はじめに
戦国時代、瀬戸内海には「海の領主」として君臨した一族がいました。
村上海賊と呼ばれる彼らは、日本屈指の難所・来島海峡を拠点に、通過する全ての船から通行料を徴収し、独自の海上秩序を築き上げたのです。
織田信長でさえ苦戦を強いられたこの海上勢力は、いったいどのような実態だったのでしょうか。
史実に基づき、その興隆と没落の物語を紐解きます。
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目次
- 来島海峡という天然の要塞
- 帆別銭制度:海上の関所ビジネス
- 過所旗による安全保証システム
- 焙烙火矢という革新的兵器
- 木津川口の戦いと鉄甲船の登場
- 独立勢力としての村上海賊
- 豊臣政権による終焉
1. 来島海峡という天然の要塞
瀬戸内海のほぼ中央に位置する来島海峡は、日本三大急潮の筆頭とされる難所です。
最大流速は約10ノット(時速18~20km)に達し、複雑な地形による渦流と浅瀬が航行を極めて困難にしています。
14世紀から16世紀にかけて、この海峡を物理的に支配したのが能島・来島・因島の三家からなる村上海賊でした。
彼らは海峡を見下ろす位置に海城を築き、東西の交通路を完全に掌握したのです。
この地理的優位性こそが、村上海賊の権力基盤となりました。
2. 帆別銭制度:海上の関所ビジネス
村上海賊の主要な収入源が「帆別銭」と呼ばれる通行料でした。
瀬戸内海の要衝に関所を設け、航行する船舶から料金を徴収するシステムです。
これは単なる略奪ではなく、対価として航行の安全保障と水先案内を提供する、いわば「保護料ビジネス」でした。
帆の大きさや櫓の数、積荷の量によって課税基準が異なり、商品流通の発達に応じて徴収方法も変化していきました。初期には実際に船に乗り込んで護衛する「上乗り」方式がとられ、後に許可証による通行システムへと移行します。
なお、一部で「積荷の10%」という具体的な徴収率が語られることがありますが、これは史料的な裏付けが不十分であることが指摘されています。
3. 過所旗による安全保証システム
帆別銭を支払った船には「過所旗」という通行許可証が発給されました。
現存する1581年発行の過所旗(重要文化財)には、絹製の布に大きく「上」の字が記されています。
この旗を掲げることで、他の海賊勢力からの襲撃を免れることができたとされます。
村上海賊の強大な威名により、「上」の旗は一種の安全認証として機能したのです。
ただし、この旗の具体的な機能については、史料による検証が必要とされる部分もあります。
4. 焙烙火矢という革新的兵器
村上海賊の軍事的優位性を支えたのが「焙烙火矢」という火薬兵器でした。
素焼きの陶器に黒色火薬を詰め、導火線を付けて投擲する手榴弾型の武器で、木造船への攻撃に極めて有効でした。
能島村上氏は小型高速船「小早船」の機動性とこの焙烙火矢を組み合わせた独自の戦術を確立しました。
複雑な潮流を知り尽くした彼らの操船術と、最新兵器の組み合わせは、当時の海戦において圧倒的な威力を発揮したのです。
5. 木津川口の戦いと鉄甲船の登場
1576年7月の第一次木津川口の戦いで、村上海賊は毛利氏と結んで織田水軍と対決しました。
焙烙火矢を用いた夜襲により織田方の船団を焼き払い、石山本願寺への兵糧搬入に成功します。
この勝利により、村上海賊の軍事的名声は確立されました。
しかし、織田信長は即座に対抗策を考案します。
1578年の第二次木津川口の戦いでは、鉄板で装甲を施した「鉄甲船」6隻を投入しました。
焙烙火矢が無効化され、搭載された大砲の威力により、村上海賊は苦戦を強いられたとされます。
ただし、この戦いの詳細については史料間で記述が異なり、戦闘の実態については慎重な評価が必要です。
6. 独立勢力としての村上海賊
特に能島村上氏の当主・村上武吉は、どの大名にも完全には臣従しない「海の独立勢力」としての立場を貫きました。毛利氏と協力関係にありながらも、起請文による盟約関係を結ぶなど、対等な同盟者としての姿勢を崩さなかったのです。
彼らは海上権力基盤を意図的に保持し続け、陸上の大名権力との交渉において自律性を維持しました。
この複雑な政治的立場は、「海の領主」としての独自のアイデンティティに基づくものでした。
7. 豊臣政権による終焉
1588年7月8日、豊臣秀吉は「海賊停止令」を発布しました。この法令により、村上海賊は従来の帆別銭徴収権や私的な海上武装権を全面的に奪われます。
瀬戸内海の海上権益は豊臣政権の管理下に置かれ、中世的な分権的海域支配から近世的な集権的支配へと転換したのです。
村上武吉は本拠地・能島城を追われ、以後は毛利家の配下として存続することになります。
こうして、約300年にわたり瀬戸内海を支配した村上海賊の時代は幕を閉じました。
まとめ
村上海賊は、地理的優位性を利用した通行料徴収システムと、最新の軍事技術により、中世後期の瀬戸内海に独自の海上秩序を築き上げました。
彼らの活動は単なる略奪ではなく、安全保障サービスの提供という側面を持つ、高度に組織化されたビジネスモデルでした。
しかし、豊臣政権による中央集権化の波には抗えず、海上権益を失うことで、その独立性も終焉を迎えたのです。
村上海賊の歴史は、中世から近世への移行期における権力構造の変化を象徴する、興味深い事例と言えるでしょう。
参考文献
- 過所船旗〈天正九年三月廿八日村上武吉朱印状〉個人蔵、重要文化財、和歌山県立博物館
- 過所船旗〈天正九年四月廿八日村上武吉朱印状〉能島村上家文書34号、山口県文書館蔵、重要文化財
- 太田牛一『信長公記』第9巻・第11巻
- 毛利家文書(重要文化財、山口県文書館・広島県立文書館所蔵)
- 能島村上家文書(山口県文書館蔵)
- 豊臣秀吉朱印状(海賊停止令)天正16年7月8日
- 山口県文書館「過所旗 その記録と記憶」
- 愛媛県生涯学習情報システム「データベース『えひめの記憶』」第27章 芸予諸島の海賊衆
- 清水克行『室町は今日もハードボイルド』新潮社、2021年
- 山内譲「瀬戸内海の海賊」『海事博物館研究年報』38号、神戸商船大学海事博物館、2010年

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