戦国最後の猛将・水野勝成ー放浪から名君へと駆け抜けた88年の生涯

目次

はじめに

父に勘当され、15年もの間諸国を放浪した若武者が、やがて徳川家康から10万石の大名に取り立てられ、88歳まで現役を貫いた―。
こんな波乱万丈の人生を送った戦国武将がいたことをご存知でしょうか。

水野勝成。
徳川家康の従兄弟でありながら、若き日の過ちで家を追われ、豊臣秀吉配下の名だたる武将のもとを転々としました。しかし、関ヶ原の戦いで徳川方として復帰を果たし、大坂夏の陣では52歳にして自ら槍を取って先陣を切る活躍を見せます。
そして福山藩主としては日本屈指の上水道を整備し、産業を興し、75歳で島原の乱に出陣するという驚異的なバイタリティを発揮しました。

「鬼日向」と恐れられた勇猛さと、領民を思う名君としての顔。
この二つを併せ持つ稀有な武将の生涯を、史実に基づいてご紹介します。

目次

  1. 徳川家康の従兄弟として生まれて
  2. 父の勘当と15年の放浪生活
  3. 徳川への帰参と関ヶ原の戦い
  4. 大坂の陣での武功と「鬼日向」の異名
  5. 福山藩主として近代都市の基礎を築く
  6. 先進的な産業政策と経済発展
  7. 75歳の島原出陣と最期まで現役の生涯
  8. 水野勝成が残した遺産

1. 徳川家康の従兄弟として生まれて

永禄7年(1564年)、水野勝成は三河国刈谷(現在の愛知県刈谷市)に生まれました。
父は水野忠重、そして祖父の妹が徳川家康の母・於大の方です。
つまり勝成と家康は従兄弟の関係にありました。

水野家は三河の有力な国人領主で、織田信長と徳川家康の清洲同盟においても重要な役割を果たしていました。
こうした名門に生まれた勝成は、若くして武芸に優れ、初陣では敵の首級を挙げて織田信長から感状を授与されるという華々しいスタートを切ります。

2. 父の勘当と15年の放浪生活

しかし、天正12年(1584年)、勝成の人生は大きく暗転しました。
小牧・長久手の戦いの陣中で、父の家臣・富永半兵衛を斬殺してしまったのです。
理由は、富永が勝成の素行を父に告げ口したことへの憤慨でした。

激怒した父・忠重は「奉公構」という前代未聞の処分を下します。
これは「勝成を雇った家は水野家の敵とみなす」という、他家への仕官を禁じる厳しい措置でした。
実の父から奉公構を受けるというのは、当時の武家社会でも極めて異例のことでした。

こうして約15年間の放浪生活が始まりました。
勝成は「傾奇者」(かぶきもの)として、京都南禅寺の山門に寝泊まりする時期もありました。
しかし、その圧倒的な武勇は諸大名の注目を集め、次々と仕官の機会を得ます。

仙石秀久のもとでは四国・九州征伐に参加し、佐々成政の配下として肥後国人一揆では菊池城攻めで一番槍を果たしました。
小西行長のもとでは1,000石を得て天正天草合戦に従軍し、さらに加藤清正、黒田孝高(官兵衛)、立花宗茂といった戦国屈指の名将たちのもとを転々としました。

この放浪時代、勝成は単に戦場を駆け回るだけでなく、各地の軍事技術や統治手法を学んでいきます。
この経験が後の福山藩経営に大きく活きることになるのです。

3. 徳川への帰参と関ヶ原の戦い

慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が死去すると政局が大きく動きます。
勝成は妻子を備中に残して上洛し、徳川家康との接触を図りました。
山岡景友の仲介により、家康の要請で父・忠重と15年ぶりの和解が実現します。

しかし、慶長5年(1600年)7月18日、思わぬ悲劇が起こります。
父・忠重が加賀井重望に暗殺されたのです。
加賀井は石田三成方(西軍)に通じており、忠重を西軍に引き込もうとしましたが拒絶されたため殺害に及んだとされています。

家康は直ちに勝成を呼び出し、水野家の家督相続と三河刈谷3万石の城主への復帰を命じました。
そして関ヶ原の戦いでは、勝成は大垣城の抑えを担当します。
本戦には直接参加しませんでしたが、曽根城防衛戦で島津義弘軍を撃退し、大垣城攻めでは三の丸を占拠する活躍を見せました。

