はじめに
断崖を駆け下りて敵陣を急襲し、暴風雨の中をわずか数隻の船で海を渡る──そんな常識破りの戦術で平家を滅ぼした源義経。
彼は紛れもない戦場の天才でした。
しかし、その輝かしい武功は、わずか数年後に兄・頼朝から追われる身となり、31歳の若さで命を落とすという悲劇的な結末を迎えます。
なぜ、平家を滅ぼした最大の功労者が、兄に殺されなければならなかったのでしょうか。
この記事では、義経の栄光から失脚までの軌跡を追いながら、鎌倉時代初期の複雑な政治構造と、戦場の才能と政治的センスのギャップが生んだ悲劇の本質に迫ります。

目次
- 義経の輝かしい戦功
- 兄弟の亀裂の始まり:無断任官問題
- 梶原景時との対立
- 腰越で拒まれた英雄
- 決定的な決裂:検非違使留任
- 追われる身となった義経
- なぜ義経は失脚したのか
- まとめ
1. 義経の輝かしい戦功
1184年2月7日、一ノ谷の戦いで義経は伝説を作りました。
彼は精鋭70騎を率いて険しい崖(鵯越 ひよどりごえ)から平氏の本陣を急襲し、完全な奇襲に成功します。
事前に三草山で夜襲をかけて平資盛軍を撃破し、東播磨を制圧するという周到な準備も怠りませんでした。
続く1185年2月19日の屋島の戦いでは、さらに大胆な作戦を実行します。
暴風雨の中、通常なら3日かかる航路をわずか4時間で渡り、讃岐国の平氏本陣を急襲したのです。
この時も1か月かけて四国の水軍を味方につけ、民家に火を放って大軍に見せかける心理戦を展開しました。
そして1185年3月24日、壇ノ浦の決戦。
義経は紀伊の熊野水軍、瀬戸内海の渡辺党、伊予の河野水軍を1か月かけて編成し、平氏を追い詰めます。
源氏840余艘対平氏500余艘という兵力で、義経は見事な勝利を収め、平氏を完全に滅亡させました。
2. 兄弟の亀裂の始まり:無断任官問題
しかし、義経の輝かしい戦功の陰で、兄・頼朝との関係に亀裂が生じ始めていました。
1184年8月6日、後白河法皇は義経を左衛門少尉と検非違使に任命しました。
検非違使とは京都の治安維持を担当する重要な役職です。
問題は、この任官が頼朝の推薦を経ずに行われたことでした。
頼朝が目指していたのは、東国武士たちとの「御恩と奉公」という主従関係に基づく新しい政権でした。
御家人(頼朝の家来)は鎌倉殿(頼朝)に忠誠を誓い、その見返りとして所領や財産を受け取るという仕組みです。
もし御家人が勝手に朝廷から官職をもらえば、この主従関係が崩れてしまいます。
8月17日、義経の使者が鎌倉に任官の報告をすると、頼朝は激怒しました。
近年の研究では、頼朝側近の大江広元の協力があった可能性も指摘されていますが、この時点で頼朝の義経への不信感は決定的なものとなりました。
3. 梶原景時との対立
義経と頼朝の間の溝を深めたのが、軍監として派遣されていた梶原景時でした。
『平家物語』によれば、屋島攻撃の前に景時が「船に逆櫓(後退用の櫓)を取り付けて、いざという時に退却できるようにすべきだ」と提案したところ、義経は「そんなことをすれば兵が逃げてしまう」と一蹴しました。
景時が「進むことしか知らないのは猪武者だ」と反論すると、義経は景時を「臆病者」と罵倒したといいます。
この逆櫓論争の史実性については議論がありますが、1185年4月21日、景時が頼朝に送った報告の内容は『吾妻鏡』に明確に記録されています。
「判官殿は功に誇って傲慢であり、武士たちは薄氷を踏む思いである。諫言しても怒りを受けるのみで、刑罰を受けかねない」──この報告は、義経の独断専行と東国武士との不和を明確にし、頼朝の不信感をさらに増幅させました。
4. 腰越で拒まれた英雄
平氏を滅ぼし、捕虜の平宗盛父子を連れて意気揚々と凱旋した義経を待っていたのは、冷酷な現実でした。
1185年5月24日、頼朝は義経の鎌倉入りを拒否し、腰越(現在の神奈川県鎌倉市)に留め置いたのです。
義経は大江広元に託して弁明の書状(腰越状)を送り、忠誠を訴えました。
しかし、元木泰雄氏の研究によれば、この書状の内容は「頼朝の不興について一切触れず、生い立ちや戦の苦労話を並べるだけ」で、弁明になっていません。
