はじめに
戦国時代、父が息子に死を命じる──。
徳川家康の生涯で最も痛ましい事件として知られる「信康事件」は、1579年に起こりました。
わずか21歳の若さで命を絶った松平信康は、家康の嫡男であり、将来の徳川家を背負うはずの存在でした。
なぜ父は息子を守れなかったのでしょうか。
この事件には、同盟関係の力学、家臣団の対立、そして戦国大名が生き残るために払わざるを得なかった過酷な代償が凝縮されています。
本記事では、史料に基づきながら、この悲劇の背景と真相に迫ります。

目次
- 信康の生い立ちと政略結婚
- 徳川家中の二元体制と派閥対立
- 大岡弥四郎事件:内部崩壊の予兆
- 嫁姑の確執と家庭内の亀裂
- 十二ヶ条の訴状と織田信長の関与
- 築山殿と信康の最期
- 事件の歴史的評価
- おわりに
- 参考文献
1. 信康の生い立ちと政略結婚
松平信康は永禄2年(1559年)3月6日、駿府で誕生しました。
父・松平元康(後の徳川家康)はこの時、今川氏の人質として駿府にいました。
母は今川家重臣・関口親永の娘で、後に築山殿と呼ばれる女性です。
信康は今川氏の支配下で幼少期を過ごしましたが、桶狭間の戦い(1560年)で今川義元が討死すると、状況が一変します。
永禄5年(1562年)、父・家康が今川氏から独立し、織田信長と清洲同盟を締結しました
信康は人質交換により岡崎へ帰還し、永禄10年(1567年)5月、わずか9歳で信長の長女・徳姫(五徳姫)と婚姻します。
この政略結婚により、織田・徳川同盟は血縁で結ばれ、より強固なものとなりました。
信康は元服の際、信長から偏諱を受けて「信康」と名乗るようになります。
2. 徳川家中の二元体制と派閥対立
元亀元年(1570年)、家康が武田氏への備えとして本拠を浜松城へ移すと、11歳の信康が岡崎城主に任命されます。
この決断により、徳川家は「浜松(家康)」と「岡崎(信康)」という二つの拠点を持つ体制になりました。
当初は効率的な統治体制に見えたこの仕組みでしたが、次第に問題が表面化します。
家康直属の「浜松衆」は武田氏との最前線で戦い、武功を積む機会に恵まれました。
一方、信康に付属する「岡崎衆」は後方支援が主な任務で、武功の機会が限られていました。
さらに重要なのは、両派の外交方針の違いです。
天正3年(1575年)の長篠の戦い以降、織田信長の勢力が圧倒的となり、織田・徳川の関係は対等な同盟から実質的な主従関係へと変化していきます。
浜松の家康と重臣たちは織田との協調路線を堅持しましたが、岡崎の信康周辺では「織田への過度な従属」に反発し、武田氏との和睦を模索する動きが生まれていました。
3. 大岡弥四郎事件:内部崩壊の予兆
天正3年(1575年)4月、この潜在的な対立が表面化します。
岡崎城の町奉行・大岡弥四郎が、武田勝頼と内通し、武田軍を岡崎城に引き入れる計画を立てていたことが発覚したのです。
大岡は4月4日、鋸挽きという極刑に処されました。
この事件は、岡崎の家臣団に武田氏への接近を図る勢力が存在したことを明らかにしました。
家康は事件の拡大を避けるため、連座を最小限に抑えましたが、岡崎派への不信感は残ります。
武田勝頼は長篠の敗戦後、軍事攻勢から調略活動へと戦略を転換しており、徳川家中の亀裂を巧みに利用しようとしていたのです。
4. 嫁姑の確執と家庭内の亀裂
政治的対立とは別に、岡崎城内では深刻な家庭問題が進行していました。
信康の正室・徳姫と、姑である築山殿の不和です。
徳姫は婚姻から10年近く経っても男子を授かりませんでした。
跡継ぎを心配した築山殿は、信康に側室を勧めます。
天正4年(1576年)以降、旧武田家臣の娘などが側室として迎えられると、徳姫の不満は爆発しました。
織田信長の娘としてのプライドを傷つけられた徳姫は、築山殿への反発を強めていきます。
さらに、信康本人の素行についても問題が伝えられています。
後世の記録には「鷹狩りで獲物が得られず、腹いせに通りかかった僧を斬殺した」といった逸話が残されていますが、これらには誇張や脚色も含まれている可能性があります。
5. 十二ヶ条の訴状と織田信長の関与
天正7年(1579年)7月、ついに事態は臨界点を迎えます。