さらに旧知の秋月種長への内応工作を主導し、福原長堯を降伏させることに成功します。
戦後、慶長6年(1601年)に従五位下・日向守に叙任されました。
「日向守」は本能寺の変を起こした明智光秀の官名で、多くの武将が避けていましたが、勝成は「馬鹿な縁起かつぎだ」と笑い飛ばして受けたといいます。
以後「鬼日向」と称されるようになりました。

4. 大坂の陣での武功と「鬼日向」の異名

元和元年(1615年)の大坂夏の陣で、勝成の武名は頂点に達します。
大和口方面軍の先鋒大将に任命された際、家康は「水野勝成の右に出る勇将は徳川家の譜代の武将の中にいない」と述べたとされています。

5月6日の道明寺の戦いで、勝成は豊臣方の猛将・後藤基次(又兵衛)の部隊と激突しました。
ここで52歳の大将でありながら、自ら槍を取って一番槍を競うほどの突撃を敢行したのです。
この勇猛果敢な姿は徳川軍の将兵を強烈に鼓舞し、後藤隊を圧倒して後藤基次を討ち取る大戦果につながりました。

5月8日の大坂城落城時には桜門に一番旗を立てる武功も挙げています。
この戦いで勝成は「戦功第二」と評価され(第一は真田信繁を討った松平忠直)、3万石を加増されて大和郡山6万石に転封となりました。

5. 福山藩主として近代都市の基礎を築く

元和5年(1619年)7月22日、幕府は水野勝成を備後7郡と備中国の一部、計10万石に封じました。
これは安芸広島藩主・福島正則が改易されたことに伴うもので、西国の要衝に信頼できる譜代大名を配置する戦略的意図がありました。

勝成は福山城と城下町、そして上水道を一体的に整備する大規模な都市計画に着手します。
元和8年(1622年)8月15日、福山城は芦田川河口を見下ろす常興寺山に完成しました。
特筆すべきは、天守北側の壁面に鉄板を張り巡らせたことです。
これは北側が山に接しており防御上の弱点となっていたため、実戦を想定した極めて実践的な措置でした。

城下町建設で最大の課題は飲料水の確保でした。
城下町の多くは芦田川のデルタ地帯を干拓・埋め立てた土地で、井戸を掘っても塩分を含んだ水しか得られませんでした。

そこで勝成が断行したのが、大規模な上水道敷設事業です。
芦田川の上流から城下町まで約14kmの導水路を開削し、蓮池(どんどん、面積約9,000㎡)で沈殿・浄化を行いました。主要幹線は石積暗渠で、東幹線約2.7km、西幹線約1.5kmを整備し、城下約2,500戸に給水したのです。

この福山上水道(福山旧水道)は、江戸の神田上水や播磨の赤穂上水とともに「日本三大上水道」と称され、地方城下町における本格的な上水道としては最も早い時期の整備例の一つです。
この上水道は明治期まで使用され、1925年(大正14年)に近代上水道が竣工するまで、一部は終戦期まで市民が利用していました。

6. 先進的な産業政策と経済発展

水野勝成の藩政で特筆すべきは、積極的な産業振興策です。

まず備後表(畳表)の生産を奨励しました。備後表は室町時代からの伝統があり、織田信長の安土城天守にも使用されたという高級品です。
勝成は『九カ条御定法』『二十五疵之事』を制定し、染土の産地指定、製織者の限定、藺草・染土の他領搬出禁止といった厳格な品質管理と産業保護策を講じました。

幕府は福山藩から畳表9,000枚を御用表として買い上げる制度を開始し、備後表は幕府献上表の最高級銘柄としてブランドを確立します。
この伝統は現在にも継承され、皇居や国宝・重要文化財建造物に使用されています。

木綿(綿花)栽培も積極的に奨励しました。
勝成が始めた綿花栽培は江戸後期に「備後絣」(日本三大絣の一つ)として発展し、その織布技術や藍染め技術は現在のデニム産地へと継承されています。
福山市のデニム生産量は現在全国シェア約80%を占めるまでになっています。

