はじめに
江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の三男として生まれ、三代将軍・家光の実弟だった徳川忠長。
容姿端麗で才気煥発と評され、両親の寵愛を一身に受けた彼は、55万石という御三家に匹敵する大領を与えられ「駿河大納言」と称されました。
しかし、その輝かしい経歴は突如として暗転します。
神聖な場所での猿狩り、家臣への理不尽な暴力、そして最期は28歳での切腹――。
なぜ将軍の実弟は、こうした悲劇的な運命を辿ることになったのでしょうか。
溺愛が生んだ驕り、権力の構造的矛盾、そして個人の精神的破綻が交錯した、徳川忠長の生涯を紐解いていきます。
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目次
- 溺愛された次男の誕生
- 将軍継嗣争いと家康の裁断
- 駿河大納言への栄達
- 乱行の始まり―浅間神社猿狩り事件
- 破滅への道―蟄居から改易へ
- 高崎での最期と歴史的意義
溺愛された次男の誕生
慶長11年(1606年)6月1日、江戸城西の丸で徳川秀忠と正室・崇源院(お江)の三男として忠長は生まれました。
幼名は国千代、または国松と呼ばれています。
兄の竹千代(後の家光)が病弱で吃音があったのに対し、国千代は容姿端麗で聡明だったため、両親は三男を深く愛しました。
この偏愛は後に大きな問題を引き起こすことになります。
父母の態度を見た周囲の大名や家臣たちも、三男の方が将軍後継になるのではないかと考え、国松に取り入ろうとする動きが広がっていきました。
将軍継嗣争いと家康の裁断
こうした状況を憂慮した祖父・徳川家康は、母お江に宛てた書状で厳しく諭しています。
「国松は聡明に見えるゆえ甘やかすと我儘になり身を亡ぼす」――この警告は、後の悲劇を予見するかのようです。
また、家光の乳母・春日局が駿府の家康を訪ね、家光の後継者指名を訴えたという有名な逸話があります。
家康は「嫡男竹千代を廃して次男国松を立てるは天下の乱の因」と裁断し、年長である家光を正式な後継者と定めました。
この決定により、忠長は「将軍の弟」という立場に据え置かれることになります。
駿河大納言への栄達
1618年、12歳の忠長は甲斐国甲府23万8000石を拝領し、甲府藩主となります。
さらに1624年には駿河・遠江・甲斐の3国計55万石に加増され、駿府城を居城とする駿府藩が成立しました。
この石高は御三家である尾張徳川家や紀伊徳川家に匹敵する規模です。
1626年には従二位権大納言に昇進し、以後「駿河大納言」と呼ばれるようになりました。
かつて祖父・家康が隠居した駿府城を拠点とし、経済力・軍事力ともに将軍に準ずる存在となった忠長は、まさに「第二の将軍」のような様相を呈していたのです。
しかし、この強大な権力こそが問題でした。
東海道の要衝である駿府に「将軍に類する者」が存在することは、江戸幕府の中央集権体制にとって潜在的な脅威となります。
参勤交代で江戸へ向かう西国大名たちが駿府城に立ち寄って忠長に挨拶し、贈り物をする慣習は、まるで将軍が二人いるかのような印象を与えました。
乱行の始まり―浅間神社猿狩り事件
忠長の運命を決定づけたのが、寛永7年(1630年)11月に起きた浅間神社での猿狩り事件です。
駿河国の静岡浅間神社付近の賤機山で、忠長は大規模な猿狩りを強行しました。
この行為が問題だったのは、浅間神社が祖父・家康が14歳で元服した神聖な場所であり、境内での殺生が厳禁されていたためです。
野猿は神の使いとして崇められていたにもかかわらず、忠長は神職の懇願を無視して狩りを続け、約1240匹もの猿を殺害したとされています。
さらに帰路では、自分の乗る駕籠の担ぎ手の尻を脇差で刺し、驚いて逃げ出した者を斬り殺すという暴挙に及びました。
この一連の行為は江戸に伝わり、将軍・家光の激怒を招くことになります。
破滅への道―蟄居から改易へ
寛永8年(1631年)、忠長の乱行はさらにエスカレートしていきます。
鷹狩りの際、濡れた薪で火を起こせなかった小姓を理不尽にも手討ちにしてしまったのです。
息子を殺された父親が幕府に訴え出たことで、事態は公の問題となりました。
他にも家臣の子息や僧侶を殺害するなど、数々の乱行が伝えられています。
当時の記録では、熊本藩主・細川忠利が「これは酒乱ではなく発狂によるもの」と記すほど、忠長の精神状態は異常でした。
恐怖を感じた側近たちは次々と離れ、幼い召使2人だけが仕える有様となります。
父・秀忠は1631年5月18日、ついに忠長を勘当し、甲府での蟄居を命じました。
家光も重臣を遣わして再三戒めましたが、忠長の行状は改まりません。
翌1632年、秀忠が危篤となっても忠長の江戸入りは許されず、3月14日に秀忠が死去しても父子の対面は叶いませんでした。
秀忠の死後、最後の庇護者を失った忠長に対し、家光は断固たる処置を取ります。
同年10月20日、忠長は改易に処され、55万石の領地はすべて没収されました。
付家老の朝倉宣正・鳥居成次も連座して処罰され、駿府藩は消滅します。
忠長は上野国高崎藩主・安藤重長に預けられ、高崎城での幽閉生活を強いられることになったのです。
高崎での最期と歴史的意義
寛永10年(1633年)12月6日、高崎城内で徳川忠長は自刃して果てました。
享年28歳という若さでした。
将軍の実弟という特別な身分でありながら、一切の情状酌量なく死に至ったこの事件は、徳川幕府の統治方針を象徴する出来事となります。
忠長は罪人として扱われ、当初は墓石の建立すら許されませんでした。
43回忌にあたる延宝3年(1675年)、四代将軍・家綱の治世でようやく免罪され、高崎市の大信寺に五輪塔が建てられます。
ただし墓所は玉垣で隔離され、鎖で繋がれていたことから「鎖のお霊屋」と呼ばれました。
徳川忠長の悲劇は、個人の資質と組織の構造的問題が不幸な形で交錯した結果でした。
才能に恵まれながらも精神的に不安定だった本人、過度に寵愛した両親、そして「将軍に匹敵する弟」という存在を放置できなかった幕府体制――これらすべてが重なり合って、一人の若者を破滅へと追いやったのです。
家光による忠長の処断は、徳川幕府が「家(ファミリー)」の私的な情実よりも「公儀(国家)」の論理を優先することを内外に示す転換点となりました。
この冷徹な決断により、諸大名は将軍権力の絶対性を認識し、幕藩体制は安定期へと移行していきます。
皮肉にも、忠長の犠牲は彼が憎んだ兄・家光の治世を盤石にする礎となったのです。
参考文献
- 小池進『徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇』吉川弘文館、2021年
- 『徳川実紀』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 『国史大辞典』「徳川忠長」項、吉川弘文館、1979-1997年
- 高崎市教育委員会「徳川忠長の墓(附 忠長の霊牌その他)」高崎市文化財情報
- 福田千鶴『江の生涯』中央公論新社、2010年
- 『大日本史料』第12編、東京大学史料編纂所

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