はじめに
木曽川の南岸にそびえる白い天守。国宝に指定された犬山城は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という戦国の三英傑すべてが関わった歴史の舞台です。
2021年、科学的調査により現存天守の建築年代が1585~1588年と証明され、日本最古級の天守であることが確定しました。
この記事では、築城から現代まで約500年にわたる犬山城の波乱に満ちた歴史を、高校生にもわかりやすく解説します。
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目次
- 矛盾点・数字の確認
- 犬山城とは―尾張と美濃の国境に立つ要衝
- 織田信康による築城と初期の争奪戦
- 小牧・長久手の戦いと豊臣秀吉
- 科学が証明した天守の真実
- 成瀬家による250年の統治
- 国宝として現代へ
- まとめ
犬山城とは―尾張と美濃の国境に立つ要衝
犬山城は愛知県犬山市にある城郭で、木曽川南岸の標高約85メートルの丘陵上に位置します。
北側を大河、両側面を崖に守られた「後堅固(うしろけんご)」の城として知られ、敵の背後からの攻撃を自然の地形で防ぐ構造になっています。
この城の最大の特徴は、尾張国と美濃国の国境という戦略的要地に建っていることです。
中山道や木曽街道といった主要街道が交わり、木曽川の水運も押さえられる位置にあったため、経済的にも軍事的にも極めて重要な拠点でした。
そのため戦国時代を通じて激しい争奪戦が繰り広げられることになります。
織田信康による築城と初期の争奪戦
天文6年(1537年)、織田信長の叔父にあたる織田信康が、約1キロメートル南東の木之下城から現在地へ城を移転し、犬山城を築いたとされています。
ただし、この年代を裏付ける確実な同時代史料は発見されておらず、江戸時代に編纂された文献による記述です。
信康の死後、息子の織田信清が城主となりましたが、従兄弟の織田信長と対立します。
永禄8年(1565年)、信長は犬山城を攻撃し、これを攻略しました。『信長公記』にはこの攻城戦で城下町が焼き払われたことが記録されており、激しい戦闘が行われたことがわかります。
信長は乳兄弟である池田恒興を城主に任命し、犬山城は織田氏の支配下となりました。
この城の確保は、信長による尾張統一を決定づけ、美濃侵攻の重要な前線基地となったのです。
小牧・長久手の戦いと豊臣秀吉
天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が倒れると、犬山城は再び歴史の表舞台に立ちます。
天正12年(1584年)、織田信雄と豊臣秀吉の対立が小牧・長久手の戦いへと発展しました。
3月13日夜、秀吉方の池田恒興・元助父子が木曽川対岸の鵜沼から猟船約20艘で川を渡り、城の背後にある水の手口から侵入して犬山城を奇襲しました。
城主の中川定成は伊勢に出陣中で不在だったため、叔父の中川清蔵主が守備していましたが、奮戦の末に討死し、城はわずか一日で陥落します。
3月27日、秀吉は大軍を率いて犬山城に到着しました。
史料により兵力は異なりますが、現代の研究では約10万規模の大軍だったと考えられています。
秀吉は犬山城を最前線司令部とし、南方の小牧山に陣取る徳川家康・織田信雄連合軍と対峙しました。
戦いは半年にわたる膠着状態の末、11月に秀吉と信雄の講和により終結し、犬山城は信雄に返還されました。
科学が証明した天守の真実
犬山城天守の建築年代については、長年「天文6年(1537年)に二層の天守が建てられ、後に三層目が増築された」という段階的建設説が定説でした。
しかし、令和3年(2021年)に発表された画期的な調査結果がこの定説を覆します。
名古屋工業大学の麓和善教授と奈良文化財研究所の光谷拓実客員研究員による年輪年代測定法の調査により、天守の主要木材が天正13年~天正16年(1585~1588年)に伐採されたことが判明したのです。
この科学的証拠により、現存天守は小牧・長久手の戦い直後に、1階から4階まで一度に建設されたことが実証されました。
築城を指揮したのは織田信雄またはその家臣と考えられ、戦いの教訓を生かして防御能力を飛躍的に向上させるために建てられたと推測されます。
これにより犬山城天守は、科学的調査で建築年代が実証された現存天守として日本最古級であることが確定しました。
成瀬家による250年の統治
天正18年(1590年)に信雄が改易されると、犬山城は豊臣政権の直轄となり、文禄4年(1595年)には石川貞清(光吉)が城主となりました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは石川が西軍に与したため城を失い、戦後は徳川方の小笠原吉次が入城します。
元和3年(1617年)、徳川秀忠の命により成瀬正成が犬山城を拝領しました。
成瀬家は尾張藩の付家老として3万5,000石を領し、元和6年(1620年)頃には天守に唐破風出窓や廻縁・高欄を増築する大改修を実施しました。
この改修により、戦国期の実用的な天守から、江戸期の装飾性を重視した天守へと変貌を遂げます。
以後、成瀬家は明治4年(1871年)の廃藩置県まで9代254年間にわたり城主を世襲しました。
戦国期の頻繁な城主交代(平均在位約1.8年)から一転し、平均約28年という極めて安定した統治体制が確立されたのです。
国宝として現代へ
明治24年(1891年)、濃尾地震により天守が半壊しましたが、愛知県から成瀬家に無償譲渡され、明治36年(1903年)に修復が完成します。
昭和10年(1935年)に旧国宝保存法により国宝指定を受け、昭和27年(1952年)には文化財保護法により改めて国宝に指定されました。
平成16年(2004年)まで、犬山城は成瀬家による個人所有の国宝城郭という日本で唯一の特異な状態にありましたが、現在は公益財団法人犬山城白帝文庫が所有しています。
平成30年(2018年)には史跡指定も受け、国宝・史跡の二重指定を受ける貴重な文化財として大切に保存されています。
まとめ
犬山城は、戦国時代の動乱を象徴する城です。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三英傑すべてが関与し、三度の落城を経験しながらも、その戦略的重要性ゆえに破壊されることなく維持されてきました。
2021年の科学的調査により、現存天守が1585~1588年に建設された日本最古級のものであることが証明され、その歴史的価値はさらに高まっています。
約500年の時を超えて今なお美しい姿を保つ犬山城は、日本の城郭史において特別な存在であり続けています。
参考文献
- 麓和善、光谷拓実『国宝犬山城天守再考』犬山市教育委員会、2021年
- 犬山市教育委員会(編著:麓和善、千田嘉博、山村亜希、鈴木正貴、白水正)『犬山城総合調査報告書』犬山市教育委員会、2017年
- 国宝犬山城天守修理委員会編『国宝犬山城天守修理工事報告書』1965年
- 犬山市教育委員会『国宝犬山城天守・史跡犬山城跡保存活用計画』2021年
- 国宝犬山城公式サイト(https://inuyama-castle.jp/)
- 文化遺産オンライン「犬山城天守」文化庁
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