はじめに
中世の戦場を支配していたのは、重装備の騎士と弓兵でした。
しかし、1450年代、フランスの二人の兄弟が導入した「大砲」という新兵器が、数百年続いた戦争の常識を覆します。数ヶ月かかっていた城攻めがわずか数週間で終わり、最強と恐れられたイングランドの長弓隊が、砲撃の前に無力化される――。
百年戦争の終結は、実は「火薬による軍事革命」の始まりでもあったのです。
財務官という文民出身でありながら、ヨーロッパの戦争を一変させたビューロー兄弟の物語を紐解いていきましょう。

目次
- 戦争を変えた二人の兄弟
- 三つの技術革新が生んだ圧倒的火力
- ノルマンディー奪還:城壁が無意味になった日
- フォルミニーの戦い:野戦での大砲デビュー
- カスティヨンの戦い:300門の砲が作った地獄
- 中世の終わりと近代戦争の始まり
1. 戦争を変えた二人の兄弟
1439年、フランス王シャルル7世は画期的な人事を断行しました。
王室砲兵長官に任命されたのは、騎士ではなく法律家出身のジャン・ビューローでした。
彼の弟ガスパールも1444年に砲兵長官に就任し、兄弟二人体制で軍事改革に乗り出します。
当時のフランスは、百年戦争の劣勢から抜け出せずにいました。
1415年のアジャンクールの戦いでは、フランスの重装騎士がイングランドの長弓兵に完敗。
伝統的な騎士道精神に基づく戦い方では、もはや勝てない時代になっていたのです。
ビューロー兄弟が重視したのは、名誉や勇敢さではなく、「計算された火力」と「効率的な兵站」でした。
騎士階級出身ではない彼らだからこそ、古い価値観にとらわれない改革が可能だったのです。
2. 三つの技術革新が生んだ圧倒的火力
ビューロー兄弟が推進した技術革新は、大きく三つあります。
第一に、大砲の口径を標準化しました。
それまで各地でバラバラに作られていた大砲を、2、4、8、16、32、64ポンドの6段階に統一したのです。
これにより弾薬の互換性が生まれ、補給が劇的に効率化されました。
第二に、粒状火薬の導入です。
従来の火薬は粉末状で、運搬中に成分が分離してしまう問題がありました。
新しい粒状火薬は、湿らせてから粒状に固めることで、この問題を解決。
さらに威力も約30%向上し、湿気にも強くなりました。
第三に、砲弾を石から鉄に変更しました。
鉄は石の約3倍の密度があるため、同じ口径でもより大きな破壊力を発揮します。
さらに、鉄製なら砲身を細く軽量化できるため、移動も容易になりました。
これらの改革により、1450年までにフランス砲兵隊は工員・砲手約3,000人を擁する専門組織へと成長します。
中世の「補助兵器」だった大砲が、戦争の主役に躍り出た瞬間でした。
3. ノルマンディー奪還:城壁が無意味になった日
1449年、シャルル7世はノルマンディー奪還作戦を開始しました。
ビューロー兄弟の砲兵隊が先導するこの遠征は、攻城戦の常識を覆すものでした。
首都ルーアンの攻略では、かつてイングランド王ヘンリー5世が6ヶ月かけて陥落させた城が、わずか3週間で降伏します。
イングランド側の司令官サマセット公は、ビューロー兄弟の大砲部隊が前進してくるのを見ただけで、抵抗を諦めたと記録されています。
城壁がボンバルド砲の砲撃に耐えられないことは、誰の目にも明らかでした。
1450年6月のカーン攻囲戦では、17門の大型ボンバルド砲が城壁を砲撃し、約3週間で降伏させました。
同時代の記録は「かつてないほどの大砲、カノン、ヴグレール、セルパンティーヌ、クルヴリーヌの大軍」と表現しています。
1449年から1450年8月までの約1年間で、フランス軍は約60の攻城戦を完遂し、34年間続いたイングランドのノルマンディー支配を終わらせました。
中世的な高い石壁は、もはや防御の要ではなくなっていたのです。
4. フォルミニーの戦い:野戦での大砲デビュー
1450年4月15日、バイユー近郊のフォルミニー村で、大砲の歴史に残る戦いが起こりました。
イングランドは約4,000人の援軍を派遣し、フランス軍約3,000人と対峙します。
イングランド軍は伝統的な戦術――杭を打ち込んで長弓兵の防御陣形を作り、敵を待ち受ける――を展開しました。
しかしフランス軍は、2門のクルヴリン(長砲身の野戦砲)を長弓の射程外に配置。
砲撃を開始します。
弓矢が届かない距離から一方的に砲弾を浴びせられ、イングランド兵は苛立ちを募らせました。
痺れを切らしたイングランド軍は防御陣地を離れ、大砲を奪おうと前進。
まさにフランス軍の狙い通りでした。
陣形を崩したところに、リシュモン大元帥率いる約2,000人のブルターニュ騎兵が側面から突撃。
挟撃されたイングランド軍は壊滅し、約3,500人の部隊が大敗を喫しました。
この戦いは、「ヨーロッパの野戦で大砲が戦術的に使用された最初期の記録」として、軍事史上重要視されています。
大砲は攻城戦専用ではなく、野戦でも敵の動きをコントロールする強力な武器になったのです。
