戦国最強の武将・本多忠勝~57戦無傷の伝説と徳川家康を支えた忠義の生涯~

戦国最強の武将・本多忠勝~57戦無傷の伝説と徳川家康を支えた忠義の生涯~

目次

はじめに

「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」―この狂歌をご存知でしょうか。
戦国時代、敵将である武田軍からさえ称賛された武将がいました。
その名は本多忠勝。
生涯57回もの合戦に参加しながら、一度も傷を負わなかったという驚異的な伝説を持つ人物です。
徳川家康の天下統一を武力で支え、「徳川四天王」の一人として名を馳せた忠勝の生涯には、武勇だけでなく、主君への揺るぎない忠義、そして意外な文化人としての顔がありました。
今回は、史実に基づきながら、この戦国最強とも称される武将の真の姿に迫ります。

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「家康に過ぎたるもの」と称された無傷の猛将・本多忠勝|hiro はじめに 「生涯57回の合戦で、かすり傷ひとつ負わなかった」──。 こう伝えられる武将が、戦国時代に実在しました。 その名は本多忠勝。 徳川家康を生涯支え続けた猛将です...

目次

  1. 本多忠勝とは―三河武士の名門に生まれて
  2. 無傷の伝説―57戦を戦い抜いた武勇
  3. 運命を変えた三つの戦い
  4. 愛槍「蜻蛉切」と特徴的な装備
  5. 武人の内面―書状から見える人間味
  6. 晩年と最期
  7. まとめ
  8. 参考文献

1. 本多忠勝とは―三河武士の名門に生まれて

本多忠勝は天文17年(1548年)3月17日、三河国額田郡西蔵前(現在の愛知県岡崎市)に生まれました。
本多家は藤原氏の流れを汲む名門で、松平家(後の徳川家)に代々仕える「安祥譜代」という最古参の家臣団に属していました。

忠勝の幼少期は過酷なものでした。父・忠高は忠勝がわずか2歳の時、安城合戦で戦死します。
以後、叔父の本多忠真に育てられることになりました。
この叔父もまた、後の三方ヶ原の戦いで殿軍(しんがり)を務めて討死しており、忠勝の武人としての精神形成に大きな影響を与えたと考えられています。

永禄3年(1560年)5月18日、13歳の忠勝は大高城兵糧入れで初陣を果たしました。
この日は奇しくも、今川義元が織田信長に討たれた「桶狭間の戦い」と同日でした。
翌年には早くも敵将を討ち取り、若き武将としての才能を開花させていきます。

2. 無傷の伝説―57戦を戦い抜いた武勇

本多忠勝を語る上で欠かせないのが「生涯57回の合戦に参加しながら、かすり傷一つ負わなかった」という驚異的な記録です。
この伝承は江戸幕府の公式記録である『寛政重修諸家譜』や新井白石の『藩翰譜』に記載されています。

ただし、この「無傷伝説」については史料間で若干の矛盾も見られます。
『武徳編年集成』には天正10年(1582年)の伊賀越え時に浅手を負ったとの記述があり、厳密な意味での「完全無傷」かどうかには議論の余地があります。

それでも、敵将からも一目置かれるほどの武勇を発揮し続けたことは間違いありません。
織田信長、豊臣秀吉といった天下人からも「日本第一、古今独歩の勇士」「東国一の勇士」と称賛されました。
この評価は、単なる身体能力だけでなく、戦術眼、装備の工夫、そして敵を威圧する存在感の総合力によるものだったのです。

3. 運命を変えた三つの戦い

姉川の戦い(1570年)―単騎突撃の衝撃

元亀元年(1570年)6月28日、近江国姉川で織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が激突しました。
この戦いで、22歳の忠勝は武名を天下に轟かせます。

数で勝る朝倉軍約1万人が徳川本陣に迫る危機的状況で、忠勝は驚くべき行動に出ました。
単騎、あるいは極少数の部隊を率いて、敵陣の中央へ突入したのです。

この一見無謀に見える行動には、高度な戦術的計算がありました。
忠勝が単独で突出することで、彼を見殺しにできない他の徳川部隊が側面攻撃を仕掛けざるを得ない状況を作り出したのです。
さらに、予期せぬ単騎突入は朝倉軍の統制を乱し、徳川全軍が反撃する起点となりました。
個人の武勇が、軍団全体を動かす触媒として機能した見事な例といえるでしょう。

一言坂の戦い(1572年)―「家康に過ぎたるもの」

元亀3年(1572年)10月、武田信玄の大軍と遭遇した徳川軍は撤退を余儀なくされました。
遠江国一言坂(現在の静岡県磐田市)で、忠勝は大久保忠佐とともに殿軍(しんがり)を務めます。

狭い坂道という地形を活かし、忠勝は少数精鋭で武田軍の波状攻撃を食い止めました。
見付の町に火を放って煙と炎で武田軍の視界と進路を遮断するなど、知恵を絞った防御戦を展開します。
この奮戦により、家康本隊は無事に浜松城へ帰還できました。

この戦いでの活躍を見た武田方の小杉左近は、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」という狂歌を詠んだとされます。
「唐の頭」とはヤクの尾毛で作られた高価な兜飾りのこと。
つまり「徳川の戦力は大したことないが、珍しい兜飾りと本多忠勝だけは別格だ」という意味です。
敵将からこう評されることは、忠勝が単なる一武将を超えて、徳川家の「武の象徴」となっていたことを示しています。

