悲劇の関白・豊臣秀次とは?「殺生関白」の汚名と歴史の真実

目次

はじめに

「殺生関白」——この不名誉な呼び名で長く語られてきた武将が、豊臣秀次です。
しかし本当に彼は、言われるような残酷な人物だったのでしょうか。
近年の歴史研究は、まったく異なる秀次像を浮かび上がらせています。
優れた経済政策で近江八幡の礎を築き、文化や学問の振興にも情熱を注いだ——そんな有能な統治者が、なぜ歴史の汚名を着せられることになったのか。
今回は、その謎に迫ります。

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豊臣秀次 | 「殺生関白」という汚名の裏に隠された為政者の真実|hiro | ゆる歴史かわら版 はじめに 「殺生関白」——このおどろおどろしい異名を、歴史の授業や大河ドラマで耳にしたことがある方は多いでしょう。 辻斬りを楽しみ、妊婦の腹を裂いたとまでいわれた豊...

目次

  1. 秀次はどんな人物? 生い立ちと関白就任まで
  2. 商業都市・近江八幡を作った政策の天才
  3. 「二頭政治」の誕生と内側の矛盾
  4. 文化人としての顔:知のネットワーク
  5. 秀頼の誕生で暗転する運命
  6. 高野山での切腹と三条河原の悲劇
  7. 「殺生関白」はプロパガンダだった?
  8. 秀次事件が豊臣政権を滅ぼした理由
  9. おわりに

① 秀次はどんな人物? 生い立ちと関白就任まで

豊臣秀次は、永禄11年(1568年)に尾張国で生まれました。
父は三好吉房、母は豊臣秀吉の姉・とも(後の瑞龍院日秀)です。
つまり秀次は、天下人・秀吉の甥にあたります。

幼少期から数奇な人生をたどり、秀吉の外交戦略の一環として他家の養子に出されるなど、たびたび立場が変わりました。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは大敗を喫し、秀吉から厳しく叱責されましたが、翌年の紀州征伐・四国征伐で武功を重ねて汚名を返上。
近江43万石の大名として認められます。

天正19年(1591年)、秀吉の弟・豊臣秀長が1月に、待望の嫡男・鶴松が8月にわずか3歳で相次いで亡くなります。
後継者を失った秀吉は、朝鮮出兵(文禄の役)を控えながらも国内統治を任せる人物を必要としていました。
白羽の矢が立ったのが秀次でした。
わずか1か月のうちに権大納言・内大臣・関白と異例の速さで昇進し、聚楽第(じゅらくだい)を政庁として豊臣家の氏長者となります。


② 商業都市・近江八幡を作った政策の天才

秀次の統治者としての才能が最もよく表れているのが、近江八幡の都市建設です。
関白就任以前の天正13年(1585年)、八幡山に城を築いた秀次は翌年6月、「楽市楽座の掟書13箇条」を発布しました。この制札の原本は現在も重要文化財として近江八幡市立資料館に保存されています。

掟書の骨格をなすのは第1条の「諸座・諸役・諸公事の免除」、つまり独占的な商人組合(座)の特権をすべて廃止して自由な商取引を保障することです。
第2条では街道を行く商人と近辺を航行する船に対して、この町への立ち寄りを義務付けました。
また第13条で周辺地域のあらゆる市を八幡に集約する規定を設けましたが、これは織田信長の安土楽市令にはない秀次独自の条項です。
さらに第7条では、町内の商人の債権(貸したお金)を徳政令から守ることで、移住してきた商人が安心して商売を続けられる環境を整えました。

こうした政策により八幡の城下町は、誰でも実力次第で商売ができる公正な市場として発展しました。
さらに秀次が力を入れたのが「八幡堀」の整備です。
全長4,700〜4,750mにのぼる運河を琵琶湖と城下町の間に開削し、水上輸送の拠点としました。
この堀は防衛の役割だけでなく、防火・排水の機能と美しい景観を同時に実現した高度な都市インフラです。
現在も重要文化的景観(全国第1号)に選ばれ、時代劇の撮影地としても知られています。

秀次が整えた自由な商業環境と水運ネットワークは、後に全国を舞台に活躍する「近江商人」の原点となりました。
秀次の死後に城は廃城されましたが、徳川時代になっても楽市楽座・諸役免除の特権は引き継がれ、町は繁栄を続けます。


