はじめに
戦国時代、一度は主君に刃を向けた男が、後に最も信頼される重臣へと変貌を遂げました。
その名は柴田勝家。
「瓶割り柴田」「掛かれ柴田」の異名で知られる猛将は、織田信長の天下統一事業を最前線で支え続けました。
しかし、本能寺の変後に起きた権力闘争では、羽柴秀吉に敗れ、妻・お市の方とともに壮絶な最期を遂げます。
勝家の生涯は、武勇だけでなく、優れた行政手腕も発揮した戦国武将の実像を今に伝えています。
裏切り者から忠臣への転身、そして悲劇的な結末まで、柴田勝家の波乱に満ちた人生を辿ってみましょう。

目次
- 裏切りから始まった信長との関係
- 「瓶割り柴田」伝説の真実
- 越前国主としての卓越した統治
- 本能寺の変と清須会議での敗北
- 賤ヶ岳の戦いと北ノ庄城の最期
1. 裏切りから始まった信長との関係
柴田勝家の生年は大永2年(1522年)説が有力ですが、確定していません。
尾張国愛知郡に生まれ、織田信秀に仕えた後、信秀の死後は次男・織田信勝(信行)の筆頭家老となりました。
運命の転機は弘治2年(1556年)に訪れます。当時、織田家では後継者争いが激化していました。
嫡男の信長は「うつけ者」として評判が悪く、品行方正な弟・信勝を当主に推す声が家臣団に強かったのです。
勝家は林秀貞らとともに信勝を擁立し、8月24日の稲生の戦いで信長に反旗を翻しました。
兵力では勝家・林軍の約1,700名が、信長軍の約700名を大きく上回っていました。
当初は優勢に戦いを進めましたが、信長自らが前線に立って林通具を討ち取ると、戦局は一変します。
信長の怒号に柴田軍の兵士たちが恐れをなして逃げ出し、反乱軍は総崩れとなったのです。
敗北した勝家は、両者の母・土田御前の嘆願により赦免されました。
しかし翌年、信勝が再び謀反を企てたとき、勝家の行動は周囲を驚かせます。
新参者を重用して自分を軽んじた信勝に見切りをつけ、その謀反計画を信長に密告したのです。
信長は仮病を装って信勝を清州城に呼び寄せ、殺害しました。
この密告により、勝家は信長からの絶対的な信任を獲得します。
以後、彼は「二心なき忠臣」として織田軍団の最前線に立ち続けることになりました。
2. 「瓶割り柴田」伝説の真実
元亀元年(1570年)6月、勝家は近江国長光寺城で六角義賢・義治父子の軍勢に包囲されます。
六角軍は城の水源を断ち、籠城軍を干上がらせる作戦に出ました。
ここで生まれたのが「瓶割り柴田」の伝説です。
江戸時代の『常山紀談』によれば、勝家は残った水で兵士たちに酒宴を開かせた後、「もはや城には戻らぬ」と宣言し、自ら長刀の石突きで水瓶を次々と叩き割りました。
退路を断たれた兵士たちは決死の覚悟で突撃し、六角軍を撃退したとされます。
しかし、歴史学的な検証では、この「瓶割り」エピソードには疑問符がつきます。
同時代の信頼できる史料である『信長公記』には、勝家が六角軍を野洲河原で撃退したことは記されていますが、水瓶を割ったという具体的記述は確認されていません。
「瓶割り」の話が初めて登場するのは、江戸時代前期の『武家事紀』であり、事実というより後世の創作である可能性が高いのです。
それでも、この伝説が勝家の勇猛さと決断力を象徴する逸話として人々の記憶に刻まれたことは間違いありません。
圧倒的不利な状況を覆す統率力こそが、勝家の真の武勇だったと言えるでしょう。
3. 越前国主としての卓越した統治
天正3年(1575年)、越前一向一揆を平定した信長は、勝家に越前8郡49万石を与えました。
勝家はここで軍人としてだけでなく、優れた行政官としての才能を発揮します。
まず着手したのが北ノ庄城の築城です。
天守は7層とも9層とも伝えられる壮大なもので、屋根には足羽山産の笏谷石で石瓦を葺きました。
天正9年(1581年)に訪れた宣教師ルイス・フロイスは「城の屋根が立派な石で葺かれており、美観を増している」と記録しています。
城下町の規模は「安土の2倍」とされ、当時最大級の都市が形成されました。
インフラ整備にも積極的でした。
足羽川には九十九橋を架け、南半分を石造、北半分を木造とする「半石半木」構造を採用しました。
これは南からの敵侵入に備えた軍事的設計です。
九頭竜川には天正6年(1578年)に舟橋を架設し、48艘の舟を鉄鎖で連結して川幅約184メートルを渡しました。
特筆すべきは、天正5年(1577年)頃に実施された刀狩りです。
これは豊臣秀吉の刀狩り令(天正16年・1588年)に約11年先行するもので、一向一揆の再発を防ぐため農民から武器を没収しました。
さらに勝家は、没収した武器を溶解して鉄材とし、九頭竜川の舟橋の鎖に再利用したのです。
これは治安維持、インフラ整備、そして「人を殺す武器を人をつなぐ橋に変える」という象徴的支配を同時に実現する高度な政策でした。
