戦国時代の同性愛、「衆道」とは?主君と小姓の特殊な絆を史料から読み解く

目次

はじめに

戦国時代の武家社会には、現代では理解が困難な独特の制度が存在していました。
それが「衆道(しゅどう)」と呼ばれる、主君と小姓(こしょう)の間で結ばれる精神的・肉体的な結合です。
この関係は単なる個人的な嗜好ではなく、武士の忠誠心を高める重要な社会制度として機能していました。
史料に基づいて、この興味深い歴史の一面を探ってみましょう。

目次

  1. 衆道とは何か?基本的な仕組み
  2. 武田信玄と春日源助の誓詞
  3. 伊達政宗と只野作十郎の血判事件
  4. 小姓制度と出世の仕組み
  5. 史実と創作の境界線
  6. 衆道の歴史的意義

1. 衆道とは何か?基本的な仕組み

衆道は「若衆道(わかしゅどう)」とも呼ばれ、年長の武士である「念者(ねんじゃ)」と、10歳から20歳程度の若い男性「若衆(わかしゅ)」の間で結ばれる関係でした。
これは現代的な同性愛とは本質的に異なり、師弟関係と忠誠の誓いが組み合わさった独特な制度だったのです。

この制度の起源は平安時代の寺院社会にありました。稚児(ちご)と呼ばれる少年僧と年長の僧侶の関係が、鎌倉時代以降の武家社会に取り入れられ、戦国時代に独自の発展を遂げました。

戦国時代の特徴として、女性が戦場に同行することは原則として禁止されていました。
長期間の遠征では男性だけの生活が続くため、小姓は主君の心の支えとなり、同時に武芸や教養を学ぶ見習いとしての役割も果たしていたのです。

2. 武田信玄と春日源助の誓詞

衆道の実態を示す貴重な史料として、1546年に武田信玄(当時は晴信)が書いた手紙が現存しています。
この手紙は東京大学史料編纂所に保管されており、信玄が春日源助(後の高坂昌信とされる)に宛てたものです。

手紙の内容は驚くべきものでした。信玄は別の小姓である弥七郎との関係を疑われ、それを激しく否定する釈明文を書いたのです。
「弥七郎とは一切関係を持っていない」と断言し、複数の神仏の名前を挙げて誓いを立てています。

この史料から分かるのは、衆道関係においても嫉妬や疑心が存在し、主君が家臣に対して弁明する必要があったということです。
現代では考えにくい状況ですが、当時は主君と小姓の関係が非常に重要視されていたことがわかります。

3. 伊達政宗と只野作十郎の血判事件

もう一つの興味深い事例が、伊達政宗と小姓の只野作十郎の間で起きた出来事です。
1617年頃、酒席で政宗が作十郎の浮気を疑うような発言をしてしまいました。

作十郎は自分の潔白を証明するため、腕を刀で切って血で書いた誓約書「血判状(けっぱんじょう)」を政宗に送りました。
この血判状は神仏に誓って約束を守るという、当時最も重い意味を持つ誓約の形式でした。

政宗は翌日、長文の謝罪の手紙を作十郎に送っています。
「酔っていて何を言ったか覚えていない」「あなたを疑ったりしていない」と謝罪し、血判を受け取ったことへの感謝を述べています。
この手紙は現在も仙台市博物館に保存されており、当時の衆道関係の実態を物語る貴重な史料となっています。

4. 小姓制度と出世の仕組み

小姓は単なる雑用係ではありませんでした。
主君の秘書として文書を管理し、戦場では護衛として同行し、時には外交の使者も務める重要な役職だったのです。

小姓に選ばれる条件は厳格でした。容姿の美しさはもちろん、武芸の腕前、教養、そして何より忠誠心が重視されました。
多くの場合、重要な家臣の子弟が選ばれましたが、時には同盟の証として他家から人質として送られた若者が小姓になることもありました。

小姓制度は優秀な人材の登用システムとしても機能していました。
井伊直政は14歳で徳川家康の小姓となり、最終的に彦根藩12万石の大名にまで出世しました。
石田三成も13歳で豊臣秀吉の小姓となり、後に五奉行の一人として重用されています。

5. 史実と創作の境界線

衆道に関する話で最も有名なのは、織田信長と森蘭丸(成利)の関係でしょう。
しかし、現代の歴史学研究では、このような有名な逸話の多くが江戸時代以降の創作である可能性が指摘されています。

実際に、信長と蘭丸の関係を直接証明する同時代の史料は存在しません。
『信長公記』には蘭丸を「深く愛し給ひ」という記述がありますが、これが衆道関係を意味するかは不明です。
多くの「定説」は後世の軍記物語や小説によって作られたもので、史実とは区別して考える必要があります。

武田信玄と高坂昌信の関係についても同様です。
起請文(誓約書)は現存していますが、その内容は忠誠を誓うものであり、恋愛関係を示すものではありません。

6. 衆道の歴史的意義

江戸時代初期に成立した『葉隠』では、衆道が武士道の一部として理想化されています。
しかし、これは戦国時代から100年以上経った後の記述であり、当時の実態をそのまま反映しているとは限りません。

衆道は確実に存在した制度でしたが、その実際の普及度や地域差については、まだ多くの謎が残されています。
現存する史料は特定の大名家に偏っており、全体像を把握することは困難です。

重要なのは、衆道を現代的な価値観で判断するのではなく、当時の社会的文脈で理解することです。
戦国時代という極度に不安定な時代において、主君と家臣の絆を強化する手段として、この制度が機能していたことは確かです。

1652年に江戸幕府が「衆道之儀」の御触書を発布し、政治と男色の分離を図ったことからも、この制度が社会に与える影響の大きさがうかがえます。
明治維新後は西洋的価値観の導入により、衆道文化は急速に衰退していきました。

まとめ

戦国時代の衆道は、現代では理解が困難な独特の制度でした。
しかし、史料を詳しく調べることで、当時の武家社会における人間関係や価値観の一端を知ることができます。

重要なのは、確実な史料に基づいて事実を把握し、後世の創作と区別することです。
伊達政宗の謝罪の手紙や武田信玄の誓詞のような一次史料は、当時の人々の生々しい感情を現代に伝える貴重な証拠となっています。

歴史を学ぶ際は、現代の価値観にとらわれず、その時代の文脈で物事を理解することが大切です。
衆道という制度を通して、戦国時代の武家社会の複雑さと奥深さを感じ取ることができるのではないでしょうか。

参考文献

  • 『武田晴信(信玄)誓詞』武田信玄(東京大学史料編纂所所蔵)1546年
  • 『伊達政宗書状(只野作十郎宛)』伊達政宗(仙台市博物館所蔵)1617-1618年
  • 『葉隠』山本常朝口述、田代陣基筆記、1716年頃
  • 『戦国武将と男色』乃至政彦、2016年
  • Gary P. Leupp『Male Colors: The Construction of Homosexuality in Tokugawa Japan』University of California Press、1995年
  • Gregory M. Pflugfelder『Cartographies of Desire: Male-Male Sexuality in Japanese Discourse』University of California Press、1999年
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