はじめに
「独眼竜」伊達政宗の名を知らない人は少ないでしょう。
しかし、その政宗を陰で支え続けた名参謀の存在をご存じでしょうか。
片倉小十郎景綱――豊臣秀吉と徳川家康という二人の天下人から直臣への誘いを受けながらも、生涯を通じて政宗への忠義を貫いた人物です。
伝説的な逸話に彩られた景綱ですが、近年の研究により、その実像は従来のイメージとは異なる姿が明らかになってきました。
戦国時代から江戸時代への転換期を、卓越した外交手腕と冷静な判断力で生き抜いた景綱の真の姿に迫ります。

目次
- 複雑な血縁関係と伊達家との絆
- 政宗の教育係から側近へ
- 戦場での活躍と伝承の真実
- 小田原参陣――伊達家存続の決断
- 天下人からの誘いを断った理由
- 白石城主として
- 一国一城令の特例が認められた理由
- 景綱の実像――外交担当者としての役割
1. 複雑な血縁関係と伊達家との絆
片倉景綱は1557年(弘治3年)、出羽国置賜郡下長井宮村(現在の山形県長井市)で生まれました。
父は成島八幡神社の神職である片倉景重、母は本沢直子です。
景綱の家族関係は複雑でした。
約18歳年上の異父姉・片倉喜多の実父は、伊達家の重臣である鬼庭良直(左月斎)でした。
喜多の母である直子は鬼庭家を離縁後、片倉景重に再嫁して景綱を生んだのです。
つまり、喜多と景綱は同母異父の姉弟という関係にありました。
1567年(永禄10年)、喜多は伊達輝宗の命により、生まれたばかりの政宗(梵天丸)の乳母兼養育係に任命されます。1570年頃、継父と母が相次いで亡くなると、喜多は13歳の景綱の養育者となりました。
姉弟は協力して伊達家との関係を深めていったのです。
2. 政宗の教育係から側近へ
1575年(天正3年)、姉・喜多の忠勤が認められた結果、伊達家重臣の遠藤基信の推薦により、19歳の景綱は9歳の政宗の近侍(傅役)に抜擢されました。
姉が養育面を、弟が武芸や実務面を担当する「チーム・カタクラ」とも呼べる体制が、若き政宗を支えていきます。
従来、景綱は「軍師」「参謀」として語られてきました。
しかし、2013年に白石市教育委員会が刊行した『片倉小十郎景綱関係文書』により、景綱の受給・発給文書155点が確認され、その大半が外交関連であったことが判明しています。
近年の研究では、景綱の主な役割は外交担当者・取次役であったことが明らかになってきました。
実は、伊達家中における景綱の家格は、重臣約20人中16番目程度にすぎませんでした。
景綱が「ナンバー2」と評される理由は、武功よりも外交面での卓越した活躍にあったのです。
3. 戦場での活躍と伝承の真実
1585年(天正13年)11月17日、人取橋の戦いが起こります。佐竹・蘆名連合軍に苦戦した伊達軍は危機的状況に陥り、政宗自身も窮地に立たされました。
この戦いで景綱が「我こそは伊達政宗なり」と叫んで敵を引きつけ、政宗を救出したという逸話は広く知られています。
しかし、この話は『片倉代々記』(片倉家の家譜)に記載された伝承であり、同時代の一次史料での裏付けは確認されていません。
鬼庭良直の殿軍と討死は複数の史料で確認されていますが、景綱の具体的行動を証する同時代記録は発見されていないのです。
1589年(天正17年)6月5日の摺上原の戦いでは、景綱は「二番隊」として布陣したと伝わります。
この戦いで蘆名氏は滅亡し、伊達家は会津領を獲得しました。
景綱の参戦自体は史実として認められますが、具体的な武功の詳細は後世の軍記物や編纂物に依拠しているのが実情です。
4. 小田原参陣――伊達家存続の決断
1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原攻めは、東北の諸大名に「服従か滅亡か」の選択を迫るものでした。
伊達家中では、長年の同盟関係にある北条氏に加勢すべきとする主戦派と、秀吉に恭順すべきとする慎重派が激しく対立します。
この膠着状態を打破したのが景綱の進言でした。