③「二頭政治」の誕生と内側の矛盾

関白就任後の秀次は、聚楽第を拠点に国内行政の実務を一手に担いました。
文禄の役で秀吉が肥前名護屋へ出陣している間、秀次は京都に留まって人掃令(全国規模の人口調査)の実施や継飛脚制度の整備など、幅広い政務を処理します。

しかしこの体制には、構造的な問題が潜んでいました。
蔵入地(直轄領)は「太閤蔵入地」と「関白蔵入地」に分割されたものの、秀吉は「御法度」「御置目」を通じて秀次の権限を細かく制限し続けます。
表向きは二人のトップが政務を分担しているように見えても、最終決定権は秀吉が握り続けていたのです。
歴史家の矢部健太郎氏は「秀吉にとって最大のジレンマは、関白の地位を与えてしまったことで豊臣政権というシステム上、秀次を容易に排除できなくなった点にあった」と分析しています。


④ 文化人としての顔:知のネットワーク

戦国武将のイメージとはかけ離れて、秀次は和歌・連歌・茶の湯・古典籍の収集に深い関心を持った文化人でもありました。
聚楽第では月ごとに和歌会や連歌会を開き、細川幽斎・古田織部ら一流の文化人と交流。朝廷の公家たちからも、学問への熱意を高く評価されていました。

イエズス会宣教師のルイス・フロイスは著書『日本史』において、秀次を「深く道理と分別をわきまえた人で、謙虚であり、短慮性急でなく、物事に慎重で思慮深かった」と評しています。
これは後世に定着した「暴君」のイメージとは、まるで正反対の証言です。

古典籍の収集活動では、鎌倉時代の北条氏が創設した金沢文庫の旧蔵書にまで及ぶほどの規模でした。
聚楽第は一種の学術センターとして機能し、注釈書の作成も行われていたとされます。
秀次の蔵書は後に徳川家康の手に渡り、江戸幕府の紅葉山文庫の基礎の一部となって、近世日本の学問発展に貢献しました。


⑤ 秀頼の誕生で暗転する運命

文禄2年(1593年)8月3日、秀吉の側室・淀殿(茶々)が男子を出産します。
後の豊臣秀頼です。このとき秀吉は57歳。
長年待ち望んだ実の子どもの誕生は、政権の構図を一変させました。

秀次はそれまで「豊臣家の後継者」として位置づけられていましたが、実子が生まれた以上、秀吉にとっての優先順位は明らかに変わります。
秀吉は「日本を5分し、4分を秀次、1分を秀頼に」という分割案を提示したり、秀次の娘と秀頼の婚約を検討したりするなど、二人の関係を取り持とうとしましたが、いずれも実現しませんでした。
秀次の立場は「後継者」から「秀頼の脅威」へと変わっていきます。


⑥ 高野山での切腹と三条河原の悲劇

文禄4年(1595年)7月、秀吉と秀次の間の不和が表面化します。
石田三成ら奉行が聚楽第を訪問し、秀次に高野山への退去を促しました。
秀次は伏見に赴いて秀吉に面会を求めましたが、一切拒否されます。

7月8日に剃髪して高野山・青巌寺に入った秀次は、7月15日に切腹して28歳の生涯を閉じました。
秀吉からの追放状には罪状として「相届かざる子細」「不慮之御覚悟」と記されているのみで、謀反の具体的な証拠はまったく示されていません。
朝廷の記録『御湯殿上日記』には「無実ゆえかくのことに候」と記されており、秀次が無実であるとの認識が宮中でも広まっていたことがわかります。

さらに秀吉は、秀次が亡くなった後の8月2日、三条河原において秀次の妻・妾・子女・侍女ら39名を公開処刑しました。
最上義光の次女・駒姫(15歳)は秀次の側室となるために上洛したばかりで、まだ顔も合わせていない状態での処刑でした。
処刑は約5時間に及び、遺体はまとめて埋められて「畜生塚」と呼ばれる塚が築かれました。


⑦「殺生関白」はプロパガンダだった?