さらに寛永7年(1630年)には、文献に残る最古級の藩札を発行しました。
これは領内経済の活性化を目的としたもので、全国に先駆けた先進的な政策でした。

これらの政策の結果、福山藩の実質石高(内高)は15万石から30万石に達したと推定されています。
表向きの石高10万石に対し、元禄11年(1698年)の水野家改易時の検地では約15万石が確認されており、79年間で約5万石分の新田開発が実現されていました。

7. 75歳の島原出陣と最期まで現役の生涯

寛永15年(1638年)、九州で島原の乱が勃発します。
既に家督を嫡子・勝俊に譲り隠居していた勝成でしたが、75歳という高齢にもかかわらず幕府に出陣を願い出ました。

勝成が参戦した背景には、かつて小西行長の家臣として天草地方の事情に精通していたこと、そして泰平の世に慣れた若い幕府軍に実戦の厳しさを教える必要があったことが考えられます。

嫡子・勝俊、孫・勝貞と三代で約6,000人を率いて九州に渡った勝成は、九州以外から参戦した唯一の大名として原城攻略に貢献しました。
2月28日の原城総攻撃では水野勢が本丸を攻略し、この戦いで福山藩は戦死者100名以上という、勝成の全軍事経歴で最大の損害を被りました。

戦後、寛永16年(1639年)に隠居して「一分斎」と号し、正保元年(1644年)には法体となって「宗休」と号しました。
しかし、最晩年まで武芸への情熱は衰えず、慶安3年(1650年)、87歳で鉄砲を放って的に命中させ、人々を驚かせたという記録が残っています。

慶安4年(1651年)、福山城内で88歳の生涯を閉じました。当時としては驚異的な長寿でした。

8. 水野勝成が残した遺産

水野家は勝成の後、勝俊・勝貞・勝種と4代続きましたが、元禄11年(1698年)に勝種が嗣子なく没し改易となりました。
しかし、勝成が築いた福山の都市基盤と産業は、その後も発展を続けます。

勝成の人材登用は実力主義で、放浪時代の経験から身分にとらわれない採用を行いました。
在地領主・郷士を積極的に登用し、流浪時代に臣従した三村親成を高禄で家老職に登用しています。

藩政運営においても、目付などの監視役を置かず、法度の発布も誓詞の徴収も行わないという寛容な統治を行いました。
それでも藩政は問題なく運営され、隣国岡山藩主・池田光政は勝成を「良将の中の良将」と評しました。
水野時代には農民一揆が一度も起きなかったといいます。

『名将言行録』では勝成を「倫魁不羈」(余りに凄すぎて誰にも縛りつけることはできない)と評し、『常山紀談』では「勝成あら者にて人を物ともせず」と記しています。
前田慶次と並ぶ「傾奇者」として知られますが、勝成は史料に基づく検証可能な武功が豊富で、かつ藩主としての治績も明確に残っている点で、単なる奇人ではなく実務能力を兼ね備えた武将であったことが証明されています。

父に勘当され放浪した若き日、戦場を駆け抜けた壮年期、そして名君として領民の生活を豊かにした晩年。
水野勝成の88年の生涯は、戦国時代から江戸時代への大きな転換期を体現するものでした。
個の武勇と組織統治の両立、戦う武士から統治する武士への変貌――その全てを一身に体現した勝成の遺産は、現代の福山市の都市構造や文化の中に今も色濃く生き続けています。


参考文献

  • 溪口誠爾「福山上水と神谷治部」『農業土木学会誌』53(3), 1985年
  • 三輪利英・近藤勝直「福山市の土地造成と区画整理の過程について」日本土木史研究発表会論文集, 1986年
  • 『広島県史』近世資料編1(水野記・水野様御一代記収録), 広島県, 1981年
  • 『寛政重修諸家譜』巻328-340(水野氏系譜), 幕府編纂, 1812年
  • 『徳川実紀』第2巻, 幕府編纂
  • 『水野勝成覚書』(水野日向守覚書), 水野勝成自筆, 1641年
  • 『広島県史年表』近世1, 広島県, 1984年
  • 福山市公式サイト「福山ゆかりの先人:水野勝成」
  • 福山城博物館公式サイト「藩主 水野家」
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