そのため、後世の創作である可能性も指摘されています。
いずれにせよ、頼朝は義経に会おうとせず、捕虜の引き渡しだけを命じて彼を京都へ追い返しました。
5. 決定的な決裂:検非違使留任
1185年8月16日頃、決定的な事件が起こります。
義経は伊予守に任命されましたが、当時の慣例では受領(国司)になると同時に検非違使を辞任するのが原則でした。ところが義経は検非違使と左衛門尉を兼任し続けたのです。
九条兼実の日記『玉葉』には「大夫尉を兼帯の条、未曾有、未曾有」(前例のない異常事態)と驚きが記録されています。この異常人事は後白河法皇の慣例無視により実現したと考えられ、義経は治天の君(天皇や上皇)の権威を背景に頼朝に逆らう形となりました。
元木泰雄氏によれば、この「検非違使留任」こそが義経の鎌倉召還を不可能にした決定的要因でした。
6. 追われる身となった義経
1185年10月18日、追い詰められた義経は後白河法皇に頼朝追討の院宣を要請しました。『玉葉』によれば「墨俣辺りに向かい一矢報いて生死を決したい」と述べましたが、応じた武士はわずかでした。この政治的判断の失敗は、義経の戦略眼の欠如を決定的に示すものでした。
11月、義経は京都を脱出し、大物浦(現在の兵庫県尼崎市)から海路逃亡を試みましたが、暴風雨により難破します。最終的に奥州平泉に逃れ、藤原秀衡の庇護を受けました。
しかし秀衡の死後、後継者の泰衡は頼朝の圧力に屈します。1189年閏4月30日、藤原泰衡の軍勢500余騎に衣川館を襲撃された義経は、妻子を殺害した後に自害し、31歳で生涯を閉じました。6月13日、腰越の浦で和田義盛と梶原景時による首実検が行われ、義経の死が確認されました。
7. なぜ義経は失脚したのか
義経の失脚は、単なる兄弟の確執ではありません。そこには構造的な問題がありました。
1185年という時代は、朝廷の伝統的権威と新興の武家政権が並存する過渡期でした。義経は後白河法皇の権威を背景に朝廷から官職を受け、鎌倉の統制システムに適応できませんでした。
佐藤進一説によれば、鎌倉政権内部には東国独立派と親京都派の対立がありました。義経の戦功は主に西国武士を率いて達成されたため、東国武士の戦功機会を奪う形となり、東国独立派の不満を招きました。頼朝は支持基盤である御家人を繋ぎ止めるため、義経を失脚させる必要に迫られたのです。
近年の研究により、義経の軍事的成功は「神がかった直感」ではなく、周到な準備と合理的な戦略に基づくものであったことが明らかになっています。しかし戦後の政治的立ち回りでは、この合理性が全く発揮されませんでした。御家人制度の意味を理解せず、東国武士との関係調整を怠り、後白河法皇の意図を見抜けず、頼朝の政治的意図に無頓着だったのです。
まとめ
源義経の悲劇は、戦場の天才が政治の迷路で迷い、孤立無援の状態で倒れるという物語です。彼の失敗は、武士社会における「政治的手腕」の重要性を示しています。当時の武士にとって、軍事的才能だけでは不十分であり、主従関係の維持、御家人との利害調整、朝廷との微妙な距離感など、高度な政治的手腕が求められました。
頼朝はこれらをすべて理解し実践しましたが、義経はこの点で決定的に欠けていました。結果として、戦場では無敵だった義経は、政治の迷路で迷い、31歳の若さでその生涯を終えることとなったのです。
参考文献
- 『吾妻鏡』(鎌倉幕府編、13世紀)
- 『玉葉』九条家本玉葉(九条兼実著、1164-1200年記録)
- 『平家物語』覚一本・延慶本(作者未詳、13世紀前半成立)
- 元木泰雄『源義経』(吉川弘文館、2007年)
- 菱沼一憲『源義経の合戦と戦略』(角川選書、2005年)
- 呉座勇一『陰謀の日本中世史』(角川新書、2018年)
- 五味文彦・本郷和人編『現代語訳吾妻鏡』(吉川弘文館、2007-2016年)
- 濱田浩一郎「源義経を陥れた『梶原景時』を源頼朝が信頼した訳」(東洋経済オンライン、2022年)

コメント