「殺生関白」という呼称が史料に初めて登場するのは、慶長7〜8年(1602〜1603年)頃に成立した太田牛一の著作『大かうさまくんきのうち(太閤様軍記之内)』とされています。
この書物は「通行人の無差別切り殺し」「妊婦の腹を裂く」など、秀次の凄惨な悪行を列挙しています。

しかし、秀次が存命中に書かれた一次史料——公家・山科言経の日記『言経卿記』、禁裏の記録『御湯殿上日記』、秀次側近の覚書『駒井日記』——には、そのような記述は一切ありません。
現在の歴史学の主流は「通行人の無差別殺害や妊婦の腹を裂くといった極端な悪行は後世の創作」とみなしています。

なぜこうした悪評が広まったのでしょうか。
明確な証拠もなく関白を切腹させ、一族39名を処刑した秀吉の行為は、当時でも異常なものとして受け取られていました。
秀吉側としては、この処置を正当化する必要があり、秀次を「暴君だったから当然の末路」と見せる情報操作が行われたと考えられています。
小和田哲男・矢部健太郎・藤田恒春ら現代の研究者たちは、「殺生関白」像は政治的プロパガンダとして形成されたものだと指摘しています。


⑧ 秀次事件が豊臣政権を滅ぼした理由

秀次事件の影響は、単なる一族の悲劇にとどまりませんでした。
秀次を除くと、秀吉の弟・秀長(1591年没)、嫡男・鶴松(1591年没)、朝鮮で没した秀勝(1592年没)、秀次の弟・秀保(1595年4月没)と豊臣一族の男性は次々と亡くなっており、秀次の死後は数え3歳の秀頼だけが残されることになりました。

政権を支える成人の血縁者が消えた豊臣家は、五大老・五奉行による合議制で補おうとしましたが、秀吉の死後にはこの仕組みも機能不全に陥ります。
また、愛娘・駒姫を失った最上義光など、事件で心が離れた大名たちは、1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康側(東軍)についています。

秀次とその家臣団という「豊臣政権の次世代を担う人材」が一網打尽に失われたことは、豊臣政権の瓦解を決定的にしたと多くの歴史家が評価しています。
秀次事件はまさに、秀吉が自らの手で自家の滅亡を準備した出来事だったのです。


⑨ おわりに

豊臣秀次は、長い間「殺生関白」という不名誉なレッテルを貼られてきました。
しかし、一次史料を丁寧に読み解いていくと、そこに浮かび上がるのは近江八幡に商業都市の基盤を築き、学問や文化を愛した有能な統治者の姿です。

「悪逆塚」は江戸時代初期に豪商・角倉了以によって供養され、瑞泉寺として生まれ変わりました。
2024年には秀次公430回忌にあわせて、京都国立博物館でも特集展示が開かれています。
歴史の評価は時代とともに変わります。秀次の場合もまた、研究の深化によって、真の姿がゆっくりと取り戻されつつあります。


参考文献

  • 【一次】『駒井日記(駒井中書日次記)』 駒井重勝(秀次右筆)著、文禄2〜4年(1593〜1595)成立。藤田恒春編校訂版(文献出版、1992年)。CiNii: https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN08380669
  • 【一次】『言経卿記』 山科言経著、天正4〜慶長13年(1576〜1608)成立。東京大学史料編纂所編『大日本古記録 言経卿記』(岩波書店)全8巻。CiNii: https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN01613248
  • 【一次】『御湯殿上日記』 禁裏女官(当番制)記録、文明9〜文政9年(1477〜1826)成立。秀次該当部分は文禄4年(1595)。『続群書類従 補遺三』(八木書店)。
  • 【準一次】『大かうさまくんきのうち(太閤様軍記之内)』 太田牛一著、慶長7〜8年(1602〜1603)頃成立。慶應義塾大学所蔵(自筆本)。
  • 【一次】『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇Ⅱ』 ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳(中公文庫、2014年)。原著16世紀末。
  • 【二次】矢部健太郎『関白秀次の切腹』(KADOKAWA、2016年)ISBN 978-4-04-601545-7。先行論文:『國學院雑誌』114-11(2013年)。
  • 【二次】藤田恒春『豊臣秀次』(人物叢書280)(吉川弘文館、2015年)ISBN 978-4-642-05273-3。
  • 【二次】小和田哲男『豊臣秀次「殺生関白」の悲劇』(PHP新書197、PHP研究所、2002年)。
  • 【二次】長澤伸樹『楽市楽座令の研究』(平凡社、2017年)pp.276〜279(八幡山城下町掟書13箇条の翻刻と分析)。
  • 【公的】近江八幡市公式サイト「豊臣秀次の思い出」「商都ものがたり」/近江八幡観光物産協会公式サイト「八幡堀について」「近江商人について」(参照日:2026年2月18日)。https://www.city.omihachiman.lg.jp/soshiki/kanko_seisaku/3/1/914.html
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