はじめに
戦国時代の武将といえば、派手な一騎討ちや首を取った武勇伝が人気です。
でも、主君から「褒め状(感状)」を一度ももらえなかった武将がいたとしたら、どう思いますか?
それは冷遇ではなく、むしろ「当然すぎてわざわざ褒める必要がない」という最高の信頼の証だったとも語り伝えられています。
その武将こそ、武田信玄を支えた重臣・内藤昌秀です。
箕輪城(群馬県高崎市)の城代として西上野を治め、長篠の戦いで壮絶な最期を遂げた彼の生涯には、戦国時代の「組織を支える人材」の姿が凝縮されています。
目次
- 内藤昌秀ってどんな人?
- 波乱の出発点――工藤家の没落と復帰
- 「内藤」に改姓したのはなぜ?
- 箕輪城代として西上野を治める
- 武田信玄が褒め状を出さなかった謎
- 長篠の戦いと壮絶な最期
- 昌秀が残した遺産
- まとめ
- 参考文献
1. 内藤昌秀ってどんな人?
内藤昌秀(ないとう まさひで)は、大永2年(1522年)頃に甲斐国(現・山梨県)で生まれた戦国武将です。
武田信玄の重臣として活躍し、山県昌景・馬場信春・春日虎綱とともに「武田四天王」と称されました。
名前にも少し説明が必要です。
長らく「昌豊(まさとよ)」という名が使われてきましたが、1977年に研究者の服部治則が一次史料(実際の古文書)を分析し、正しい実名は「昌秀(まさひで)」であると確定しました。
本記事では一次史料に従い「昌秀」と表記します。
2. 波乱の出発点――工藤家の没落と復帰
昌秀の父は工藤虎豊(くどう とらとよ)という武田家の重臣でした。
ところが、当時の武田家当主・武田信虎(信玄の父)と対立し、失脚してしまいます。
これにより工藤家は甲斐での地位を失い、昌秀も厳しい立場に置かれました。
転機は天文10年(1541年)に訪れます。
武田信玄(当時は晴信)が父・信虎を駿河へ追放して当主となると、過去に信虎に冷遇された家臣たちを次々と呼び戻しました。
昌秀もその一人です。
信玄に召し返され、50騎を率いる侍大将として武田家に復帰しました。
信玄が昌秀を高く評価していたことは、その後の抜擢の速さからも明らかです。
永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いでは、別働隊の将として活躍。
信玄の実弟で副将を務めていた武田信繁がこの戦いで戦死すると、昌秀は事実上の「副将格」として組織を支えるようになっていきます。
3. 「内藤」に改姓したのはなぜ?
永禄9年(1566年)、武田信玄は上野国(現・群馬県)西部の要衝・箕輪城を攻略しました。
新たに手に入れた領地を安定して治めるには、在地の有力者(国衆)たちを納得させる権威が必要です。
そこで信玄が打った手が、「内藤」の姓を昌秀に与えることでした。
内藤氏は武田家の中でも由緒ある譜代の家系で、先代が信虎によって粛清されて断絶していました。
昌秀に内藤家の名跡を継がせることで、「名門の権威」を与え、西上野の国衆に対して統治の正統性を示す狙いがあったと考えられます。
永禄12年(1569年)8月26日付の文書に、「内藤修理亮(ないとう しゅりのすけ)」として初めて署名が確認されます。
これが、昌秀が正式に内藤姓を名乗り始めた時期と現在では理解されています。
4. 箕輪城代として西上野を治める
元亀元年(1570年)4月、昌秀は正式に箕輪城代(城の管理・統治を任された代官)に就任しました。
担当したのは西上野の諸郡で、現在の群馬県西部にあたる広大なエリアです。
箕輪城は東西約500メートル、南北約1,100メートル、面積約47ヘクタールにもおよぶ大規模な山城で、現在は国の史跡・日本100名城(16番)にも選ばれています。
昌秀はこの城を拠点に、北は上杉氏、東は北条氏という強敵に囲まれた最前線を守り続けました。
昌秀の仕事は軍事だけではありません。
在地の国衆と武田本国(甲斐)の間に立って情報を集め、指示を伝える「取次(とりつぎ)」の役割も担いました。
元亀2年(1571年)12月には、越後の上杉氏側から同盟の申し出があった際、信玄の側近と協議した上でこれを断っています。
前線の城代が外交判断に関わるほど、昌秀への信頼は厚いものでした。
5. 武田信玄が褒め状を出さなかった謎
戦国時代、主君が家臣の武功を称えて発行する「感状(かんじょう)」は、名誉の象徴であり、領地をもらうための重要な証拠でもありました。
ところが、昌秀は生涯を通じて信玄から一通も受け取れなかったと伝えられています。
軍記物の『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』によれば、信玄はこう述べたとされます。
