はじめに
奈良時代、一人の地方豪族出身者が、当時の常識を覆して右大臣にまで上り詰めました。
その人物こそ、吉備真備(きびのまきび)です。
18年間の唐留学で得た知識を武器に、皇太子の教育係から軍事指揮官まで務めた彼の人生は、まさに波瀾万丈でした。70歳を過ぎてなお反乱鎮圧の最前線に立ち、藤原氏という権力者たちとの激しい政争を生き抜いた真備の物語は、知識と才能が社会的地位を変えうることを証明する、古代日本における希望の物語でもあります。
本記事では、真備の生涯を通じて、奈良時代の政治、文化、そして一人の人間の不屈の精神に迫ります。

目次
- 地方豪族からの出発:唐への留学
- 知識の宝庫を持ち帰る:735年の帰国
- 皇太子の師として:東宮学士への就任
- 権力闘争の渦中へ:藤原広嗣の乱
- 左遷と再渡航:57歳での危険な航海
- 九州での軍事活動:兵法家としての真備
- 老将の奮闘:藤原仲麻呂の乱
- 権力の頂点:右大臣への昇進
- 晩年と遺産
- まとめ
- 参考文献
1. 地方豪族からの出発:唐への留学
吉備真備は695年、備中国下道郡(現在の岡山県倉敷市)に生まれました。
父の下道国勝は右衛士少尉という下級官人で、真備の家は地方豪族に属していました。
中央の藤原氏のような名門貴族とは異なり、彼の出自は決して恵まれたものではありませんでした。
しかし、真備の人生を変える転機が訪れます。
716年、22歳の時に遣唐留学生に選ばれたのです。
翌717年、阿倍仲麻呂や僧玄昉とともに、真備は危険な航海を経て唐の都・長安へと向かいました。
2. 知識の宝庫を持ち帰る:735年の帰国
真備は唐で18年間という長期にわたり学び続けました。
儒教経典、史書、天文学、音楽、兵法、律令法、算術など、その学習範囲は驚くほど広範でした。
最新の研究によれば、真備は唐の太学に正規入学できなかった可能性が高いとされています。
22歳での渡航は入学年齢制限(14-19歳)を超えていたためです。
それでも独学と私的な師事によって、彼は唐朝廷で学者として名声を得るまでになりました。
735年、40歳で帰国した真備が朝廷に献上した品々は、当時の日本にとって計り知れない価値を持つものでした。
『唐礼』130巻は国家儀礼の総合文献であり、『大衍暦経』と『大衍暦立成』は最先端の天文暦法でした。
さらに測影鉄尺、銅律管、『楽書要録』10巻、そして軍事技術の粋を集めた複合弓なども含まれていました。
この献上品リストの詳細な記録は、低位官人としては異例のことでした。
朝廷が真備の持ち帰った知識をいかに重視していたかがわかります。
そして真備は、従八位下から一気に正六位下へと10階級も昇進し、大学助に任命されました。
この破格の昇進は、18年間の学習成果に対する朝廷の評価の表れでした。
3. 皇太子の師として:東宮学士への就任
737年、天然痘の大流行により藤原四兄弟が相次いで死去すると、政治的空白が生まれました。
この機に橘諸兄が政権を握り、真備と玄昉を重用します。
741年7月3日、真備にとって決定的に重要な任命が下されました。
皇太子・阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)の東宮学士への就任です。
真備は彼女に『漢書』と『礼記』を教授し、6年間にわたる師弟関係を築きました。
この関係こそが、後の真備の政治的運命を決定づけることになります。
阿倍内親王が天皇となった時、真備への信頼は彼を政治の中枢へと押し上げる原動力となったのです。
4. 権力闘争の渦中へ:藤原広嗣の乱
しかし、真備の急速な台頭は藤原氏の反発を招きました。
740年、九州の大宰少弐・藤原広嗣が反乱を起こします。
広嗣は上表文で「吉備真備と玄昉を排除すべし」と明確に要求しました。
これは真備が単なる学者ではなく、藤原氏の影響力を脅かす政治的実力者として認識されていたことを示しています。
反乱は鎮圧されましたが、この事件により真備と藤原氏との対立構造が明確になりました。
そして747年以降、藤原仲麻呂(後の恵美押勝)の台頭とともに、真備の政治的地位は徐々に低下していきます。
5. 左遷と再渡航:57歳での危険な航海
750年、真備は筑前守、次いで肥前守へと左遷されました。
中央の参議級地位から地方官への転出は、仲麻呂による明らかな政敵排除でした。
さらに751年、真備は遣唐副使に任命されます。
57歳という高齢での危険な航海は、「名誉ある左遷」とも解釈できます。
当時の遣唐使の遭難率は約40%に達していました。
しかし、唐の言語・儀礼・人脈に精通した真備は、外交使節として不可欠な存在でもありました。
752年に出航した使節団は暴風雨に遭遇し、753年に屋久島に漂着しました。
大使の藤原清河と阿倍仲麻呂は帰国できず、多くの犠牲者が出ましたが、真備は754年に何とか帰国を果たします。