4. 本能寺の変と清須会議での敗北
天正10年(1582年)6月2日、明智光秀の謀反により織田信長が本能寺で横死しました。
このとき勝家は越中国魚津城を包囲中で、約4万の軍勢を率いていました。
6月3日早朝に魚津城を落としましたが、本能寺の変の情報を得たのは6月6日のことでした。
勝家は直ちに撤退を開始しましたが、京都までの距離は秀吉の備中高松城からの距離の約1.5倍あり、さらに上杉景勝が失地回復に動いて越中・能登で国衆を煽動したため、領内の沈静化に追われました。
出陣準備を整えたときには、すでに山崎の戦いで秀吉が光秀を討ったという報が届いていたのです。
6月27日、尾張国清須城で織田家の後継者と領地配分を決める清須会議が開かれました。
参加者は柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の4名です。
従来の通説では「勝家が信孝を推し、秀吉が三法師を推して対立した」とされてきましたが、近年の研究では三法師の家督継承は既定路線であり、真の争点は後見人をめぐる権力配分だったとされています。
結果は秀吉の圧勝でした。
秀吉は事前に丹羽長秀・池田恒興への根回しを済ませており、山城・河内・丹波で28万石を加増され、政治の中心地・京都を押さえました。
一方、勝家は北近江3郡・長浜城で12万石の加増にとどまり、事実上、北陸に封じ込められる形となりました。
会議後の8月20日、勝家は信長の妹・お市の方と岐阜城で婚礼を挙げます。
織田家の血縁を得て正統性を強化する狙いでしたが、政治的効果は限定的でした。
秀吉は10月に大徳寺で信長の葬儀を主宰し、後継者としての地位を世間にアピールしたのです。
5. 賤ヶ岳の戦いと北ノ庄城の最期
天正11年(1583年)3月、雪解けを待って勝家は近江へ出陣しました。
柳ヶ瀬に布陣した勝家軍約3万と、木之本に布陣した秀吉軍約5万が対峙し、約1ヶ月の膠着状態が続きます。
4月20日、勝家の甥・佐久間盛政が秀吉の留守を突いて大岩山砦を急襲し、中川清秀を討ち取る大戦果を挙げました。しかし、秀吉は驚異的な速度で戦場に復帰します。
大垣から木之本まで約52キロを5時間で移動した「美濃大返し」です。
さらに致命的だったのが、前田利家の動向でした。
茂山に布陣していた利家が突如として戦線を離脱し、府中城へ退却したのです。
利家は勝家を「親父様」と慕い、天正3年以来ともに戦ってきた長年の部下でした。
この離反には事前の秘密交渉説、戦況を見極めての判断説など諸説ありますが、結果として柴田軍の右翼が崩壊し、金森長近・不破勝光も連鎖的に撤退、軍は総崩れとなりました。
敗走した勝家は北ノ庄城へ退却します。
4月23日、秀吉軍が城を包囲すると、勝家は妻・お市に城外退去を勧めましたが、お市はこれを拒否しました。
三人の娘(茶々、初、江)だけを預けて秀吉のもとへ送り、自らは夫とともに運命をともにする決意を固めたのです。
4月24日、勝家は一族および近臣80余人を天守に集め、最後の酒宴を催しました。
そして十字切り(最も正式な作法)で切腹し、家臣が用意していた火薬に火をつけ、天守とともに焼亡しました。
勝家の享年は57~62歳、お市の方は37歳でした。
辞世の句として「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」が伝えられています。
ほととぎすは「死出の田長」とも呼ばれ、冥土からの使いの鳥として死と関連づけられる鳥です。
こうして織田政権を軍事的に支え続けた巨星が堕ち、秀吉による天下統一への道が開かれました。
勝家は単なる猪武者ではなく、越前で実施した検地、刀狩り、インフラ整備といった政策は、その後の近世封建社会のモデルケースとなる可能性を秘めていました。
北ノ庄(現・福井市)に今も残る水路や町割りは、「勝家公」の遺徳を伝え続けています。
参考文献
- 『信長公記』(太田牛一著)
- 『常山紀談』(湯浅常山著、1739-1770年)
- 『武家事紀』(山鹿素行著)
- 福井県史 通史編3 近世一(福井県、1994年)
- 福井市史 第1巻(福井市、1941年)
- 『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(渡邊大門、2020年、朝日新書)
- 『お市の方の生涯』(黒田基樹、2023年、朝日新書)
- 『柴田勝家―織田軍の「総司令官」』(和田裕弘、2023年、中央公論新社)
- 福井市立郷土歴史博物館『柴田勝家 ― 北庄に掛けた夢とプライド』展
- 福井県観光営業部ブランド営業課『天下分け目の清洲会議 ~お市の内に秘めた決意~』(2017年)

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