後醍醐天皇 | 建武の新政—理想に燃えた改革者の挑戦と挫折

目次

はじめに

約700年前、日本史上最も野心的な改革に挑んだ天皇がいました。
150年続いた武家政権を打倒し、天皇自らが国を治める「親政」を実現しようとした後醍醐天皇です。
彼の挑戦は、わずか2年半で崩壊する運命にありましたが、その革新的な試みは日本の歴史に消えることのない痕跡を残しました。

なぜ後醍醐天皇の改革は失敗したのでしょうか?そして、その失敗から私たちは何を学べるのでしょうか?
本記事では、建武の新政の全貌をわかりやすく解説します。


note(ノート)
後醍醐天皇 | 「天皇親政」の理想と挫折―建武の新政はなぜわずか3年で崩壊したのか|hiro | ゆる歴史かわら... はじめに 「朕が新儀は未来の先例たるべし」――後醍醐天皇は、自らの改革を未来の手本とすると宣言しました。 1333年、約150年続いた鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、天皇自...

目次

  1. 後醍醐天皇という人物—改革者の誕生
  2. 鎌倉幕府打倒への道—二度の失敗と三度目の成功
  3. 建武の新政の始まり—理想の政治体制とは
  4. 革新的な組織づくり—雑訴決断所と能力主義
  5. 失敗の原因—武士たちの不満と足利尊氏の離反
  6. 南朝の樹立と後醍醐天皇の最期
  7. 歴史的意義—建武の新政が残したもの

1. 後醍醐天皇という人物—改革者の誕生

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は1288年に生まれ、1318年に31歳で天皇の位に就きました。
当時の日本は、京都の朝廷と鎌倉の幕府という二重権力構造にありました。
さらに皇室内部でも、大覚寺統と持明院統が交互に天皇を出す「両統迭立」という複雑な仕組みがあったのです。

後醍醐天皇は、この状況を根本から変えようと考えました。
彼が理想としたのは、約400年前の醍醐天皇や村上天皇の時代です。
この時代は「延喜・天暦の治」と呼ばれ、天皇が摂政や関白を置かずに自ら政治を行う「親政」が実現していました。
後醍醐天皇は、自分の諱(いみな)を生前に「後醍醐」と定めるほど、この理想に強く憧れていたのです。

1321年、父の後宇多法皇が院政を停止すると、後醍醐天皇は本格的な親政を開始します。
彼は上皇や摂政・関白といった「中間に立つ役職」をすべて排除し、天皇に権力を一点集中させる超中央集権体制を目指しました。

2. 鎌倉幕府打倒への道—二度の失敗と三度目の成功

後醍醐天皇にとって、自らの理想を実現する最大の障害は鎌倉幕府でした。
幕府こそが両統迭立を強制し、天皇の権力を制限していたからです。

正中の変(1324年)
最初の倒幕計画は、側近の日野資朝や日野俊基が中心となって進められましたが、協力者の妻の密告により発覚してしまいます。
天皇自身は無罪とされましたが、日野資朝は佐渡に流されました。
なお、近年の研究では、この事件が本当に倒幕計画だったのか、冤罪だった可能性も指摘されています。

元弘の変(1331年)
二度目の挑戦も、側近の密告により計画が漏れてしまいます。
後醍醐天皇は京都を脱出して笠置山に籠城しましたが、9月に陥落。
翌年3月には隠岐島へ流されてしまいました。

しかし、この絶望的な状況が転機となります。
河内国の武士・楠木正成が挙兵したのです。
正成は出自不明の「悪党」(既存の支配秩序に従わない武装集団)でしたが、彼の戦術は革新的でした。

千早城の籠城戦
1333年、楠木正成はわずか約1,000人で千早城に籠城し、約25,000人の幕府軍を約3ヶ月半も釘付けにしました。
落石、熱湯、火攻め、甲冑を着せた人形の囮など、従来の武士道とは異なるゲリラ戦術を駆使したのです。

この間に、後醍醐天皇は隠岐を脱出。
さらに決定的だったのは、幕府の有力武将・足利高氏(後の尊氏)が裏切り、天皇側に寝返ったことでした。
1333年5月、新田義貞が鎌倉を攻略し、北条高時が自害。
約150年続いた鎌倉幕府は滅亡したのです。

