はじめに
戦国時代、東北の地で権力を握るために父と刀を交え、中央の権力者たちと巧みに渡り合い、最愛の娘を理不尽に奪われながらも、最終的には57万石の大大名へと成り上がった武将がいました。
出羽国(現在の山形県)を治めた最上義光です。
義光は「羽州の狐」と呼ばれるほど謀略に長けていた一方で、家臣の失敗を許し、自らの過ちを謝罪する人間味あふれる一面も持っていました。
戦国の荒波を生き抜いた彼の人生は、単なる権力闘争の物語ではありません。
愛する者を守れなかった悲しみと、それでも前を向いて戦い続けた一人の人間の物語なのです。

目次
- 家督をめぐる父との激突―天正最上の乱
- 村山盆地の統一―謀略と婚姻政策
- 中央政権との外交戦略
- 駒姫の悲劇―運命を変えた処刑
- 関ヶ原への道―北の関ヶ原と57万石への躍進
- 義光のリーダーシップ―恐怖と恩恵のバランス
1. 家督をめぐる父との激突―天正最上の乱
最上義光は1546年、出羽国村山郡の領主・最上義守の嫡男として生まれました。
身長は180センチメートル以上の偉丈夫で、16歳の時には約190キログラムの大石を持ち上げたと伝えられています。
しかし、義光の前には大きな壁が立ちはだかっていました。
それは実の父・義守でした。1570年頃から父子の対立が表面化し、1574年には武力衝突にまで発展します。
これが「天正最上の乱」です。
従来、この対立は義守が次男を溺愛したためと説明されてきました。
ところが近年の研究では、この次男の実在性自体が疑問視されています。
対立の本質は、伊達氏(現在の宮城県)との関係をめぐる外交路線の相違だったとする説が有力です。
義守は伊達氏との協調路線を維持しようとしましたが、義光は伊達氏からの完全な独立を目指していました。
1574年1月、緊張は軍事衝突へと発展します。
義守は娘婿である伊達輝宗に援軍を要請し、最上領は内戦状態に陥りました。
しかしこの時、戦場に輿を乗り入れて兄と夫の停戦を直談判した女性がいました。
伊達輝宗の正室であり義光の妹である義姫です。
彼女の仲介により、同年9月に和睦が成立しました。
伊達軍は撤退し、義光が実権を掌握することが確定します。
義光は24歳で山形城主となり、伊達氏の干渉を跳ね除けた自立大名としての地位を確立したのです。
2. 村山盆地の統一―謀略と婚姻政策
家督を固めた義光の次なる課題は、村山盆地に割拠する国人領主たちの統制でした。
彼らは「最上八楯」と呼ばれる連合体を形成し、天童氏を盟主として最上宗家に対抗する力を持っていました。
義光は軍事力だけでなく、婚姻政策と調略を巧みに組み合わせて八楯を解体していきます。
天童頼貞の娘を側室に迎えて一時的に和睦する一方、延沢満延には自身の娘を嫁がせることで最上側への離反を約束させました。
そして1584年、義光は最も大胆な行動に出ます。
村山盆地西部を支配する白鳥長久を山形城に招き寄せ、その場で謀殺したのです。
長久は織田信長に独自に使者を送るなど自立志向が強く、義光にとって最大の脅威でした。
義光は病と称して長久を油断させ、寝室で暗殺したと伝えられています。
この暗殺は倫理的には非難されるべき行為かもしれません。
しかし当時の義光にとって、軍事的損耗を最小限に抑えながら最大の政敵を排除する、冷徹な合理性に基づく決断だったのです。
白鳥氏の滅亡と延沢氏の寝返りにより孤立した天童氏は同年秋に降伏し、義光は村山盆地のほぼ全域を掌握しました。これは最上川中流域の流通支配権を確立したことを意味し、その後の発展の経済的基盤となりました。
3. 中央政権との外交戦略
義光の優れた点は、地方の戦乱に埋没せず、常に中央政権の動向を注視して機敏に対応した政治感覚にあります。
1577年頃、義光は織田信長に名馬や白鷹を献上し始めます。
これは単なる恭順ではありませんでした。
信長の権威を背景に、白鳥長久のような自立勢力を政治的に孤立させる狙いがあったのです。
織田政権が崩壊し豊臣秀吉が台頭すると、義光は素早く新たな覇者への対応を開始します。
1588年には秀吉により羽州探題に任命されました。
1590年の小田原征伐では、父・義守の葬儀のため参陣が大幅に遅れましたが、事前に徳川家康と交渉していたため咎めを免れ、本領24万石を安堵されます。
さらに義光は、徳川家康との関係構築にも周到でした。1591年、諸大名に先駆けて次男・家親を家康の小姓として差し出します。
これは人質であると同時にパイプ役であり、豊臣政権内で家康を通じて秀吉に接近する「二股外交」を可能にしました。
4. 駒姫の悲劇―運命を変えた処刑
1595年、義光の政治姿勢を決定的に変える悲劇が起こります。
次女・駒姫は1581年生まれで、東国一の美少女と謳われていました。
豊臣秀吉の甥で関白の秀次が駒姫を側室に迎えたいと強く望み、義光は「15歳になったら」という条件付きで渋々承諾しました。
1595年7月、駒姫は京都に到着しましたが、その直後に秀次が謀反の嫌疑で高野山に追放され、7月15日に切腹させられます。
そして8月2日、秀次の妻妾・子女39名が京都三条河原で処刑されることになりました。
駒姫はまだ実質的な婚姻関係を結んでおらず、屋敷に入ったばかりでした。
