はじめに
戦国時代、九州北部を支配した大友宗麟は、他の戦国大名とは一線を画す経営戦略を持っていました。
それは、遠く海を越えてやってきたポルトガル人との貿易と、キリスト教という新しい宗教の受容です。
鉄砲や火薬といった最新兵器を手に入れ、莫大な貿易利益を得た宗麟は、一時九州六カ国を支配する「覇者」となります。
しかし、信仰に傾倒するあまり領内の寺社を破壊し、家臣団の反発を招いた結果、島津氏との決戦で大敗を喫してしまいました。
南蛮貿易という「経営判断」は宗麟に何をもたらし、何を奪ったのでしょうか。

目次
- ザビエルとの出会い―南蛮貿易への扉
- 軍事力強化への投資―硝石と大砲
- 九州の貿易競争―キリシタン大名たちの戦い
- 27年越しの改宗―ドン・フランシスコの誕生
- キリシタン王国の夢と寺社破壊
- 耳川の戦い―理想の崩壊
- 天正遣欧使節と秀吉の禁教令
- 宗麟の遺産―経営判断の光と影
1. ザビエルとの出会い―南蛮貿易への扉
天文20年(1551年)、豊後国(現在の大分県)の大名・大友義鎮(後の宗麟)は、22歳の若さでイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルと会見しました。宗麟は布教を許可し、豊後府内(現在の大分市)に教会用地まで寄進しています。
この決断の背景には、純粋な宗教的関心だけでなく、ポルトガルとの南蛮貿易への強い期待がありました。当時の南蛮貿易では、鉄砲・火薬・中国産の生糸などが日本にもたらされ、その利益率は100〜186%にも達したのです。宗麟は布教を許可する見返りとして、ポルトガル船の定期寄港を実現させ、豊後府内は長崎より約20年早く南蛮貿易の拠点となりました。
2. 軍事力強化への投資―硝石と大砲
宗麟が南蛮貿易に注目した最大の理由は、軍事物資の調達でした。当時、宗麟は中国地方の覇者・毛利元就と激しく対立しており、戦を有利に進めるには最新兵器が必要だったのです。
1567年、宗麟はマカオの司教宛に書簡を送り、火薬の原料である硝石を毎年200斤供給するよう要請しました。さらに重要なのは、敵対する毛利氏への硝石売却を禁止するよう求めた点です。これは軍需物資を独占することで、敵を兵站面から圧倒する戦略でした。
1576年には、インド・ゴア工廠製の後装砲「フランキ砲」を輸入します。口径95mm、全長2,880mmのこの大砲は「国崩し」と呼ばれ、日本初の大砲実戦使用となりました。豊後府内の遺跡からはベネチアンガラスや東南アジア産の遺物が多数出土しており、当時の府内が国際都市として繁栄していたことが証明されています。
3. 九州の貿易競争―キリシタン大名たちの戦い
1560年代から70年代にかけて、九州では南蛨貿易をめぐる熾烈な競争が展開されました。大村純忠は1563年に日本初のキリシタン大名として受洗し、1580年には長崎をイエズス会に寄進するという大胆な決断を下します。統治権や裁判権まで譲渡したこの措置は、ポルトガル船の安定的な寄港を確保するための極端な「投資」でした。
有馬晴信も1580年に13歳で受洗し、口之津港をポルトガル船の寄港地として提供しました。布教許可がポルトガル船誘致の絶対条件であったため、キリシタン大名たちは競って宣教師を保護し、教会建設の土地を提供したのです。
4. 27年越しの改宗―ドン・フランシスコの誕生
興味深いことに、宗麟は1551年のザビエル会見から27年間、キリスト教の布教を許可しながらも自身は仏教徒として過ごしました。この長い「観察期間」は、他のキリシタン大名にはない慎重さを示しています。
天正6年(1578年)7月、宗麟はついに洗礼を受け、洗礼名「ドン・フランシスコ」を名乗りました。この時点で宗麟は49歳、すでに家督を息子に譲渡していました。改宗のタイミングは、大村純忠による長崎寄進(1580年)という「ゲームチェンジ」への対抗措置だった可能性が指摘されています。
受洗とほぼ同時に、宗麟は宇佐八幡宮の神官一族出身の正室・奈多夫人と離婚しました。これは伝統的な権威との決別を意味する、後戻りできない決断でした。
5. キリシタン王国の夢と寺社破壊
