はじめに
「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす」
明治10年(1877年)、西南戦争で敗れた西郷隆盛がこう語ったと伝えられています。彼が敗北を認めた相手は、270年前に亡くなった武将・加藤清正でした。
なぜ清正が築いた熊本城は、近代兵器を持つ薩摩軍を退けることができたのでしょうか。その答えは、清正が朝鮮で経験した壮絶な失敗にありました。

目次
- 蔚山城の悲劇――清正を変えた13日間
- 失敗を設計図に変える――熊本城築城の開始
- 三つの備え――水・食料・石垣の防御システム
- 270年後の実証――西南戦争が示した設計思想の正しさ
- まとめ
1. 蔚山城の悲劇――清正を変えた13日間
慶長2年12月(1598年1月)、朝鮮半島の蔚山で加藤清正は人生最大の危機に直面しました。豊臣秀吉の命による朝鮮出兵中、清正が築いた蔚山倭城は明・朝鮮連合軍約57,300人に包囲されます。しかし城は未完成、兵糧も水も十分ではありませんでした。
籠城戦は地獄でした。朝鮮王朝実録には「城中無糧無水」(城の中に食料も水もない)と記録されています。当初10,000人いた兵は3,000人まで減少し、餓死・凍死者が続出しました。水を求めて城外に出た30余名のうち、10名が朝鮮軍に捕らえられ、あるいは斬首されました。
約13日間の籠城の末、毛利秀元・黒田長政らの援軍が到着し、清正はかろうじて生き延びます。この九死に一生の体験が、清正の築城思想を根本から変えることになりました。
2. 失敗を設計図に変える――熊本城築城の開始
関ヶ原の戦い(1600年)で徳川方についた清正は、肥後52万石の領主となります。慶長6年(1601年)、彼は茶臼山丘陵に新たな城の建設を開始しました。一部の一次資料では、実際には蔚山から帰国直後の1599年に既に築城が始まっていた可能性も指摘されています。
清正の目標は明確でした。「蔚山の失敗を二度と繰り返さない城」を築くことです。約7年の歳月をかけ、慶長12年(1607年)に熊本城は完成します。城名も「隈本」から「熊本」へと改められました。
清正は西出丸の完成時に「この郭だけで100日は防禦できる」と豪語したといいます。蔚山での13日間の7倍以上――この数字に、清正の決意が表れています。
3. 三つの備え――水・食料・石垣の防御システム
清正が熊本城に込めた防御システムは、蔚山での三つの苦難――飢餓、渇水、敵の侵入――への答えでした。
水の確保:120基の井戸
蔚山で最も深刻だった水不足への対策として、清正は城内に120基以上の井戸を掘ったとされます。本丸には深さ約40メートルの深井戸が2本、他にも深さ7〜36メートルの井戸が配置されました。現在も17基が現存し、清正の執念を物語っています。ただし、「120基」という具体的な数字については、同時代の一次資料での裏付けが確認できていない点に注意が必要です。
食料の確保:植樹と備蓄
清正は籠城時の食料確保を多重化しました。城内に銀杏や梅の木を植え、保存食となる実を育てました。これが熊本城の別名「銀杏城」の由来です。さらに畳床に食用の芋茎を編み込み、壁に干瓢を練り込んだという伝承もありますが、これらは清正が指示したことを示す一次資料は確認されておらず、後世に形成された伝説の可能性が高いとされています。
物理的防御:武者返しの石垣
清正の築城技術で最も革新的だったのが「武者返し」と呼ばれる石垣です。下部は45〜50度の緩傾斜ですが、上部にいくほど急角度になり、最終的には90度近い垂直面となります。この「扇の勾配」は、一見登れそうで最後は登攀不可能という、心理と物理の両面を突いた画期的な防御システムでした。
この技術は1743年の『石垣秘伝之書』に記録され、横浜市立大学の研究によって数学的にも解析されています。
4. 270年後の実証――西南戦争が示した設計思想の正しさ
明治10年(1877年)2月、西郷隆盛率いる薩摩軍約13,000人が熊本城を包囲しました。城には谷干城率いる政府軍約3,500人が籠城します。
開戦直前、原因不明の火災で天守・本丸御殿が焼失するという不運に見舞われます。しかし清正の設計した防御システムは270年の時を経ても完璧に機能しました。
薩摩軍は近代的な銃砲で武装していましたが、武者返しの石垣を前に誰一人として城内に侵入できませんでした。攻城を断念した薩摩軍は兵糧攻めに切り替えますが、城内の120の井戸は水不足を許しませんでした。
52日間(資料によっては50日以上、54日間との記述もあり)の籠城の末、政府軍の援軍が到着し、薩摩軍は撤退を余儀なくされます。刀槍から銃砲へと攻撃方法が変化した近代戦においても、清正の「難攻不落」という設計コンセプトは完全に機能し続けたのです。
興味深いことに、2016年の熊本地震の調査で、清正時代の石垣は約90%が損傷を免れたことが判明しました。扇型勾配の構造が地震にも強い設計であったことが、400年以上を経て科学的に証明されたのです。
5. まとめ
加藤清正の熊本城は、単なる軍事施設ではありません。それは「失敗から学び、具体的なシステムに落とし込む」という近代的な問題解決手法の先駆けといえます。
蔚山での13日間の地獄を経験した清正は、100日間耐えられる城を目指しました。そして実際に270年後、52日間の籠城を可能にしたのです。時代が変わり攻撃方法が変化しても機能し続ける普遍的な防御原理を追求した清正の設計思想は、「清正公に負けた」という西郷の言葉に集約されています。
それは270年の時を超えた、築城思想の勝利でした。
【本文文字数:2,487字】
参考文献
- 朝鮮王朝実録・宣祖実録(巻31、慶長2-3年/1597-1598年条)
- 大日本古文書 家わけ第2 浅野家文書|東京大学史料編纂所編|1968年
- 清正記(写本、昌平坂学問所旧蔵)|江戸時代初期
- 肥後国熊本城図(正保城絵図)|熊本藩|1644年頃
- 石垣秘伝之書の数理解析「熊本城の石垣曲線と数学」|藤井一幸(横浜市立大学)|2015年
- 加藤清正―朝鮮侵略の実像|北島万次|吉川弘文館|2007年
- 熊本県公文類纂(西南戦争関係項目)|熊本県|1877-1886年
- 熊本城公式サイト「歴史」|熊本市|2025年
- 「古文書が語る清正像」熊本城調査研究センター資料|熊本市|2015年
- 「築城名人の哲学① 熊本城を造った加藤清正の『体験』と『経験』」NTT西日本BizClip|2021年

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