はじめに
わずか13歳で一家の当主となり、27歳で戦場に散った武将がいました。
その名は森長可(もりながよし)。「鬼武蔵」の異名で恐れられ、織田信長の天下統一を支えた若き猛将です。
彼の生涯は短くも激しく、戦国時代の過酷さと人間ドラマを凝縮したものでした。
本記事では、森長可の波乱に満ちた人生を、史実に基づいて分かりやすく紹介します。

目次
- 悲劇の家督相続―13歳の若き当主
- 織田軍の先鋒として―甲州征伐での活躍
- 信濃統治と苛烈な一揆鎮圧
- 本能寺の変と決死の撤退戦
- 小牧・長久手の戦いと若き死
- 森長可の人物像と歴史的評価
1. 悲劇の家督相続―13歳の若き当主
森長可は1558年、美濃国金山城主・森可成の次男として生まれました。
父の可成は「攻めの三左」と称される槍の名手で、織田信長の重臣として知られていました。
しかし、1570年、長可の人生は一変します。
4月に長兄の可隆が越前手筒山城攻めで戦死し、続く9月20日には父の可成も近江宇佐山城の戦いで浅井・朝倉連合軍と戦って命を落としたのです。
わずか半年の間に父と兄を失った森家は、存亡の危機に立たされました。
こうして13歳の長可が家督を継ぐことになります。
当時、弟の蘭丸(成利)はわずか6歳で、他の弟たちも幼少でした。
若すぎる当主の誕生に家臣団は動揺しましたが、母の妙向尼や叔父の林通勝が補佐し、何とか家督は安定していきます。
織田信長は長可を重用し、「長」の一字を与えて「勝蔵長可」と名乗らせました。
15歳の時には羽柴秀吉や丹羽長秀といった重臣と並んで文書に署名させるなど、異例の厚遇を受けています。
2. 織田軍の先鋒として―甲州征伐での活躍
長可は織田信忠(信長の嫡男)の配下として各地を転戦しました。
1574年頃の長島一向一揆攻めで初陣を飾り、1575年の長篠の戦いにも参加しています。
十文字槍「人間無骨」を振るって敵陣に突入する姿は、若き猛将として評判になりました。
特に1582年2月からの甲州征伐では、長可の武功が際立ちます。
織田信忠を総大将とする征伐軍で、長可は先鋒に抜擢されました。
木曽口から信濃国へ侵攻し、松尾城の小笠原信嶺を降伏させ、飯田城の保科正直を撃退します。
最も有名なのが高遠城攻めでの活躍です。
仁科盛信が守る難攻不落の高遠城に対し、長可は大胆な戦法を取りました。三の丸の屋根に登って板を引き剥がし、城内へ鉄砲の一斉射撃を加えたのです。
自ら槍を取って戦い、手に傷を負いながらも次々と城兵を倒していきました。
この凄まじい戦いぶりから「鬼武蔵」の異名が生まれたとされています。
武田氏滅亡後、信長は論功行賞として長可に信濃川中島四郡(高井・水内・更級・埴科)と海津城20万石を与えました。24歳にして北信濃の大名となったのです。
3. 信濃統治と苛烈な一揆鎮圧
1582年4月、長可は海津城に入城しました。
信長は新領主たちに対し、年貢や通行料を旧来通りとし、訴訟を迅速に裁くことなどを定めた統治方針を示していました。
長可も4月2日に皆神山熊野権現社へ暴力行為を禁じる禁制を出すなど、領内の安定化を図ります。
しかし、北信濃の国人衆は、長年上杉氏や武田氏の影響下にあったため、新参の織田支配に反発しました。
4月5日、旧武田家臣の芋川親正を中心とする約8,000人が蜂起し、飯山城を包囲したのです(芋川一揆)。
長可の対応は迅速かつ徹底的なものでした。
軍を率いて一揆勢に突撃し、7~8里(約30km)にわたって執拗に追撃します。
『信長公記』によれば、追撃だけで1,200人余を討ち取り、旧倉城では女性や子供を含む1,000人余を「撫で斬り」にしました。
討ち取った首は合計2,450に及んだと記録されています。
この苛烈な鎮圧により一揆は壊滅しましたが、恐怖による支配は領民の深い恨みを生みました。