受洗後、宗麟は日向国(現在の宮崎県)への侵攻を開始します。表向きは島津氏に敗れた伊東義祐の救援でしたが、真の目的は「キリシタン王国」の建設にありました。宗麟は日向を「ヨーロッパの法と習慣を採用した政治」の場にしようと構想し、教会堂やセミナリオ(神学校)の建設を進めました。
この過程で、宗麟は占領地および豊後において仏教寺院や神社を組織的に破壊するよう命じます。イエズス会士ルイス・フロイスの記録によれば、僧侶たちは自らの手で仏像や寺院を破壊し、その廃材をキリスト教会の建設に供出することを強いられたといいます。
この急進的な政策は、大友軍内部の仏教徒・神道徒の家臣から強い反発を招きました。特に筑前など遠方から動員された兵士たちにとって、自らの信仰対象が破壊されるのを見ながら戦うことの意義は見出せませんでした。
6. 耳川の戦い―理想の崩壊
天正6年(1578年)11月、内部分裂を抱えた大友軍は、日向国耳川で島津軍と激突しました。宗麟は軍旗に十字架を掲げ、「国崩し」も携行しましたが、島津軍の「釣り野伏せ」戦術の前に壊滅的敗北を喫します。この戦いで大友軍は多数の戦死者を出し(記録により約3,000〜2万人と幅がある)、主要な家臣を失いました。
敗因として、軍記物は寺社破却による士気低下を指摘しています。宗麟のキリスト教傾倒が家臣団の不協和を生み、指揮系統が混乱したのです。耳川の戦い以降、筑後国の諸勢力が相次いで大友氏から離反し、九州六カ国を支配した宗麟の勢力は急速に衰退していきました。
7. 天正遣欧使節と秀吉の禁教令
敗戦後も宗麟は信仰を捨てませんでした。1582年、彼は大村純忠・有馬晴信と協力して天正遣欧少年使節をローマ教皇のもとへ派遣します。この外交事業は、失墜した権威を回復し、ヨーロッパからの支援を得ようとする最後の試みでした。
しかし1587年、豊臣秀吉が九州平定を敢行し、バテレン追放令を発布します。秀吉は宣教師の追放を命じる一方で南蛮貿易は継続を許可し、布教と貿易を分離する政策に転換しました。背景には、日本人奴隷貿易への警戒があったとされます。
宗麟は同年5月23日に病没し、享年58歳でした。その数週間後にバテレン追放令が発布されたことは、歴史の皮肉といえるでしょう。
8. 宗麟の遺産―経営判断の光と影
大友宗麟のキリスト教改宗は、当初明確な経営判断でした。南蛮貿易による鉄砲・火薬の入手、莫大な商業利益、国際都市・豊後府内の建設は、九州六カ国支配の経済的基盤となりました。1551年のザビエル招聘から1578年の受洗までの27年間、宗麟は自身は仏教徒として振る舞いながら、布教許可と貿易利益を交換する巧みな戦略を維持していたのです。
しかし晩年、宗麟は「キリシタン王国」建設という理想主義に傾倒し、寺社破壊・家臣団の分裂・耳川での壊滅的敗北という結果を招きました。当初の実利追求から信仰が政治判断を支配するに至った転換が、大友氏衰退を加速させたといえます。
宗麟の挑戦は、日本史における宗教と経済の交錯するドラマとして、今なお多くの教訓を私たちに投げかけています。
参考文献
【一次資料】
- ルイス・フロイス『Historia de Japam(日本史)』松田毅一・川崎桃太訳『完訳 フロイス日本史』全12巻、中央公論社1977-1980年/中公文庫2000年
- セビーリャ・インディアス文書館 Patronato第46番箱31号文書(1580年代後半作成推定)、東京大学史料編纂所研究紀要18号(2008年3月)岡美穂子訳注
- フランシスコ・カブラル書翰(1576年天正4年)『異国叢書. 續 豊後篇下巻』昭和11年刊
【二次資料】
- 外山幹夫『大友宗麟』吉川弘文館(人物叢書)1975年/新装版1988年
- C.R. Boxer『The Christian Century in Japan, 1549-1650』University of California Press 1951年/改訂版1967年
- 岡美穂子「近世初期の南蛮貿易の輸出入品について」東京大学史料編纂所研究紀要18号、2008年3月
- 『大分県史料』第26巻(大友家文書収録)大分県、1974年刊行

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