『片倉代々記』によれば、景綱は秀吉の圧倒的な軍事動員力を分析し、有名な比喩を用いて政宗を説得したとされています。
「関白・秀吉の勢いは、夏に生じる蝿のようなものです。一度に二百、三百を叩きつぶしても二、三度は防ぐことができるかもしれませんが、それにも増して生じてきて、ついには抗うことができなくなってしまいます。今、大勢に敵対なさることはご運の末です」
この「夏の蝿」の比喩は、感情論を排した冷徹な情勢分析を示しています。
当時、関東以西はほぼ豊臣政権下で統一されており、兵力差は数十倍に達していました。
景綱は「伊達家の存続」を最優先課題とし、政宗の覇権への夢を現実的な生存戦略へと転換させたのです。
結果として政宗は参陣を決意し、会津領は没収されましたが、伊達家は存続を果たしました。
ただし、この進言の詳細な内容は江戸時代中期以降の編纂物に依拠しており、同時代記録での直接的裏付けはありません。
5. 天下人からの誘いを断った理由
奥州仕置の際、秀吉は景綱の才能に強く惹かれました。
秀吉は田村郡三春(現在の福島県三春町)5万石を与え、伊達家の家臣から豊臣家直臣の大名に取り立てようとしたと伝えられています。
5万石という石高は、当時の一国一城の主として十分な規模であり、家臣の身分からすれば破格の出世です。
さらに1593年(文禄2年)の朝鮮出兵時には、秀吉から軍船「小鷹丸」を下賜された記録があり、秀吉が景綱を評価していた証拠とされています。
しかし、景綱はこの提案を固辞しました。
その理由として、「二君に仕えず」という儒教的な忠義心が語られることが多いものの、より政治的な理由も推測できます。
景綱が独立すれば、伊達家は軍事的支柱を失うだけでなく、家中における秀吉の影響力が増大し、内部分裂の危機に直面する可能性がありました。
また、景綱の政治的基盤はあくまで「政宗の補佐」にあり、単独の大名として豊臣政権の荒波を渡ることのリスクを熟知していたと考えられます。
なお、この5万石提案については、一次史料での裏付けが確認されておらず、片倉家の家譜にも記載がないとの指摘があります。
後世の美談化の可能性も否定できません。
徳川家康も景綱を高く評価し、江戸に屋敷を与えようとしたと伝わりますが、景綱は辞退しました。
家康との信頼関係は、後の一国一城令における白石城の例外措置に反映されたと推測されています。
6. 白石城主として
1600年(慶長5年)7月24日、関ヶ原の戦い直前に伊達政宗は上杉領の白石城を攻略しました。
当初は政宗の叔父・石川昭光が城代として入城しましたが、1602年(慶長7年)12月、景綱が亘理城から移り、白石城主となります。
石高については資料により差異があります。
『朝日日本歴史人物事典』『世界大百科事典』では1万3000石、『宮城県史』(1966年)では1万8000石と記載されています。
幕末には1万7200石に増加したとされます。
白石城は上杉氏(米沢藩)や佐竹氏との境界最前線にあり、外様大名に対する抑えとして軍事的に不可欠な位置にありました。
景綱は城主として統治能力を発揮し、徳川幕府との良好な関係を維持していきます。
7. 一国一城令の特例が認められた理由
1615年(元和元年)閏6月13日、徳川秀忠は一国一城令を発布し、全国の支城破却を命じました。
一つの大名領国につき居城一つを残し、その他の城をすべて廃城にすることで、大名の軍事力を削減する強硬な法令です。
ところが、仙台藩では仙台城に加えて白石城のみが例外的に存続を認められました。
全国で数多くの名城が破却される中、これは極めて異例の措置です。
特例が認められた要因として、以下が推測されています。
第一に、白石城の軍事的重要性です。
白石城は奥州街道の要衝にあり、外様大名の中でも強力な上杉氏(米沢藩)に対する抑えとして不可欠でした。
幕府としても、伊達家に東北の監視役を期待する以上、南の関門である白石城を維持させる合理性がありました。