3. 建武の新政の始まり—理想の政治体制とは

1333年6月、京都に戻った後醍醐天皇は「建武の新政」を開始します。
元号を「建武」と改めたのは、中国の後漢・光武帝が簒奪者を倒して王朝を復興した際の年号と同じであり、復古と革新の二重の意味が込められていました。

建武の新政の最大の特徴は、すべての決定を天皇の「綸旨」(りんじ)によって行うという点です。
綸旨とは天皇の意思を伝える命令書のことで、土地の所有権確認から恩賞の配分まで、あらゆることが綸旨なしには認められなくなりました。

新設された主な機関

  • 記録所:最高政務機関。訴訟の直裁を行う
  • 恩賞方:討幕功労者への論功行賞を担当
  • 雑訴決断所:所領訴訟を専門に扱う裁判機関
  • 武者所:京都の警備を担当

後醍醐天皇は「朕が新儀は未来の先例たるべし(私が行う新しい制度は、将来の手本となる)」と宣言し、前例にとらわれない改革を断行しました。

4. 革新的な組織づくり—雑訴決断所と能力主義

建武の新政で特に注目すべきは、雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)の設置です。
これは1333年9月頃に設置された、所領紛争を処理する専門の裁判機関でした。

初期は4番制(※『太平記』では3番制との記述もあり)で約70名、1334年秋には8番制・総員107名に拡大されました。
構成員は公家、武家、法曹官僚の混成で、以下のような人物が参加していました。

  • 楠木正成(武将でありながら記録所寄人にも抜擢)
  • 名和長年(伯耆国の海運業者から伯耆守・東市正に)
  • 高師直(足利氏の被官)
  • 旧幕府の実務官僚(二階堂氏、三善氏など)

後醍醐天皇の人材登用の革新性は、家柄や血筋にとらわれず、実力や忠誠心を重視した点にあります。
出自不明の楠木正成を要職に抜擢したことは、当時としては極めて異例でした。

雑訴決断所は「一番一区制」を採用し、地域ごとに担当を分けて迅速な処理を目指しました。
現存する判決文書(牒)は120通余りあり、具体的な訴訟処理の様子がわかります。

5. 失敗の原因—武士たちの不満と足利尊氏の離反

しかし、建武の新政は急速に行き詰まります。
最大の原因は恩賞配分の不公平でした。

武士たちの不満
命を懸けて幕府と戦った武士たちは、相応の恩賞(土地の給与)を期待していました。
ところが、実際には公家や寺社が優遇され、一般の武士への恩賞は不十分だったのです。

足利尊氏は武蔵・下総・常陸の3知行国と30箇所の所領を与えられましたが、一般武士への配分は滞りました。
赤松則村(円心)は一度は播磨国守護職を得たものの後に解任され、深い怨恨を抱いて足利方に転向してしまいます。

さらに問題だったのは、すべての土地確認を綸旨に依存させたことです。
全国から膨大な申請が京都に殺到し、雑訨決断所は完全にパンク状態に。
処理の遅延だけでなく、同じ土地に複数の綸旨が発給されるという矛盾も頻発しました。

二条河原落書
1334年頃、京都の二条河原に匿名の風刺詩が掲げられます。
「このごろ都に流行るもの。夜討ち、強盗、偽の綸旨」で始まるこの落書は、綸旨の乱発、処理されない訴訟、成り上がり者の跋扈など、新政の混乱を痛烈に批判しました。

足利尊氏の離反
1335年、北条氏の残党が起こした「中先代の乱」を鎮圧した足利尊氏は、後醍醐天皇の帰京命令を無視して鎌倉に留まり、独自に恩賞を配布し始めます。

なぜでしょうか?
それは、天皇の集権的なシステムでは救済されない武士たちの要求に、尊氏が即座に応えたからです。
武士たちにとって、迅速に利益を還元してくれる尊氏の方が、はるかに魅力的だったのです。

後醍醐天皇が目指した「絶対王政」と、足利尊氏が代表する「武士の利益」は、根本的に相容れないものでした。
天皇は尊氏追討を命じますが、1336年5月の湊川の戦いで楠木正成が自害。
尊氏は光明天皇を擁立し、11月に建武式目17条を制定して室町幕府を実質的に成立させました。

