はじめに
「山田長政」という名前を聞いたことはありますか?江戸時代の初め、タイ(当時はシャム)に渡って大活躍した日本人です。
江戸時代の日本でも有名人だったこの人物は、実は沼津城の駕籠かき(荷物運び係)から出発して、東南アジアの王国で「大臣クラスの高官」に上り詰めました。
この記事では、山田長政がどんな人物で、何をやり遂げ、なぜ悲劇的な最期を迎えたのかをわかりやすく解説します。

目次
- 山田長政ってどんな人?
- 当時の「朱印船」とアジアへの日本人進出
- アユタヤで成り上がった長政の実力
- 国家間の外交使節になった駕籠かき
- 後ろ盾を失ったとき、何が起きたか
- 日本人町の崩壊と鎖国
- 神話と実像──長政はどんな人だったのか
- 参考文献
1. 山田長政ってどんな人?
山田長政(1590年頃〜1630年頃)は、駿河国(現在の静岡県)出身の人物です。
父は染物業を営んでいた一般人で、長政は武士ではありませんでした。
日本にいた頃は、沼津城の城主・大久保忠佐に「六尺(ろくしゃく)」として仕えていました。
「六尺」というのは駕籠かきのこと。
つまり、身分は低かったのです。
これは当時の幕府の公式記録にも書かれています。
しかしこの男が、東南アジアのシャム(今のタイ)に渡って、王国の第3位高官にまで上り詰めます。
2. 当時の「朱印船」とアジアへの日本人進出
江戸時代の初め(17世紀前半)は、日本は東南アジアと活発に貿易をしていました。
幕府は「朱印状(しゅいんじょう)」という許可証を商人に発行し、アジア各地への航海を認めていたのです。
1604年から1635年の間に、約356通の朱印状が発行されました。
シャム(タイ)へは55〜56隻の日本船が向かっています。
この時代、関ヶ原の戦い(1600年)や大坂の陣(1615年)で主君を失った「浪人」たちの一部が、東南アジアへ渡りました。
実戦経験がある彼らは、戦争が続くアジアの国々で傭兵(お金をもらって戦う兵士)として大変重宝されました。
シャムのアユタヤには最盛期に1,000〜1,500人の日本人が住み、日本人町が形成されます。
長政は1612年頃にここへたどり着きました。
3. アユタヤで成り上がった長政の実力
アユタヤに着いた長政は、二つの分野で実力を発揮します。
貿易での成功
長政が注目したのは「鹿皮(かわ)」と「蘇芳木(すおうぼく)」でした。
鹿皮は日本で甲冑(よろい)や武具の素材として大人気、蘇芳木は赤色染料の原料として需要がありました。
長政は地元の狩人ネットワークに事前に資金を渡す(先払い)という方法で、最高品質の鹿皮を独占的に集めました。
1回の航海で鹿皮5万枚・蘇芳木180トンを日本へ運ぶ規模に達し、ライバルのオランダ東インド会社(VOC)を資金不足に追い込むほどでした。
傭兵としての活躍
長政は約600〜700名の日本人傭兵部隊を率いて、シャム王宮の護衛を務めました。
スペイン艦隊の撃退にも参加し、軍功を積み重ねます。
ソンタム王はその功績を高く評価し、長政に「オークヤー・セナーピムック」というアユタヤ第3位の高官位を与えました。
これは1629年のオランダの公文書にも記録されています。
4. 国家間の外交使節になった駕籠かき
1626年、長政はシャム使節団を日本へ送り、幕府と直接外交を行いました(謁見相手は資料によって異なり、確定していません)。
幕府は使節に金屏風3双・甲冑3領・刀剣2振り・馬3頭という豪華なお土産を贈りました。
かつての駕籠かきが、2か国間の外交窓口になったのです。
この時代の東南アジアは、身分よりも実力と制度の活用が評価される場所でした。
5. 後ろ盾を失ったとき、何が起きたか
1628年12月、長政のバックについていたソンタム王が亡くなります。
王の後継をめぐる争いが起き、長政は有力廷臣カラーホムと組んで王子チェータティラートの即位を支援しました。
反対勢力を武力で押さえ込み、成功します。
しかしカラーホムはその後チェータティラートをも殺してしまい、自ら「プラーサートトーン王」として即位しました。
長政はこの裏切りに反発しましたが、これが命取りになります。
新王は、長政が率いる強力な日本人部隊を首都に置いておくことを危険だと判断しました。
「南部のリゴールを治める太守に任命する」と告げます。
表向きは出世話ですが、実態は「首都から遠ざける追放」でした。
長政は約300名の日本人兵とともに南下しました。
しかし1630年頃、現地での戦いで脚に傷を負います。
その傷の手当て中に、王の命令を受けた人物が毒を塗った薬を使い、長政は帰る途中で命を落としました。
享年約40歳。
※なお、タイ側の公式記録では「病死」とされており、毒殺説はオランダ商館長の記録によるものです。
6. 日本人町の崩壊と鎖国
長政の死後、プラーサートトーン王はアユタヤの日本人町に大軍を送り込んで焼き討ちを行いました。
約500名の日本人市民が亡くなり、生き残りはカンボジアへ逃げます。
さらに1635年、江戸幕府は「第3次鎖国令」を出し、日本人の海外渡航と帰国を全面的に禁止しました。
これにより、東南アジアへの日本人の新規流入が完全に途絶えます。
アユタヤの日本人社会は、18世紀のはじめまでに完全に消滅しました。
7. 神話と実像──長政はどんな人だったのか
1930年代、日本が東南アジアへの進出をめざしていた時代に、長政は「東洋のコロンブス」と呼ばれ、国策映画の主人公になりました。
日本人町の人口も最大8,000人と誇張されましたが、学術的な実態は1,000〜1,500人程度でした。
現代の研究が明らかにした実像はこうです。
- 最古の確実な一次資料が示す身分は「六尺(駕籠かき)」
- 朱印状という制度と、アユタヤの官位制度という二つの「仕組み」を使いこなして成り上がった
- 貿易独占でオランダ東インド会社を凌駕した実業家
- 後ろ盾となる王を失ったとき、政治の罠から逃げられなかった
誇張を取り除いた実像でも、十分にドラマチックです。
制度を使いこなした者の成功と、後ろ盾を失った者の末路──山田長政の生涯は、その両方を鮮明に見せてくれます。
参考文献
- 以心崇伝『異国日記』元和7年(1621年)9月3日条
- Yoshiteru Iwamoto, “Yamada Nagamasa and his relations with Siam”, Journal of the Siam Society, Vol.95, 2007
- Barend J. Terwiel, “Narrating Japan’s Early Modern Southern Expansion”, 2019
- 岩生成一『南洋日本町の研究』(岩波書店、1966年)
- 小和田哲男『山田長政──東南アジアに雄飛した日本人』(中公新書、1993年)
- タイ国政府観光庁(日本語版)「日本人村(アユタヤ日本人町跡)」https://www.thailandtravel.or.jp/japanese-settlement/

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