第二に、徳川家康による景綱への高評価です。
家康は景綱の忠誠心と実務能力を高く評価しており、彼が城主であるならば謀反の拠点にはならないと判断したと考えられます。
事実、片倉家は幕府にとって「伊達家中の親幕府派の筆頭」として機能しました。
第三に、仙台藩62万石という大藩としての格式と、法令の柔軟な運用が挙げられます。
ただし、例外措置の公式理由を記した幕府文書は発見されておらず、いずれも推測の域を出ません。
なお、仙台藩は白石城を唯一の「城拝領」として幕府公認としましたが、それ以外の21か所は1687年(貞享4年)に「要害」として幕府に届出し、実質的には城郭でありながら「要害屋敷」と称することで一国一城令を回避しています。
8. 景綱の実像――外交担当者としての役割
景綱は「武の伊達成実」と並び「知の片倉景綱」と称されます。
秀吉が景綱と直江兼続を「天下の二陪臣」と称賛したとの伝承もありますが、一次史料での直接的典拠は確認困難です。
学術的には、景綱の「軍師」イメージは後世の編纂物・講談・創作により形成された側面が大きいことが指摘されています。
現存する『上杉家文書』や『片倉家文書』には、徳川家康やその懐刀である本多正信から景綱に宛てた書状が含まれています。
天正14年の時点で既に秀吉の「惣無事令」に関する書状が景綱宛に届いており、関ヶ原前後には家康から直接、情勢に関する連絡が入る関係にありました。
家康は景綱を「伊達家のコントロールタワー」と見なしており、その懐柔と連携に腐心していたのです。
景綱が幕閣中枢と太いパイプを持っていたことは、戦後の伊達家が仙台藩62万石の大封を得て、幕府から警戒されつつも厚遇される土台となりました。
従来の通俗的イメージとは異なる、外交官としての景綱の歴史像が浮かび上がってきます。
景綱の晩年は、長年の激務と不摂生がたたったのか、重度の肥満と病に苦しめられました。
史料には「身重くして重鎧は苦労たるべし」として、政宗から軽量の鎧を下賜された記述があり、現代医学的には糖尿病およびその合併症を患っていた可能性が高いとされています。
1614年(慶長19年)、景綱は病床に伏し、大坂冬の陣には参陣できず、嫡子・重長を代参させました。
1615年(元和元年)10月14日、白石城にて病没。
享年59歳でした。
家臣6名が殉死したと『片倉代々記』に記録されており、景綱の人徳を示すものとされています。
1651年(慶安4年)12月1日、仙台藩は片倉家を「一家」格(一門に次ぐ位)に列しました。
景綱存命中は重臣約20人中16番目程度の家格でしたが、その功績が顕彰されたのです。
片倉小十郎景綱――その生涯は、戦国時代から江戸時代への転換期を、卓越した外交手腕と冷静な判断力で生き抜いた姿そのものでした。
伝説に彩られた逸話の多くは後世の創作である可能性が高いものの、天下人からも評価された実力と、生涯を通じて主君への忠義を貫いた姿勢は、紛れもない史実として今に伝わっています。
参考文献
- 白石市教育委員会編『片倉小十郎景綱関係文書』(白石市文化財調査報告書第47集)、2013年
- 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年
- 『伊達治家記録』第1巻(性山公治家記録・貞山公治家記録)、藩租伊達政宗公顕彰会
- 菅野正道「再検証・片倉景綱」上廣歴史文化フォーラム講演資料(仙台市博物館)、2013年
- 『宮城県史』宮城県史編纂委員会、1966年
- 『仙臺先哲偉人錄』仙臺市教育會、1938年
- 『片倉代々記』景綱譜(仙台市博物館・白石市教育委員会所蔵)
- 遠藤ゆり子「天正期における伊達氏の外交と片倉景綱」、2013年
- 佐藤正喜『仙台藩主伊達政宗と官房長官茂庭綱元』白石市博物館、2023年
- 小玉精一『奥羽戦国史』吉川弘文館、2010年

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