はじめに
「主君を7度も変えた裏切り者」――かつて藤堂高虎はそんなレッテルを貼られることもありました。
しかし、それは本当に正しい評価でしょうか?
足軽という最下層の武士から出発し、最終的には32万石を超える大大名へと登り詰めた高虎。
彼の人生を紐解くと、そこには時代の変化を的確に読み取り、自らの才能を最大限に活かす場所を選び続けた、極めて合理的な戦国武将の姿が浮かび上がります。
今治城や伊賀上野城など、日本各地に残る名城の数々。
その多くに関わり、「築城の名手」として徳川幕府の基盤を支えた高虎の真価とは何だったのでしょうか。

目次
- 近江の小豪族から戦国の荒波へ
- 運命を変えた豊臣秀長との出会い
- 築城技術の革新者として
- 関ヶ原の戦いと徳川家への接近
- 津藩主として花開いた行政手腕
- 高虎が遺した歴史的意義
1. 近江の小豪族から戦国の荒波へ
藤堂高虎は1556年、近江国(現在の滋賀県)の小さな土豪の家に次男として生まれました。
決して恵まれた環境ではありません。
15歳で浅井長政のもとに足軽として仕官し、姉川の戦いで初陣を飾りますが、同僚との争いで出奔するなど、若き日の高虎は荒々しい一面も持っていました。
その後、阿閉氏、磯野氏、織田信澄など、次々と主君を変えていきます。
これは当時「渡り奉公人」と呼ばれ、実力主義の戦国時代においては珍しいことではありませんでした。
高虎が求めていたのは、自分の能力を正当に評価し、活かしてくれる場所だったのです。
2. 運命を変えた豊臣秀長との出会い
21歳の時、高虎の人生は大きく変わります。
豊臣秀吉の弟・秀長に300石で仕官したのです。
秀長は実務能力を重視する優れた政治家であり、高虎にとって理想的な主君でした。
秀長のもとで高虎は、単なる武功だけでなく、築城や行政の才能を開花させていきます。
天正13年(1585年)、紀州征伐後に高虎が手がけた赤木城は、峻険な山中にもかかわらず総石垣と枡形虎口を備えた画期的な城でした。
この城は北山一揆を鎮圧する軍事拠点であると同時に、貴重な木材資源を管理する行政センターとしても機能したのです。
さらに、高虎の合理的な思考を示すエピソードがあります。
徳川家康の聚楽第内の屋敷建設を任された際、渡された設計図に警備上の欠陥を発見。
独断で変更を加え、追加費用は自己負担としました。
この誠実な対応に感銘を受けた家康は、高虎に名刀を贈ります。
これが後の強固な信頼関係の始まりでした。
3. 築城技術の革新者として
高虎の真骨頂は、何といっても築城技術にあります。
確認できるだけで22城以上の築城・改修に関わり、日本の城郭建築に革命をもたらしました。
層塔型天守の発明
慶長7年(1602年)に建てた今治城で、高虎は「層塔型天守」という画期的な構造を考案します。
従来の複雑な望楼型天守と異なり、同じ形の階を規則的に積み上げる単純な構造です。
これにより部材の規格化が可能となり、工期の短縮とコスト削減を実現しました。
この方式は江戸城をはじめ、以後の天守建築の標準となっていきます。
高石垣という威圧
伊賀上野城には、高さ約30メートルの高石垣が今も残ります。
直線的で反りのないこの石垣は、敵の接近を物理的にも心理的にも阻む、高虎独自の設計思想を体現しています。
大阪城と並ぶ日本最高レベルの高さを誇るこの石垣は、徳川政権の威光を示すモニュメントでもありました。
4. 関ヶ原の戦いと徳川家への接近
1598年、豊臣秀吉が死去すると、高虎は迷わず徳川家康側につきます。
これは単なる日和見ではなく、次の時代の覇者を冷静に見極めた戦略的判断でした。
関ヶ原の戦いでは、高虎は東軍の参謀として重要な役割を果たします。
近江出身という地の利を活かし、脇坂安治ら西軍諸将への調略工作を主導したのです。
単に「寝返れ」と脅すのではなく、「東軍勝利後の恩賞」という具体的なメリットを提示する交渉術が功を奏しました。
本戦では高虎隊1500名が大谷吉継隊と激突。
調略した諸将の寝返りと挟撃により、大谷隊を壊滅させます。
敵将・大谷吉継は自刃しましたが、高虎の甥・藤堂高刑は、介錯人の懇願を受け入れ、吉継の首の在処を秘匿しました。
この義侠心は、高虎が単なる冷徹な戦略家ではなかったことを物語ります。
この戦功により、高虎は伊予今治20万石を拝領しました。
5. 津藩主として花開いた行政手腕
慶長13年(1608年)、高虎は伊勢・伊賀(津藩)22万石へ転封されます。
これは大阪の豊臣方に対する東からの防波堤という、徳川家康の戦略的配置でした。
入封当時の津は、関ヶ原の戦禍で荒廃し、わずか500軒ほどの寂れた町でした。
高虎は計画的な城下町整備に着手します。
武士を住まわせ、商人を呼び寄せ、インフラを整備した結果、津城下の家数は約3倍に増加しました。
高虎の行政手腕は、単なる軍事力だけでなく、経済的・政治的効果を重視するものでした。
茶道や連歌などの文化面にも通じ、多角的な視点から判断を下す教養人でもあったのです。
6. 高虎が遺した歴史的意義
藤堂高虎は1630年、75歳で江戸屋敷にて生涯を閉じました。
外様大名でありながら徳川将軍家から「別格譜代」として遇され、約160万石の執政を任されるなど、幕藩体制確立に不可欠な存在でした。
高虎の真価は「組織が円滑に機能するための地味で確実な実務」にありました。
築城では工法の標準化により、どこでも高品質な城を短期間で造ることを可能にしました。
関ヶ原では相手の利益を的確に提示する交渉術で、戦わずして勝敗を決する土壌を整えました。
「主君を7度変えた」という評価は表面的なものです。
約20年間を豊臣秀長・秀保に仕えた忠誠心、秀保死後の出家、敵将への義侠心は、彼が道義を軽視した人物ではなかったことを示しています。
足軽から32万石の大名へという立身出世は、実力主義の戦国時代における究極の成功例であり、「最適な場を主体的に選び取る」キャリア形成の先駆者といえるでしょう。
高虎が遺した城郭建築の技術と合理的精神は、今も日本各地の城跡にその姿を留めているのです。
参考文献
- 上野市古文献刊行会編『高山公実録』清文堂史料叢書、1998年
- 上野市古文献刊行会編『公室年譜略』清文堂史料叢書、2003年
- 福井健二『築城の名手 藤堂高虎』戎光祥出版、2016年
- 藤田達生『江戸時代の設計者―異能の武将・藤堂高虎―』講談社現代新書、2006年
- 白峰旬「藤堂高虎は関ヶ原で大谷吉継と戦った」『十六世紀史論叢』9号、2018年
- 津市公式サイト「藤堂高虎」津市生涯学習課
- 今治市公式サイト「今治城について」今治市文化振興課
- 愛媛県生涯学習センター『戦国南予風雲録』2007年
- 滋賀県広報「藤堂高虎×滋賀県」滋賀県広報課、2023年

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