はじめに
「将軍を殺し、主君を裏切り、東大寺の大仏を焼いた希代の悪人」——。
こう語り継がれてきた松永久秀ですが、実はこのイメージ、後世に作られた物語だったかもしれません。
近年の歴史研究で明らかになってきたのは、日本初の近代的な城を築き、茶器を外交カードに使い、実力だけで戦国大名にのし上がった「革新者」の姿です。
最期には織田信長の降伏要求を拒否し、愛する茶釜を自ら砕いて果てた久秀。
彼の人生から見えてくるのは、権威や常識に縛られない、したたかな戦国の生き様でした。

目次
- 謎に包まれた出自と三好家での台頭
- 革新的な城郭建築・多聞山城の誕生
- 茶器を政治資産として活用した外交戦略
- 東大寺大仏殿焼失の真相
- 織田信長との複雑な関係
- 最期の美学:平蜘蛛を砕いて
- 「悪人」像の形成と近年の再評価
- 参考文献
謎に包まれた出自と三好家での台頭
松永久秀は1508年頃に生まれたとされますが、その出自は謎に包まれています。
阿波国、山城国西岡の商人、摂津国五百住の土豪など諸説ありますが、決定的な証拠はありません。
確実なのは、名門の血筋ではなく、低い身分から実力だけで這い上がった人物だということです。
久秀が歴史の表舞台に登場するのは、畿内最大の実力者・三好長慶に仕えてからでした。
当初は右筆(書記官)として文書作成や外交交渉を担当し、その実務能力の高さで頭角を現します。
天文9年(1540年)には「弾正忠」の官名を使用しており、すでに重要な地位にあったことがわかります。
武将としての活動は1542年頃から確認され、家格よりも能力を重視する戦国時代の象徴的存在となりました。
革新的な城郭建築・多聞山城の誕生
久秀の名を歴史に刻んだのが、1559年から築かれた多聞山城です。
奈良盆地を見下ろすこの城は、日本の城郭建築に革命をもたらしました。
従来の城は土塁と堀が中心で、建物は板葺きや茅葺きの簡素なものでした。
しかし、多聞山城は違います。
城壁を白い漆喰で厚く塗り固め、屋根には瓦を使用しました。
漆喰壁は火矢や鉄砲の弾を防ぎ、瓦屋根は防火性能を飛躍的に高めます。
これらは寺院建築の技術を応用したもので、奈良の高度な職人技術を軍事施設に転用した画期的な試みでした。
さらに注目すべきは「多聞櫓」の発明です。
土塁の上に長屋状の建物を連続して建てる構造で、防御施設でありながら兵士の居住空間や武器庫としても機能しました。
この「多聞櫓」という名称は、多聞山城で初めて採用されたことに由来し、後の安土城、大坂城、江戸城など全国の城郭に普及していきます。
1565年、ポルトガル人宣教師ルイス・デ・アルメイダが多聞山城を訪れ、その美しさを「世界中にこれほど美しいものはない」と絶賛しました。
城内には金箔の壁画、茶室、庭園が整備され、単なる軍事要塞ではなく、権威を視覚化する政治的シンボルとして機能したのです。
茶器を政治資産として活用した外交戦略
久秀のもう一つの革新は、茶器を政治の道具として活用したことです。
戦国時代、功績への恩賞は通常「土地」でしたが、土地は有限であり、分割すれば勢力は細分化してしまいます。
久秀が目をつけたのが名物茶器でした。
彼は「九十九髪茄子」という茶壺を約1000貫(現代価値で約7800万~1億円)で購入します。
1568年、織田信長が上洛すると、久秀はこの茶器を献上し、大和一国の支配権を認められました。
土地を失わずに政治的地位を守る、文化的資産を外交カードにする——この手法は当時としては画期的でした。
信長もまた「御茶湯御政道」と呼ばれる茶の湯を利用した政治を展開しており、久秀との取引はその先駆けとなったのです。
東大寺大仏殿焼失の真相
久秀の「三悪」の一つとして語られるのが、1567年10月10日の東大寺大仏殿焼失です。
しかし、同時代の記録を詳しく見ると、意図的な放火ではなかったことがわかります。
この日、久秀軍と三好三人衆・筒井順慶連合軍が東大寺周辺で激しく交戦しました。
『多聞院日記』には「穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、それから大仏殿回廊へ延焼した」と記されており、戦闘中の失火であることを示しています。
別の記録には三好軍の陣地から出火した、あるいは誤って火薬に引火したとする説もあり、原因には諸説ありますが、いずれも久秀が積極的に大仏殿を焼こうとした証拠はありません。
興味深いのは、久秀が戦闘前に茶人・松屋久政の「珠光座敷」という茶室を解体して避難させていた点です。