小牧・長久手の戦い(1584年)―寡兵による戦略的威圧

天正12年(1584年)、豊臣秀吉と徳川家康が対峙した小牧・長久手の戦いで、忠勝は「心理戦」の極致を見せました。

秀吉の大軍(数万から10万以上)が迫る中、忠勝はわずか500騎程度を率いて対峙します。
川を隔てた対岸で、悠然と馬に水を飲ませるなど、あえて余裕を見せる行動をとりました。
通常なら即座に殲滅される戦力差にもかかわらず、秀吉は「何か伏兵があるのではないか」と疑念を抱き、攻撃を躊躇したのです。

戦後、秀吉は忠勝を家臣にしたいと勧誘しましたが、忠勝は「主君は家康のみ」として断固拒否しました。
秀吉はこれを惜しみつつも、その忠節を称えたといいます。

4. 愛槍「蜻蛉切」と特徴的な装備

忠勝の武勇を支えたのが、名槍「蜻蛉切(とんぼきり)」です。
三河文殊派の刀工・藤原正真の作で、刃長は約43.7cm。槍を立てていたところ、穂先に止まった蜻蛉が自重だけで真っ二つに切れたことから、この名が付けられました。

柄の長さは全盛期には約6mあったとも伝えられますが、実戦では取り回しを考慮して調整されていたようです。
一般的な槍よりも長いリーチと、刺突だけでなく斬撃も可能な汎用性が、忠勝に戦場での優位性を与えました。
現在は静岡県の個人蔵で、佐野美術館に寄託されています。

また、忠勝のトレードマークである鹿角脇立兜も見逃せません。
巨大な鹿の角の装飾は、戦場での視認性を極限まで高め、「あそこに本多忠勝がいる」という情報を瞬時に伝達しました。
この異形の姿が敵の萎縮を招き、結果として「無傷」という記録に寄与した側面も無視できないでしょう。

5. 武人の内面―書状から見える人間味

忠勝は武骨な武将としてのイメージが強いですが、現存する書状からは意外な一面が見えてきます。

刀剣愛好家として、薙刀の鑑定を他者に依頼する書状が残されています。
単なる武器の使用者ではなく、美術的・機能的価値を理解するコレクター的視点を持っていたことがわかります。

また、近江の特産品である鮒寿司への言及が頻繁に見られ、これを好物としていました。
独特の発酵臭を持つこの珍味を楽しむ味覚の嗜好は、彼の文化的な側面を示しています。

さらに、草津温泉での湯治を楽しみにする書状も残されており、「来週は必ず湯治に行き、積もる話をしよう」と約束しています。
歴戦の古傷や加齢による体の不調を癒やすため、温泉療法を積極的に利用していたのです。

6. 晩年と最期

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、忠勝は井伊直政とともに軍監として東軍の勝利に貢献しました。
戦後、上総大多喜から伊勢桑名10万石へ移封され、「慶長の町割り」と呼ばれる大規模な都市計画を実施します。
現在の桑名市の骨格は、このとき忠勝が作り上げたものです。

慶長14年(1609年)、忠勝は家督を嫡男・忠政に譲って隠居しました。
そして翌年10月18日、桑名城にて病没。享年63でした。

死の直前、持ち物に名前を彫る際に小刀で指に傷を負い、「本多忠勝も傷を負うようになっては終わりだな」と呟いたという逸話が残されています。
戦場という非日常では無敵であった英雄が、平和な日常の中で死を迎えるという、象徴的な物語となっています。

辞世の句として「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば」が伝わっています。
これは死への恐怖ではなく、「家康への奉公を全うできなくなること、主君を残して先に逝くことの無念」を表現したものです。
最期まで主君への忠義を貫いた、忠勝らしい言葉といえるでしょう。

7. まとめ

本多忠勝は、卓越した武勇、高度な戦術眼、そして徳川家康への揺るぎない忠義によって、戦国時代から江戸時代初期を駆け抜けた稀有な武将でした。「57戦無傷」という伝説には誇張された側面もありますが、姉川、一言坂、小牧・長久手といった重要な戦いで決定的な役割を果たしたことは、複数の史料が証明しています。

同時に、書状分析から見えてくる文化人としての顔、刀剣収集や美食、温泉を愛する人間味あふれる側面も忘れてはなりません。
彼は「戦う機械」ではなく、豊かな感性を持った一人の人間だったのです。

本多忠勝の生涯は、戦国時代の終わりと江戸時代の始まりを「武」の力で架橋した、歴史的に重要な意味を持つものといえるでしょう。

参考文献

一次史料

  • 『家忠日記』松平家忠(1577-1594記述)、岩波書店刊行本
  • 安楽寺文書(本多忠勝・井伊直政連署状)安楽寺所蔵、岐阜県史料(1600年)
  • 祝田文書(祝田新六宛副状)祝田家所蔵、静岡県史料(1568年)
  • 『甲陽軍鑑』編者不詳、室町~安土桃山期
  • 『徳川実紀』徳川光圀編纂(1698年)

二次史料・学術論文

  • 大鹿真和「本多忠勝の居所と行動」京都芸術大学人文学会紀要(2022年)、J-STAGE収録
  • 『寛政重修諸家譜』第681巻、徳川幕府編(1812年)、国立国会図書館デジタルコレクション
  • 尾崎晃「本多忠勝(1548-1610)―徳川幕府創出の功労者―」『千葉史学』54号(2009年)
  • 新井白石『藩翰譜』(1702年)、国立公文書館所蔵
  • 水野伍貴「関ヶ原の役と本多忠勝」『研究論集 歴史と文化』6号(2020年)、CiNii収録
  • Stephen Turnbull, “The Samurai Sourcebook”, Cassell & Co.(2000年)、ISBN 1854095234
  • 『大多喜町史』大多喜町(1991年)、大多喜町教育委員会
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