はじめに
「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」——この言葉を聞いたことはありますか?
これは、敵であった島津家の武将が、ある一人の武将を評した言葉です。
その武将こそ、真田信繁(さなだのぶしげ)。
「真田幸村」の名で広く知られる戦国時代末期の名将です。
14年もの長い幽閉生活を経て、49歳で最後の戦いに挑んだ信繁。
徳川家康を追い詰め、その馬印を倒すほどの猛攻を見せた彼の生涯には、現代の私たちの心を揺さぶる何かがあります。
この記事では、一次資料に基づきながら、真田信繁の実像に迫ります。

目次
- 真田信繁の生い立ちと武田家との関係
- 関ヶ原の戦いと九度山での14年間
- 大坂冬の陣と真田丸の戦い
- 徳川方からの寝返り誘引を拒否
- 大坂夏の陣と「日本一の兵」への道
- 「幸村」の名は後世の創作だった
- まとめ
- 参考文献
真田信繁の生い立ちと武田家との関係
真田信繁は、永禄10年(1567年)に信濃国の国衆・真田昌幸の次男として生まれました。
近年の研究では元亀3年(1572年)生まれとする説も提唱されています。
真田家は甲斐の武田氏に仕えており、父・昌幸は武田信玄のもとで軍略を学んでいました。
成長期の信繁は、人質として武田勝頼、上杉景勝、そして豊臣秀吉のもとを転々としています。
豊臣政権下では馬廻衆として1万9000石の知行を与えられ、大名として遇されました。
この秀吉との主従関係が、後の大坂の陣への参戦動機となったのです。
関ヶ原の戦いと九度山での14年間
慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いに際して昌幸・信繁父子は西軍に与しました。
上田城に籠城した両名は、約2,500の兵で徳川秀忠率いる38,000の大軍を数日間足止めし、秀忠軍の関ヶ原本戦への遅参を招いています。
西軍敗北後、父子には本来死罪が命じられるところでしたが、兄・真田信之とその舅・本多忠勝の助命嘆願により、高野山への配流に減刑されました。
その後、紀伊国の九度山へ移り住むことになります。
九度山での生活は困窮を極めました。
兄・信之からの仕送りに依存し、信繁が書いた書状には「焼酎を送ってほしい」という細かな要望まで記されています。
慶長16年(1611年)6月4日には父・昌幸が享年65歳で病死。流刑人であったため、葬儀すら挙げられませんでした。
大坂冬の陣と真田丸の戦い
慶長19年(1614年)10月、豊臣秀頼からの招聘を受けた信繁は、14年間過ごした九度山を脱出し、大坂城に入城しました。
黄金200枚、銀30貫を下賜され、豊臣方の主要な将として迎えられています。
信繁は積極的な出撃策を主張しましたが、首脳部は籠城策を採用。
そこで信繁は大坂城南方の弱点に着目しました。
三方を河川に守られた大坂城も、南方のみは地続きで空堀だけの防御だったからです。
信繁は平野口に独立した出城「真田丸」を築くことを献策。
三方に堀・塀を配し、外側には三重の柵を敷設しました。
内部は二段構造で、火縄銃を効果的に使用できる設計となっています。
慶長19年12月4日の真田丸の戦いでは、信繁は巧みな誘引作戦を展開しました。
前方の篠山から兵を撤収させて敵を挑発し、殺到してきた前田軍を集中砲火で撃退。
イエズス会宣教師はこの戦闘を「大虐殺」と表現しています。徳川軍の損害は2,000人から数千人と推定され、豊臣方はほぼ無傷でした。
徳川方からの寝返り誘引を拒否
慶長20年(1615年)2月、冬の陣の講和後、徳川方は信繁の調略を試みました。
本多正純が主導し、叔父・真田信尹を使者として派遣したのです。
第一次提案として「信濃国内で10万石」が提示されましたが、信繁は「秀頼には恩がある」として拒否。