戦火による文化財の消失を避けようとする配慮が見られ、「無思慮な破壊者」というイメージとは異なります。
織田信長との複雑な関係
1568年に信長へ帰順した久秀ですが、その関係は常に緊張を孕んでいました。
1570年の姉川の戦いでは織田軍の後詰を務めて功績を上げましたが、1571年から73年にかけて第一次離反を起こします。
背景には、大和支配を巡る足利義昭との境界紛争や、義昭が宿敵・筒井順慶と接近したことへの反発がありました。
武田信玄の死後に降伏し、多聞山城を信長に差し出すことで助命されました。
1574年3月、信長は多聞山城に入城し、東大寺正倉院の名香「蘭奢待」を城内で切り取ります。
この時、信長は多聞山城の建築技術を直接見学しており、後の安土城築城に影響を与えたとされています。
しかし、信長は多聞山城の破却を命じ、その部材は他の城の建設に再利用されました。
久秀の軍事拠点を奪うと同時に、その技術的成果を織田政権が吸収したのです。
最期の美学:平蜘蛛を砕いて
1577年、久秀は再び信長に反旗を翻し、信貴山城に籠城します。
織田軍に包囲され、信長は降伏の条件として久秀が秘蔵する茶釜「平蜘蛛」の引き渡しを要求しました。
しかし、久秀はこれを拒否します。「平蜘蛛の釜と我らの首は、二つ同前である」と伝え、天正5年10月10日、茶釜を自ら打ち砕き、城に火を放って自害しました。享年69~70歳でした。
物理的な敗北が決まった局面で、敵が最も欲する「価値」を消滅させる——。
これは信長の支配に瑕疵を残し、精神的な勝利を収めようとする極限の意思表示でした。
久秀は、土地や命は奪われても、自身のアイデンティティである「美意識」と「所有権」だけは決して譲り渡さなかったのです。
奇しくもこの日は、10年前に東大寺大仏殿が焼失した日と同じ10月10日でした。
同時代の人々は、これを「因果応報」として語り継ぎました。
「悪人」像の形成と近年の再評価
松永久秀の「三悪」——主君殺し、将軍殺し、大仏焼き——という悪人像は、実は江戸時代に形成されたものです。
最も有名な出典は1770年に完成した『常山紀談』で、儒学者・湯浅常山が記したものですが、学術的には史料価値が低いとされています。
江戸幕府の官学である朱子学では、家臣が主君を裏切ることは許されざる行為とされました。
「成り上がり者」で「下剋上」の象徴である久秀は、格好の批判対象となったのです。
しかし近年、天野忠幸らの研究により、一次史料に基づく再評価が進んでいます。
主君・三好義興の毒殺説は証拠がなく、将軍・足利義輝の殺害時には久秀本人は大和にいて現場にいませんでした。
大仏殿焼失も意図的放火の証拠はありません。
むしろ浮かび上がるのは、三好長慶に忠実な重臣として活動し、革新的な築城技術を開発し、茶の湯と政治を結合させた実務家の姿です。
天野忠幸は久秀を「それまでの社会秩序や世界観をしたかに変えていこうとする改革者」と評価しています。
2020年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、従来の悪人像とは異なる新しい久秀像が描かれ、学術的再評価が一般にも広まりつつあります。
松永久秀は、破壊者であると同時に創造者でもありました。彼が開発した城郭技術や政治手法は、彼を滅ぼした信長や秀吉によって継承され、近世日本のスタンダードとなっていったのです。
参考文献
- 奈良県「奈良県歴史文化資源データベース『いかす・なら』多聞城」https://www.pref.nara.jp/miryoku/ikasu-nara/naranoshiro/tamonjo/
- 太田牛一『信長公記』(16世紀末成立)、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/781192
- 山科言継『言継卿記』(1527-1576年記録)、東京大学史料編纂所Hi-catデータベース
- 山上宗二『山上宗二記』天正16年(1588年)成立、岩波文庫版(熊倉功夫校注、2006年)
- 天野忠幸『松永久秀と下剋上―室町の身分秩序を覆す』平凡社、2018年
- 天野忠幸編『松永久秀―歪められた戦国の”梟雄”の実像』宮帯出版社、2017年
- 金松誠『松永久秀』(シリーズ・実像に迫る)戎光祥出版、2018年
- 静嘉堂文庫美術館公式サイト「付藻茄子解説」https://www.seikado.or.jp/
- 椙本孝嗣「戦国期の茶湯と武将」『宝塚大学論集』2014年
- 『多聞院日記』(英俊ほか、興福寺多聞院、1478-1618年)、国立公文書館デジタルアーカイブ

コメント