発を遅らせたため、秀忠の怒りは頂点に達しました。
同年6月、幕府は安芸・備後約50万石を没収し、信濃国高井郡2万石と越後国魚沼郡2万5000石、計4万5000石への減転封を命じます。
広島城の家臣団は正則の安否確認後に整然と城地を引き渡し、この対応は後に大名改易時の模範とされました。
8. 晩年と最期
改易後、正則は信濃高井野へ退去し、出家して「高斎」と号しました。
1620年、嫡男・福島忠勝が23歳で早世すると、悲嘆のあまり越後国魚沼郡2万5000石を幕府に返上します。
わずか5年間の在越期間中にも、正則は領内総検地を実施し、新田開発・治水工事を推進しました。
小布施町の岩松院には福島正則霊廟が現存しています。
1624年7月13日、正則は高井野で死去しました。
享年は63歳または64歳とされます。
問題は、幕府の検死役が到着する前に家臣が遺体を火葬したことでした。
これが再び武家諸法度違反として問われ、残りの2万石も没収され、福島家は完全に取り潰されました。
9. まとめ
福島正則の生涯は、武力による突破が価値とされた戦国時代から、法と秩序による統治が求められる江戸時代への移行期を象徴しています。
賤ヶ岳・関ヶ原で武功を挙げ、広島藩主として検地・治水・城下町開発に手腕を発揮した正則は、決して「猪武者」ではありませんでした。
しかし、豊臣家との血縁、武断派の象徴としての存在、そして幕府命令への不十分な対応は、徳川幕藩体制が安定を志向するなかでリスク要因と見なされました。
正則改易後、広島には浅野長晟が移封され、和歌山には徳川頼宣が入って紀州徳川家が成立します。
秀忠による大名配置再編の一環として、正則は平和な時代の統治システムから排除されたのです。
彼の悲劇は、個人の資質によるものではなく、時代の構造的転換による必然であったといえるでしょう。
参考文献
一次資料
- 『慶長六年安芸国佐西郡伏谷上村検地帳』(広島城所蔵、広島市指定重要有形文化財)
- 『福島正則知行宛行状』(広島城所蔵)
- 『土肥文庫所収法令文書群』
公的資料
- 『広島県史 近世Ⅰ・近世資料編Ⅰ・Ⅲ』広島県、1976-1981年
- 『しろうや!広島城 第66号「福島正則の慶長検地と知行割」』広島市文化財団広島城、2020年
- 『長野県史(近世史料編)』長野県史刊行会、1971-1992年
- 『徳川実紀(元和5年条)』江戸幕府編纂、1809-1849年
二次資料
- 笠谷和比古「豊臣七将の石田三成襲撃事件」『日本研究』22巻、国際日本文化研究センター、2000年
- 白峰旬「豊臣七将襲撃事件は「訴訟騒動」である」『史学論叢』48号、別府大学、2018年
- 田部井鉚太郎『福島正則伝』1917年

コメント