第二次提案では「信濃一国」(約40万石相当)という破格の条件が提示されましたが、信繁は激怒し対面を打ち切ったと伝わっています。
信繁は「領土」という実利よりも、「恩義」と「名誉」を優先したのです。
これは、武士としての美学を貫こうとした彼の生き様を象徴する出来事でした。
大坂夏の陣と「日本一の兵」への道
慶長20年(1615年)5月7日、天王寺・岡山の戦いで最終決戦が行われました。
信繁は茶臼山に本陣を置き、赤備えの兵約3,500を率いて出陣。
赤備えとは武具を赤で統一した部隊編成で、武田氏精鋭の象徴として知られていたものです。
信繁は自隊を数段に分け、松平忠直勢15,000と交戦しながら、徳川家康本陣へ3度にわたり突撃を敢行しました。
家康の馬印が倒れ(三方ヶ原以来2度目)、家康は自害を覚悟したとも伝わっています。
しかし信繁の兵力は消耗し、最終的に敗北。
安居神社付近で越前松平家鉄砲組頭・西尾宗次に討ち取られ、享年49歳で戦死しました。
同年6月11日、薩摩藩主・島津忠恒は国許への書状で「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由。惣別これのみ申す事に候」と記しています。
「みんなこのことばかり言っている」という意味であり、信繁の武勇は敵方からも称賛されたのです。
「幸村」の名は後世の創作だった
重要な史料的事実として、一次史料(自筆書状)では信繁は一貫して「信繁」を使用しています。
道明寺の戦いで家臣に与えた感状(死の前日)でも「信繁」と署名していました。
「幸村」の名の初出は寛文12年(1672年)刊行の軍記物『難波戦記』であり、生前の使用例は確認されていません。
文化6年(1809年)、幕府大目付の問い合わせに対し、松代藩真田家は「当家では『信繁』と把握している」と回答しています。
つまり、私たちがよく知る「真田幸村」という名前は、後世の創作だったのです。
まとめ
真田信繁は、14年間の幽閉生活という逆境を経ても、武士としての誇りを失わなかった人物でした。
徳川方からの破格の条件を拒否し、最後まで豊臣家への忠義を貫いた姿勢は、敵味方を問わず称賛されています。
真田丸での巧みな戦術、赤備えによる心理戦、そして家康本陣への決死の突撃——これらの武勇が「日本一の兵」という評価につながりました。
史実の信繁は、講談で語られる万能の軍師ではなく、困窮の中で義を通した一人の人間だったのです。
参考文献
一次資料
- 真田信繁発給文書群(書状17-20通)、真田信繁、1582-1615年、国文学研究資料館収蔵歴史アーカイブズデータベース
- 信濃国松代真田家文書(52,162件)、松代藩真田家、16-19世紀、国文学研究資料館
- 薩藩旧記雑録後編(慶長20年6月11日条)、島津忠恒、1615年、東京大学史料編纂所
- 駿府記、後藤光次、1611-1615年頃、国立国会図書館デジタルコレクション
二次資料・研究書
- 『真田信繁の書状を読む』、丸島和洋、2016年、星海社新書
- 『真田丸の謎―戦国時代を「城」で読み解く』、千田嘉博、2015年、NHK出版新書
- 『大坂の陣全史 1598-1616』、渡邊大門、2022年、草思社
- 『戦国遺文 真田氏編』第1-3巻、黒田基樹・平山優・丸島和洋(共編)、2018-2020年、東京堂出版
- 『論集戦国大名と国衆21 真田信之・信繁』、黒田基樹・丸島和洋(共編)、2018年、岩田書院
- 『諸国古城之図』所収「摂津真田丸」図の再検討、大阪文化財研究所
公的資料
- 真田宝物館所蔵資料、真田宝物館(長野県長野市松代町)
- 「忠昌様大坂ニ而御戦功有増」、福井県立文書館(松平文庫)、慶長19年(1615年)
- 『火縄銃と大坂冬の陣・夏の陣』、名古屋刀剣博物館
- 「幸村について」、九度山町真田ミュージアム(九度山町観光協会)、2018年

コメント