はじめに
主君が亡くなったとき、家臣が後を追って切腹する―。
現代の私たちからすれば信じがたい風習ですが、戦国時代から江戸時代初期にかけて、武士社会では「殉死」と呼ばれるこの行為が広く行われていました。
ある藩主が亡くなれば、20人もの家臣が一斉に命を絶つこともあったのです。
殉死は単なる「忠義の美談」だったのでしょうか。
それとも、そこには家名を守るための冷徹な計算があったのでしょうか。
さらに、なぜ江戸幕府はこの風習を禁止したのでしょうか。
本記事では、殉死という武士社会の特異な制度について、その起源から禁止に至るまでの歴史をわかりやすく解説します。
目次
- 殉死とは何か―戦国時代に生まれた究極の忠誠証明
- 江戸時代に急増した殉死の実態
- 殉死の裏にあった複雑な動機
- 幕府が殉死を禁止した理由
- 殉死禁止令とその影響
- まとめ
- 参考文献
1. 殉死とは何か―戦国時代に生まれた究極の忠誠証明
殉死とは、主君が亡くなった際に家臣が後を追って切腹することを指します。
「追腹(おいばら)」とも呼ばれました。
戦国時代は裏切りが日常茶飯事でした。
下克上の風潮が吹き荒れ、家臣が主君を裏切って殺害する事件が後を絶ちません。
このような状況下で、武将たちは家臣の忠誠を確保するため、極端な手段を考え出します。
それが「主君が死んだら共に死ぬ」という約束でした。
この誓いは、裏切りによって得られる“生存利益”を捨てる宣言でもありました。
誓いを破れば共同体の信用と家の立場を失う。
そのため、殉死の誓約は当時の武士社会では忠誠をより信用させる強いコミットメントとして働きえたと考えられます。
命を懸けて仕えると宣言することで、主君と家臣の間に深い信頼関係が生まれ、戦国の乱世では、こうした極限の忠誠表明が合理的な選択だったといえます。
2. 江戸時代に急増した殉死の実態
興味深いことに、殉死が本格的に流行したのは戦乱が終わった江戸時代初期でした。
戦場で主君が討ち死にした際に後を追うのではなく、病死した主君に殉じるケースが急増したのです。
主な殉死事例
江戸初期の記録は1607年、徳川家康の四男・松平忠吉が病死した際、家臣の小笠原吉光らが殉死した事例です。
これ以降、殉死は武士の美徳として広まっていきます。
代表的な事例を見てみましょう。
1636年、仙台藩の初代藩主・伊達政宗が70歳で病没した際、直臣15人と陪臣(家臣の家臣)5人の計20人が殉死しました。
政宗の霊廟・瑞鳳殿には今も彼ら殉死者の供養塔が並んでいます。
1641年には熊本藩主・細川忠利が亡くなり、19人の家臣が殉死しました。
この事件は後に森鷗外の小説『阿部一族』の題材となります。
さらに深刻だったのは1651年の出来事です。
三代将軍・徳川家光が亡くなった際、老中の堀田正盛と阿部重次を含む5人が殉死しました。
政権の中枢にいる有能な人材が一度に失われたことは、幕府に大きな衝撃を与えました。
最多記録は1657年の佐賀藩主・鍋島勝茂の死去時で、なんと26人もの家臣が殉死しています。
3. 殉死の裏にあった複雑な動機
従来、殉死は「純粋な忠義の発露」として語られてきました。
しかし近年の歴史研究は、より複雑な実態を明らかにしています。
東京大学史料編纂所の山本博文教授の研究によれば、殉死者の多くは譜代の重臣ではなく、下級武士でした。
彼らには共通点があります。
小姓や近習など主君に日常的に接する「御側仕え」の経験者が多く、中には主君と特別な関係(衆道と呼ばれる男色関係)にあった者もいました。
また、不祥事で死罪になるところを主君の恩情で助命された者や、新規召し抱えで破格の昇進を遂げた者も含まれていました。
山本教授は殉死を「かぶき者」的心性の表れと分析しています。
「かぶき者」とは、体制秩序に異議を唱える若者文化の担い手です。
平和な時代になり、武士が武士としてのアイデンティティを確認する手段として殉死が機能したというのです。
さらに、殉死には家を守るという現実的な側面もありました。
殉死した家臣の遺族は「忠義の家柄」として藩内で手厚く遇され、家禄を維持できるケースが多かったのです。
逆に、周囲が次々と殉死する中で自分だけ生き残れば「臆病者」の烙印を押され、家名に傷がつく恐れもありました。
つまり殉死は、忠義心だけでなく、自己顕示欲、主君への個人的感情、家名保全という複数の動機が絡み合った行為だったのです。
4. 幕府が殉死を禁止した理由
江戸幕府が殉死を問題視するようになった背景には、いくつかの理由があります。