義光は徳川家康や北政所の仲介で助命嘆願を行い、淀殿の口添えもあって秀吉は「鎌倉で尼にせよ」と早馬を派遣したと伝えられています。
しかし間に合わず、駒姫は11番目に斬首されました。享年15歳でした。
駒姫の辞世とされる和歌「うつつとも 夢とも知らぬ 世の中に すまでぞかへる 白河の水」は、彼女愛用の着物で表装され京都国立博物館に現存しています。
義光は悲報に数日間食事を摂ることもできず、駒姫の母・大崎夫人は処刑から14日後の8月16日に急死しました。
義光は専称寺を山形城下に移転して駒姫と大崎夫人の菩提寺とし、八町四方の土地と寺領14石を寄進します。
秀吉への憎悪は決定的となり、この事件が義光を豊臣政権から徳川方への完全な傾斜へと導いたのです。
5. 関ヶ原への道―北の関ヶ原と57万石への躍進
1600年、天下分け目の関ヶ原の戦いと連動して、東北でも「北の関ヶ原」と呼ばれる慶長出羽合戦が勃発しました。
9月8日、上杉家の直江兼続が約2万の大軍で米沢城を出陣します。
義光は約7000の兵で迎え撃ちました。
9月13日には畑谷城が陥落し、守将・江口光清以下500余名が玉砕しますが、上杉軍にも約1000名の死傷者を与えます。
最大の激戦は長谷堂城の攻防でした。9月15日から始まった戦いで、守将・志村光安と鮭延秀綱が奮戦します。
9月29日、関ヶ原での西軍敗北の報が直江に届き、上杉軍は10月1日に撤退を開始しました。
戦死者は上杉方1580名、最上方623名、伊達援軍30余名でした。
興味深いことに、義光は退却する直江について「上方にて敗軍の由告げ来りけれども、直江少しも臆せず、心静かに陣払いの様子、誠に景虎武勇の強き事にて」と賞賛しています。
敵将の武勇を認めるこの姿勢に、義光の武人としての矜持が表れています。
1601年8月、戦功により義光は57万石に加増されました。
村山・最上両郡に加え、庄内と由利郡を獲得します。
公称57万石でしたが実高ははるかに大きく、「最上100万石」と称されました。
6. 義光のリーダーシップ―恐怖と恩恵のバランス
義光は「謀将」のイメージが強い一方で、家臣統制においては極めて巧みな人心掌握術を用いていました。
『会津四家合考』は義光を「武勇は人にすぐれ、就中慈悲深くして諸士を深く労はり、たとえば親の子をあはれむ様にこそなし給へ」と評しています。
具体的なエピソードとして、鮭延秀綱の家臣・鳥海勘兵衛と義光正室の侍女・花輪の恋愛事件があります。
密かな恋文のやりとりが発覚し、義光は両名に死罪を命じましたが、秀綱の諫言により処罰を撤回し、花輪を勘兵衛の正式な妻として娶らせました。
長谷堂城の戦いで勘兵衛は秀綱を救って戦死し、妻・花輪も後追い自害します。
義光は号泣し、一度は処罰しようとした自分を恥じて夫妻を手厚く弔いました。
また、降将への厚遇も特筆すべき点です。元は小野寺氏配下で最上軍に頑強に抵抗した鮭延秀綱は、降伏後に重用され本領1万1500石を安堵されて首席家老級に登用されました。
かつて敵対していた延沢満延も降伏後に重用されています。
義光の領国経営は、「最上源五郎は役(年貢以外の税金)をばかけぬ」と謳われるほど領民に寛容でした。
山形城下では商人に地子銭・年貢を免除し、125から150坪の土地を分与します。
職人町を「御免町」として諸役を免除し、家臣並みの待遇を受けた職人もいました。
最上川三難所の開削と酒田港の活用により「東の酒田、西の堺」と称される流通網を構築し、北楯大堰・因幡堰などの疏水開削で庄内平野を開発します。
病人や老人には扶持米を配布し、田畑を荒らすこと、女性・子供・病人の殺害を禁止する法度を定めました。
義光の葬儀当日には4名もの家臣が殉死しており、これは深い信頼関係の証左とされています。
おわりに
最上義光の生涯は、冷徹な計算と激しい感情を併せ持つ、複雑な人間像を浮かび上がらせます。
父との戦い、謀略による敵の排除、中央政権への巧みな接近、そして愛娘の死という悲劇。
それでも義光は前を向き、家臣たちと共に領国を発展させ、東北屈指の大大名へと成長しました。
「羽州の狐」という異名は彼の謀略の才を示していますが、それだけが義光の全てではありません。
家臣の失敗を許し、自らの過ちを謝罪する人間味、降将を厚遇する度量の広さ、領民に寛容な統治。これらすべてが、義光という一人の戦国大名を形作っていたのです。
1614年、義光は69歳でこの世を去りました。
彼が築いた最上家は後に改易されますが、義光の業績は山形の地に深く刻まれ、今も「鮭様」として親しみを込めて語り継がれています。
参考文献
- 竹井英文 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第6巻 最上義光』(戎光祥出版、2017年)
- 伊藤清郎『最上義光』人物叢書(吉川弘文館、2016年)
- 山形市市史編さん委員会『山形市史 史料編1(最上氏関係史料)』(1987年)
- 東京大学史料編纂所『大日本史料 10編20-23冊』
- 粟野敏之「戦国大名最上氏の成立過程-元亀・天正初期の内訌をめぐって」『史学論集』10号(駒澤大学、1980年)
- 最上義光歴史館所蔵資料
- 山形県立博物館『研究だより』第11号(2016年)

コメント