徳姫が父・織田信長に宛てて、夫・信康と姑・築山殿の非行を列挙した密書を送ったのです。
この「十二ヶ条の訴状」(現存せず)には、嫁姑の対立や信康の粗暴な振る舞いとともに、決定的な告発が含まれていました──「築山殿が武田勝頼と内通している」という内容です。
織田・徳川同盟にとって、これは看過できない事態でした。
信長は安土城で家康の重臣・酒井忠次を呼び出し、訴状の内容を問い質します。
忠次は信康母子を弁護せず、訴状の記述を認めたと伝えられています。
ただし、この事件の主導者が誰だったかについては、史料によって記述が異なります。
江戸時代の『三河物語』は「信長が処断を命令した」と記していますが、一次史料である『信長公記』や『当代記』は「家康の思い通りにせよ」と信長が返答したと記録しています。
つまり、信長は強制したのではなく、家康の判断を承認したという解釈が現在では有力です。
6. 築山殿と信康の最期
家康は苦渋の決断を下しました。
天正7年8月8日付の堀秀政宛書状で、家康は「三郎(信康)不覚悟につき、去る四日岡崎を追い出し申し候」と報告しています。
この一次史料から、家康自身が主体的に信康を処断する決定を下したことが分かります。
8月29日、築山殿は岡崎から浜松への護送中、遠江国小藪村(現在の浜松市、佐鳴湖畔)で徳川家臣により殺害されました。
自害を迫られましたが拒否したため、斬殺されたと伝わります。
9月15日、二俣城に幽閉されていた信康に切腹が命じられました。
享年21(満20歳)。介錯は服部半蔵正成が命じられましたが、涙で刀を振るえず、検使役の天方山城守通綱が代わって務めたと『三河物語』は伝えています。
7. 事件の歴史的評価
信康事件は単なる家庭内の悲劇ではありませんでした。
この事件により、徳川家中の二元体制は解消され、権力は家康の浜松城に一元化されます。
岡崎派の親武田勢力は排除され、徳川家は織田信長との同盟を維持しながら、内部の統制を取り戻しました。
近年の研究では、この事件を「家康が徳川家の生き残りのために下した政治的決断」と位置づける見方が主流です。
信康を生かしておけば、岡崎派が彼を担いでクーデターや分裂を起こすリスクがありました。
また、武田氏との内通疑惑を放置すれば、織田・徳川同盟そのものが崩壊する危険性もあったのです。
皮肉なことに、信康の死からわずか3年後の1582年、本能寺の変で織田信長が横死します。
もし信康があと数年生きていれば、有能な後継者として徳川家を支えられたかもしれません。
家康は晩年、「幼い頃の教育を誤った」と後悔の念を漏らしたと伝わります。
信康の娘たち(登久姫・熊姫)を徳川譜代の有力大名家に嫁がせ、手厚く遇したことも、家康の心中に残った深い傷を物語っています。
おわりに
徳川信康事件は、戦国大名が生き残るために払わざるを得なかった過酷な代償を示す出来事です。
同盟関係の力学、家臣団の派閥対立、そして家庭内の不和が複雑に絡み合い、一人の若武者の命が失われました。
この悲劇から学べることは、権力構造の二元化がもたらすリスク、そして外交関係が個人の運命をも左右する戦国時代の厳しい現実です。
家康はこの痛みを糧として、後に江戸幕府という安定した政権を築くことになります。
信康事件は、その礎となった歴史の転換点だったのかもしれません。
参考文献
一次史料
- 『家忠日記』松平家忠著、『増補続史料大成』臨川書店
- 『信長公記』(『安土日記』尊経閣文庫本)太田牛一著
- 『愛知県史 資料編11』愛知県、1999年(堀秀政宛家康書状所収)
- 『当代記』『史籍雑纂』所収
二次史料・研究書
- 大久保忠教『三河物語』『日本思想大系26』岩波書店、1976年
- 黒田基樹『家康の正妻 築山殿』平凡社新書、2022年
- 柴裕之「松平信康事件は、なぜ起きたのか?」渡邊大門編『家康伝説の嘘』柏書房、2015年
- 本多隆成「松平信康事件について」『静岡県地域史研究』第7号、2017年
公的資料
- 『新編岡崎市史』第2巻 中世、岡崎市、1989年
- 『愛知県史 通史編3 中世2・織豊』愛知県史編さん委員会、2018年
- 浜松市史 二、浜松市役所編、1971年

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