この航海で真備は、唐からの高僧・鑑真の来日にも関与しました。
6. 九州での軍事活動:兵法家としての真備
帰国後、真備は大宰大弐として九州に約10年間駐在しました。
これは形式上は重要職ですが、実質的には中央からの隔離状態でした。
しかし真備はこの期間を有効に活用します。
756年、筑前国に怡土城を築城しました。
これは新羅との緊張関係が高まる中での防衛強化策であり、真備が唐で学んだ築城技術の実践でした。
さらに760年、真備は中央から派遣された武官たちに、諸葛亮の「八陣」、孫子の「九地」、軍営の構築法などを直接教授しました。
これは『続日本紀』に明記されており、真備の軍事知識が朝廷に公式に認められ、依存されていたことを示しています。
7. 老将の奮闘:藤原仲麻呂の乱
764年、70歳の真備は造東大寺長官として中央への帰還を命じられました。
そしてこの年の9月、孝謙上皇と藤原仲麻呂の権力闘争が武力衝突に発展します。
孝謙上皇は真備を従三位・中衛大将に任命し、反乱鎮圧の最高軍事指揮を委ねました。
70歳の真備に全軍の指揮を任せるという異例の決断でしたが、それだけ上皇の信頼は厚かったのです。
真備の戦略は合理的で見事なものでした。仲麻呂が近江を経由して東国へ逃亡すると予測し、瀬戸橋を焼却させて退路を遮断します。
さらに鈴鹿関、不破関、愛発関の三関を閉鎖し、仲麻呂の全ての逃走経路を封鎖しました。
9月18日、追い詰められた仲麻呂は近江国高島郡で捕らえられ、斬首されました。
乱は10日ほどで鎮圧され、『続日本紀』は真備について「優れた軍略により、兵を分けて退路を断ち、乱を平定する功績を挙げた」と記しています。
8. 権力の頂点:右大臣への昇進
乱の鎮圧後、真備は参議となり、766年には中納言、大納言を経て、ついに従二位・右大臣に就任しました。
地方豪族出身者が大臣の位に上り詰めたのは、後の菅原道真と並んで極めて異例のことでした。
右大臣として真備は、唐から持ち帰った『唐礼』を用いて大学寮の釈奠(孔子を祀る儀式)を整備しました。
また769年には、大和長岡とともに『削定律令』24条の編纂に参画し、養老律令の矛盾点を解消する作業を行いました。
9. 晩年と遺産
770年、庇護者であった称徳天皇が崩御すると、真備の政治的立場は変化します。
光仁天皇が即位すると、真備は速やかに辞職を願い出ました。
771年に致仕が許され、長年の官人生活に終止符を打ちます。
775年10月2日、真備は81歳で薨去しました。
最終位階は前右大臣正二位勲二等という、臣下として最高クラスの地位でした。
真備の生涯が後世に残した影響は計り知れません。
天文学では大衍暦が764年に正式採用され、儒教教育では釈奠の整備が後の幕府儀礼にまで引き継がれました。
軍事面では怡土城の築城技術や兵法の教授が、日本の軍事思想に影響を与えました。
10. まとめ
吉備真備の生涯は、下級貴族が純粋な能力によって最高位に到達した、奈良時代における立身出世の物語です。
しかし同時に、その権力基盤が天皇個人の信任に依存していたことも事実でした。
真備は「文」の専門家として皇太子教育や礼制整備を行い、「武」の実践者として築城や軍事指揮を執った、稀有な文武両道の人物でした。
50代後半での危険な再渡航、70歳での反乱鎮圧という献身性と強靱さは、彼の人物像を象徴しています。
後世には陰陽道の開祖や囲碁の名人といった伝説も生まれましたが、これらは史実ではありません。
しかし、こうした伝説が生まれるほど、真備は同時代と後世の人々に強烈な印象を与えた存在だったのです。
吉備真備の人生は、古代日本における知識の価値、国際交流の重要性、そして個人の能力が社会的地位を決定しうる可能性を示す、極めて重要な歴史的事例といえるでしょう。
参考文献
一次資料
- 藤原菅野真道ほか編『続日本紀』(797年編纂)
- 真人元開『唐大和上東征伝』(779年頃)
- 李訓墓誌(734年、伝吉備真備書)
二次資料
- Ross Bender「Emperor Shōmu: Early Years, 724-737」(2024年)
- 宮田俊彦『吉備真備』(吉川弘文館、1988年新装版)
- 森公章「藤原広嗣の乱と遣唐留学生の行方」(同成社、2021年)
- 平あゆみ「吉備真備右大臣就任の歴史的諸前提」『政治経済史学』第295号(1990年)
- William Wayne Farris “Heavenly Warriors: The Evolution of Japan’s Military, 500-1300″(Harvard University Press、1995年)
- 国史大辞典編集委員会『国史大辞典』「吉備真備」項目(吉川弘文館、1979-1997年)
- 山川出版社『日本史小辞典』「釈奠」項目(2016年)

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