「修理亮(昌秀)ほどの弓取りならば、普通の者を超える働きがあって当然だ」と。
また昌秀自身も「戦は大将の采配で勝つものであり、個人の手柄にこだわることは小さいことだ」と語ったと伝わります。
ただし、この逸話の典拠は『甲陽軍鑑』のみです。
この書物は内容の信頼性について長く議論があり、現在の歴史研究では他の一次史料と照らし合わせながら慎重に使うべきものとされています。
感状不授与の話も「伝承として存在するが、文書での裏付けは未確認」というのが、現在の学術的な立場です。
6. 長篠の戦いと壮絶な最期
天正3年(1575年)5月21日、三河国(現・愛知県)の設楽原(しだらがはら)で、武田勝頼軍と織田信長・徳川家康の連合軍が激突しました。
これが「長篠の戦い」です。
開戦前の軍議で、昌秀は馬場信春・山県昌景らの老臣たちと連名で、武田勝頼に対して「今は戦うべきではない、引くべきだ」と進言しました。
連合軍の馬防柵(騎馬突撃を防ぐ柵)や鉄砲の配備を見て、勝ち目がないと判断したのです。
しかし勝頼は側近たちの強硬意見を採り、決戦を命じました。
戦闘では、昌秀率いる内藤隊(約1,000の兵)が果敢に敵陣へ突入し、一時は滝川一益隊を馬防柵の内側まで追い込む善戦を見せます。
それでも、連合軍の鉄砲による集中射撃の前に武田軍は壊滅的な打撃を受けました。
敗色が濃くなると、昌秀は馬場信春とともに殿軍(しんがり=退却の最後尾を守る部隊)を担い、勝頼を戦場から脱出させることに成功しました。
昌秀自身は多数の矢を受けて落馬し、戦死しました。
享年54歳でした。
7. 昌秀が残した遺産
昌秀の死後、箕輪城代は養子の内藤昌月(まさつき)が引き継ぎました。
その後、天正10年(1582年)の武田氏滅亡という激動を経ても、西上野の社会秩序は大きく崩れませんでした。
これは昌秀が「個人の力」だけに頼らず、伝馬制(物資・情報の輸送ネットワーク)の整備や、在地国衆との協力体制など、「制度」として機能する統治の仕組みを構築していたからと考えられています。
武田氏滅亡後、この地を治めた徳川家康の重臣・井伊直政も、昌秀が整えた武田流の統治システムを継承したとされます。
箕輪城はその後、井伊直政が12万石の城主となり、慶長3年(1598年)に高崎城へ移ると廃城となりました。
現在も箕輪城跡は国史跡として保存されており、当時の石垣や堀が訪れる人を出迎えています。
8. まとめ
内藤昌秀は、華やかな一騎討ちで名を上げるよりも、組織を下から支え、制度を整え、前線と本拠地をつなぐことに徹した武将でした。
褒め状をもらえないまま戦い続け、最後は主君を逃がすために命を落とした姿は、派手ではありませんが、深い印象を残します。
彼の実名が長らく「昌豊」と誤って伝えられていたことは、歴史研究の難しさを示すエピソードでもあります。
古文書を直接調べることで初めて正しい名前が確定したのは、1977年のことでした。
「本当に優秀な人は、組織の中でどのような役割を果たすべきか」――昌秀の生き方は、450年を超えた今も、そんな問いを私たちに投げかけています。
参考文献
- 服部治則「内藤修理亮とその系譜」『武田氏家臣団の系譜』岩田書院、2007年(ISBN 978-4-87294-482-2)
- 丸島和洋「戦国大名武田氏の西上野支配と箕輪城代――内藤昌月宛『在城定書』の検討を中心に」『地方史研究』第64巻369号、地方史研究協議会、2014年(CiNii Articles ID: 40020143267)
- 柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋 編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年(CiNii図書 NCID: BB18715918)
- 平山優『長篠合戦と武田勝頼』吉川弘文館〈敗者の日本史9〉、2014年
- 高坂昌信(原著)、磯貝正義・服部治則(校注)『甲陽軍鑑』(校注本1965年、原著は1616年頃成立)国立国会図書館デジタルコレクション(温故堂版)
- 太田牛一『信長公記』(16世紀末成立)国立国会図書館デジタルコレクション
- 武田信玄書状(永禄13年4月3日付「内藤修理亮」宛)『戦国遺文 武田氏編』第3巻、東京堂出版
- 富士山北麓の僧侶(著者不詳)『勝山記』(戦国期成立)山梨県立図書館所蔵
- 松平定能ほか編『甲斐国志』(1814年成立)萩原頼平編『甲斐志料集成 六 國志部 三』甲斐志料刊行会、1935年

コメント