6. 南朝の樹立と後醍醐天皇の最期

京都を追われた後醍醐天皇でしたが、全面降伏することはありませんでした。
1336年12月21日、天皇は三種の神器を携えて吉野(奈良県)に逃れ、南朝を樹立したのです。

「北朝に渡した神器は偽物であり、自らが所持するものこそ本物」と主張し、皇位の正統性を宣言します。
物理的な領土や軍事力を失っても、象徴的な正統性を維持することで組織を存続させる戦略でした。

南朝は各地に皇子を派遣して全国的な抵抗網を構築します。

  • 懐良親王:九州へ征西将軍として派遣
  • 宗良親王:信濃方面へ
  • 義良親王:北畠顕家とともに陸奥へ

しかし1338年、北畠顕家と新田義貞が相次いで戦死し、南朝は軍事的に大幅な劣勢となりました。

後醍醐天皇の崩御
1339年8月15日、後醍醐天皇は吉野で後村上天皇に譲位し、翌16日に崩御します。
享年52(満50歳)でした。

『太平記』によれば、天皇は左手に『法華経』第五巻、右手に剣を持って崩御したといいます。
遺詔で「玉骨は縦令南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まん(私の骨が吉野の山の苔に埋もれようとも、魂は常に京都の空を見据え続ける)」と、京都奪還の意志を後村上天皇に託しました。

遺言に基づき、遺体は北向き(京都の方角)に葬られました。
通常の天皇陵が南向きであることに対し、これは死してなお京都奪還を望む意志の物理的表現だったのです。

南朝はその後約56年間存続し、1392年の明徳の和約で北朝と合一しました。

7. 歴史的意義—建武の新政が残したもの

後醍醐天皇の挑戦は、短期的には失敗に終わりました。
しかし、その歴史的影響は計り知れません。

制度的遺産
皮肉なことに、後醍醐天皇が導入した雑訴決断所の仕組みや、土地給付における強制執行の概念は、彼を裏切った足利尊氏らによって室町幕府の統治機構の基礎として引き継がれました。

人材登用の革新
楠木正成のような「悪党」を登用した能力主義は、後の戦国時代へと続く社会の流動化の先駆けとなりました。

学術的再評価
20世紀半ばまで、建武の新政は単なる懐古趣味的な失政と見なされることが多くありました。
しかし、1996年にアンドリュー・ゴーブルが出版した『Kenmu: Go-Daigo’s Revolution』は、建武を「復古」ではなく「革命」として位置づけ、学術的な転換をもたらしました。

近年の研究では、後醍醐天皇は中国の宋朝皇帝型の独裁君主を目指した革新的な改革者であったという評価が定着しています。
彼が掲げた「天皇親政」という理想は、400年後の明治維新においても「王政復古」の象徴的なモデルとして再評価されることとなったのです。

私たちが学べること
建武の新政の失敗から、私たちは何を学べるでしょうか。

第一に、理想と現実のバランスの重要性です。
後醍醐天皇の理想は崇高でしたが、現場の武士たちの切実な要求を軽視したことが致命的でした。

第二に、組織のスケールアップの難しさです。
すべての決定を天皇一人に集中させた結果、処理能力を超えた情報が集まり、システムがダウンしました。

第三に、改革者の覚悟です。
後醍醐天皇は二度の失敗にもかかわらず諦めず、最後まで自らの理想を貫きました。
その強い意志は、南朝を60年間存続させる原動力となったのです。


参考文献

一次史料

  • 『太平記』(14世紀後半成立)国立公文書館デジタルアーカイブ
  • 『神皇正統記』北畠親房著(1339年初稿・1343年修訂完了)国立国会図書館デジタルコレクション
  • 『建武式目条々』中原是円・真恵ら起草(1336年11月7日制定)群書類従・中世法制史料集所収
  • 『建武年間記』(14世紀成立)国立公文書館内閣文庫蔵
  • 『梅松論』(14世紀後半成立)群書類従所収

二次文献

  • Andrew Edmund Goble, Kenmu: Go-Daigo’s Revolution (Harvard University Asia Center, 1996) ISBN 0-674-50255-8
  • 伊藤喜良『後醍醐天皇と建武政権』吉川弘文館
  • 亀田俊和『南朝の真実:忠臣という幻想』吉川弘文館、2014年
  • 佐藤進一『日本の中世国家』岩波書店、1983年
  • 網野善彦『異形の王権』平凡社、1986年

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