多くの人々が上杉景勝の支配地へ逃亡し、信濃統治は不安定なままとなります。
4. 本能寺の変と決死の撤退戦
わずか2か月後の6月2日、本能寺の変で織田信長と信忠が討たれます。
北信濃に孤立した長可は、四方を敵に囲まれる絶望的な状況に陥りました。
上杉景勝は越後から侵攻の構えを見せ、領内では「撫で斬り」の恨みを持つ国人衆が一斉に蜂起したのです。
長可は海津城の維持は不可能と判断し、撤退を決断します。
この際、在地国人の家族を人質として連れ、これを盾に取ることで安全を確保しようとしました。
木曽谷を支配する木曽義昌の息子を人質に確保し、通行を強要したとされています。
追撃を受けながらも、長可は6月24日に旧領の金山城への帰還を果たしました。
甲斐の河尻秀隆が脱出に失敗して殺害されたのに対し、長可が生還できたのは、決断の速さと冷徹なリアリズム、そして高い戦闘力によるものでした。
5. 小牧・長久手の戦いと若き死
金山城帰還後、長可は羽柴秀吉に接近し、東美濃の覇権を確立していきます。
1584年、秀吉と徳川家康・織田信雄の対立が激化すると、長可は岳父の池田恒興とともに秀吉方につきました。
小牧・長久手の戦いが迫る3月26日、長可は家臣宛てに遺言状を作成します。
母を秀吉の庇護下に置くこと、弟たちの仕官先、娘を京都の町医者に嫁がせることなど、家族の行く末を細かく指示した合理的な内容でした。
4月9日、池田・森軍は家康の本拠地・三河を直接攻撃する「中入り作戦」を敢行しました。
しかし、この作戦は徳川方に察知されており、家康は主力を率いて待ち伏せしていたのです。
長久手の地で両軍が激突し、長可は白装束を纏って自ら先頭に立って指揮を執りました。
激戦の中、長可は井伊直政隊または水野勝成隊の狙撃手に眉間を撃ち抜かれ、即死します。
享年27歳。家臣たちは敵に首を渡すまいと奮戦し、遺骸を金山城へ送り届けました。
戦死の地には「武蔵塚」が建てられ、現在も愛知県長久手市の史跡として残されています。
6. 森長可の人物像と歴史的評価
森長可は13歳での家督相続から27歳での戦死まで、わずか14年の短い当主生活でした。
しかしその間、甲州征伐での先鋒、信濃統治での苛烈な鎮圧、本能寺の変後の決死の生還、東美濃制圧など、戦国時代の凝縮された武将像を体現しています。
「鬼武蔵」の異名が示すように、長可は勇猛果敢な猛将でした。
同時に、人質を利用した撤退戦や謀略による敵対勢力の排除など、冷徹な政治的判断力も備えていました。
信濃での「撫で斬り」は現代の倫理観からは残虐に見えますが、当時の文脈では敵戦力の完全な無力化という軍事的合理性があったとされています。
長可の死後、弟の森忠政が家督を継ぎ、森家は後に美作国津山藩18万6,500石の大名として江戸時代を通じて存続しました。
戦場の最前線で自ら指揮を執り続けた結果、敵の狙撃を受けて若くして散った森長可。
その生涯は、リーダーが過度に現場に没入することの代償を示す歴史的教訓とも言えるでしょう。
参考文献
- 『信長公記』第十五巻(太田牛一、16世紀末)
- 『信濃史料 第15巻』(長野県史編纂委員会、1991年)
- 「森長可の入部」長野市デジタルミュージアム、2017年
- 『長久手合戦ガイド』長久手観光協会、2019年
- 『改訂新版 世界大百科事典』「森長可」項(岩沢愿彦、1985年改訂)
- 『大日本史料 第11編之6』(東京帝国大学文学部史料編纂所、1936年)
- 『飯山市誌 歴史編 上』(飯山市誌編纂専門委員会、1993年)
- 『岐阜県史 史料編 古代・中世4』(岐阜県、1989年)

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