5. カスティヨンの戦い:300門の砲が作った地獄
百年戦争最後の決戦は、1453年7月17日にギエンヌ地方のカスティヨンで行われました。
ジャン・ビューローは、ドルドーニュ川沿いに巨大な砲兵陣地を構築します。
全長約700メートル、幅約200メートルの陣地は、深さ3~4メートルの壕と土塁、倒木の柵で囲まれ、約300門の大砲が配置されました。
陣地は不規則な波状に設計され、どの角度から攻撃されても十字砲火を浴びせられる「キルゾーン」となっていました。
イングランド軍を率いるのは、名将ジョン・タルボット。
早朝にフランス軍の前哨を撃破した後、陣地から上がる砂塵をフランス軍の撤退と誤認します。
十分な偵察もせず、数千人の兵を率いて砲兵陣地へ突撃を命じました。
午前中、イングランド軍が陣地に接近すると、ビューロー指揮下の300門の大砲が一斉に火を噴きました。
当時の記録は「一発ごとに6人が倒れた」「前代未聞の雷鳴のような砲声が平原に響いた」と表現しています。
兵士たちは壕を越えようとしましたが、砲弾で腕や脚が吹き飛ばされ、次々と倒れていきます。
1時間以上の攻撃を試みましたが、砲撃の嵐を突破することはできませんでした。
正午頃、北側で待機していたブルターニュ騎兵が側面に突撃し、イングランド軍は完全に崩壊。
タルボット自身も砲弾で馬を撃たれて落馬し、フランス兵に討ち取られました。
イングランド軍は約4,000人が死傷・捕虜となったのに対し、フランス軍の損害はわずか約100人。圧倒的な一方的勝利でした。
6. 中世の終わりと近代戦争の始まり
カスティヨンの戦いの後、ボルドーは1453年10月19日に降伏し、百年戦争は事実上終結しました。
この戦いは「大砲によって決定的に勝利した最初のヨーロッパの会戦」として、軍事史の転換点とされています。
1346年のクレシーの戦いでは、フランス騎士の突撃がイングランド長弓兵に壊滅させられました。
カスティヨンでは、この構図が完全に逆転。
イングランド歩兵の突撃が、塹壕に配置された火砲によって壊滅させられたのです。
中世的な城塞と騎士の突撃が、砲兵火力の前に無力化されたことが明確になりました。
以後、ヨーロッパ各国は城塞設計を根本的に見直します。
1480年代には「イタリア式築城法」が発展し、城壁を低く厚くして砲撃に耐える設計が標準となりました。
ビューロー兄弟の改革は、単なる技術革新にとどまりません。
それは戦争の主体が「封建領主の連合」から「国王の常備軍」へ、戦闘の中心が「個人の武勇」から「組織化された火力」へと移行した証でした。
中世が終わり、近代が始まる――その歴史的瞬間に、二人の兄弟が立っていたのです。
参考文献
一次資料
- Jean Chartier, “Chronique de Charles VII, roi de France” (1858, 原典1422-1461)
- Thomas Basin, “Histoire de Charles VII” (1933-1944, 原典15世紀)
- Gilles le Bouvier (Héraut Berry), “Recouvrement de Normendie / Chroniques de Charles VII” (15世紀)
二次資料
- Clifford J. Rogers, “The Military Revolutions of the Hundred Years War”, Journal of Military History 57 (1993), pp. 241-278
- Kelly DeVries, Robert D. Smith, “Medieval Military Technology, 2nd ed.”, University of Toronto Press (2012)
- Philippe Contamine, “Guerre, état et société à la fin du moyen âge: Études sur les armées des rois de France 1337-1494”, Mouton, Paris (1972)
- H. Dubled, “L’artillerie royale française à l’époque de Charles VII et au début du règne de Louis XI (1437-1469): les frères Bureau”, Mémorial de l’Artillerie Française 50 (1976)
- Alfred H. Burne, “The Battle of Castillon 1453”, History Today (1953年4月)

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