人材の損失
最大の理由は、優秀な人材が無駄に失われることでした。
1651年の徳川家光の死去時、老中クラスの有能な官僚が殉死したことは、組織運営上の深刻な危機でした。
藩政を担う人材が主君一人の死で大量に失われることは、藩にとっても幕府にとっても大きな損失だったのです。
忠誠の対象の転換
幕府は武士の忠誠を「主君個人」から「主君の家」へと転換させようとしました。
戦国的な個人への過度な忠誠ではなく、制度としての主従関係を確立したかったのです。
殉死は個人的紐帯を示す行為であり、この方針と相容れませんでした。
社会秩序への懸念
殉死には体制秩序を攪乱する潜在力がありました。
幕府は「かぶき者」的要素を警戒し、統制された武士社会を構築するため、殉死を禁止する必要があったのです。
5. 殉死禁止令とその影響
先駆的な動き
幕府に先立ち、1661年に複数の藩主が独自に殉死を禁止しています。
7月に佐賀藩主・鍋島光茂が殉死禁止を宣言し、同月に水戸藩主・徳川光圀が父への殉死願いを却下、閏8月には会津藩主・保科正之が藩法に殉死禁止を追加しました。
幕府の禁止令
1663年5月、四代将軍・徳川家綱は殉死禁止令を発布しました。
武家諸法度改定時の口頭伝達という形式で、「殉死は古より不義無益の事」と宣言しました。
特徴的なのは、罰則を殉死者ではなく主君側に課した点です。
殉死が発生した場合、亡き主君の「不覚悟の越度(落ち度)」とされ、跡目相続に不利益が生じる仕組みでした。
厳罰による徹底
禁止令の実効性を示したのが1668年の「追腹一件」です。
宇都宮藩主・奥平忠昌が死去した際、家臣の杉浦右衛門兵衛が殉死しました。
幕府はこれを厳しく処分し、世子の奥平昌能を11万石から9万石へ2万石減封し、宇都宮から出羽山形へ転封としました。
殉死者の相続者も斬罪に処されました。
この厳罰により、殉死は急速に衰退しました。
1680年、堀田正信が四代将軍家綱の死去に際して自害したのが、江戸時代最後の殉死とされています。
1683年、五代将軍・徳川綱吉は殉死禁止を武家諸法度に明文化し、口頭伝達から正式な法令条文へ格上げしました。
代替行為としての「擬殉」
禁止令後、武士は出家・剃髪によって主君への追悼を表すようになりました。
これを「擬殉」といいます。
1708年、仙台藩の伊達綱宗が死去した際には、一人の殉死者も出ず、代わりに14名の家臣が剃髪しています。
6. まとめ
殉死は戦国の疑心暗鬼から生まれ、江戸初期に武士の美徳として流行した制度でした。
しかしその実態は、純粋な忠義だけでなく、自己顕示、個人的感情、家名保全といった複雑な動機が絡み合ったものでした。
江戸幕府は人材損失の防止と、個人への忠誠から制度への忠誠への転換を目指し、1663年に殉死を禁止しました。
厳罰によって徹底された禁止令により、殉死は急速に姿を消します。
この変化は、日本社会が中世的な個人的結合から、近世的な制度的組織へと移行する過程そのものでした。
武士道の倫理も「死ぬことより生きて組織に貢献すること」へと転換していったのです。
なお、殉死の文化的記憶は近代にも継承され、1912年、明治天皇の大喪の礼当日に乃木希典陸軍大将と妻静子が殉死する事件が起こり、社会に大きな衝撃を与えました。
この事件は夏目漱石『こころ』など、近代文学の重要なモチーフとなっています。
参考文献
- 山本博文『殉死の構造』弘文堂、1994年/講談社学術文庫、2008年
- 谷口眞子「佐賀藩の殉死にみる『御側仕え』の心性」『早稲田大学高等研究所紀要』第7号、2015年、pp.78-96
- 『御触書寛保集成』高柳真三・石井良助編、岩波書店、1934年
- 『佐賀県近世史料 第1編第1-2巻 直茂公譜考補・勝茂公譜考補』佐賀県立図書館編、1994年
- Doris G. Bargen, Suicidal Honor: General Nogi and the Writings of Mori Ōgai and Natsume Sōseki, University of Hawai’i Press, 2006
- Eiko Ikegami, The Taming of the Samurai: Honorific Individualism and the Making of Modern Japan, Harvard University Press, 1995

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