はじめに
「保科」という名字を聞いて、会津藩主・保科正之を思い浮かべる方は多いかもしれません。
しかし、その保科家の礎を築いた人物として、保科正俊(ほしなまさとし)がいます。
信濃国高遠を舞台に、高遠頼継・武田信玄・武田勝頼と三代の主君に仕え、70代を超えてなお合戦の最前線に立った武将です。
本記事では、一次資料に基づきながら、正俊の生涯と戦歴をわかりやすく解説します。

目次
- 保科正俊の出自と家系
- 高遠頼継の筆頭家老として
- 武田信玄への臣従
- 武田勝頼の直臣として
- 「槍弾正」・「三弾正」について
- 武田家の滅亡と保科家の動向
- 鉾持除の戦い(天正13年・1585年)
- 保科家のその後と保科正之
- まとめ
- 参考文献
保科正俊の出自と家系
保科正俊は、永正8年(1511年)頃に生まれたとされます。
ただし、『保科御事歴』や『高遠のあゆみ』には1507年説も記録されており、同時代の一次資料による確定はできていません。
出自は清和源氏・井上氏流の保科氏で、本貫地は信濃国高井郡保科(現在の長野県長野市若穂保科)です。父は保科正則。通称は甚四郎、官途名は弾正忠、後に筑前守を称しました。
高遠頼継の筆頭家老として
戦国時代の信濃では、諏訪・高遠・伊那を中心に複数の国人勢力が割拠していました。
正俊はそのなかで、高遠頼継の筆頭家老として仕えていました。
転機となったのは、天文14年(1545年)4月17日のことです。
武田信玄(当時は晴信)が高遠城を攻撃します。
正俊は高遠頼継の陣代として守備を指揮しましたが、高遠城は陥落しました。
この出来事は一次資料『高白斎記』(駒井政武著)に記録されており、史実として確認できます。
主君である頼継が敗れたことで、正俊の立場は大きく変わることになります。
武田信玄への臣従
高遠城陥落から数年後、天文21年(1552年)頃、正俊は武田方に臣従します。
武田家の「信濃先方衆」、つまり信濃国出身の武将で構成された先鋒部隊に編入されました。
その際の規模について、『甲陽軍鑑』品第十七には「組頭にても組子にてもなき人数持」として騎馬120騎持と記録されています。
これは相当な武力を保持していたことを示しており、武田家中でも一定の地位を得ていたことがわかります。
その後、正俊は川中島の戦い(1553〜1564年)にも従軍します。
川中島は武田信玄と上杉謙信が繰り広げた一連の合戦であり、信濃の支配をめぐる激戦として知られています。
正俊もその戦場に立ち続けた武将のひとりでした。
さらに元亀3年(1572年)の西上作戦では、徳川家康の牽制部隊に配属されたことが『甲陽軍鑑』品第卅七に記されています。
武田勝頼の直臣として
永禄5年(1562年)、武田勝頼が高遠城主に就任します。
正俊はこれにともない、勝頼の直臣となりました。
天正3年(1575年)8月10日、長篠合戦後に勝頼から28ヶ条の「覚」(印判状)を受領しています。
この文書は『戦国遺文 武田氏編』に収録されており、大島城への配置が命じられた内容となっています。
長篠の大敗後も引き続き重用されていたことがわかる史料です。
さらに天正6〜7年(1578〜1579年)には、箕輪城17ヶ条の「在城定書」を受領しています。
子・内藤昌月の後見役を務めたことも伝わっています。
「槍弾正」・「三弾正」について
正俊を語る際に「槍弾正」あるいは「三弾正」という呼称が紹介されることがあります。
これは武田家中で弾正忠を称した三名の武将を指す概念として語られます。
ただし、この呼称については注意が必要です。
現在確認できる最古の印刷資料は、明治44年(1911年)刊行の講談速記本です。
そこでは「鬼弾正・智恵弾正・槍弾正」という、現在の定型とは異なる呼称が使われており、『甲陽軍鑑』をはじめとする一次資料には「三弾正」という表現は確認されていません。
三名がいずれも弾正忠を称したこと自体は一次資料で確認できますが、「三弾正」という概念は口承伝承を経て後世に形成・変遷した可能性が高いと見られています。
武田家の滅亡と保科家の動向
天正10年(1582年)3月、織田信長による甲州征伐によって武田家は滅亡します。
高遠城では仁科盛信が織田軍に対して籠城戦を展開し、最期は自刃しました(『信長公記』に記録)。
このとき正俊は水内郡の大日方直幸のもとへ逃亡したと『赤羽記』に記されています。
子の正直は飯田城から脱出しています。
同年6月、本能寺の変によって信長が横死すると、信濃では徳川・北条・上杉が旧武田領の奪取を競う「天正壬午の乱」が始まります。
正俊の子・正直と内藤昌月は当初北条氏に与して高遠城を奪還しようとしましたが、同年8月の黒駒合戦で北条方が敗北すると徳川家康のもとに転属。
正直は伊那郡25,000石を安堵されました。
鉾持除の戦い(天正13年・1585年)
正俊の生涯において、最も鮮烈な戦いとして伝わるのが鉾持除(ほこじさく)の戦いです。
天正13年(1585年)12月、子の正直が第一次上田合戦(真田昌幸との戦い)に出陣していた留守の隙を突き、小笠原貞慶が3,000余の兵で高遠城を攻撃します。
このとき迎撃に立ったのが、74歳(1511年生まれ説の場合)の正俊でした。
率いる兵は騎馬40騎・雑兵約360人という、敵の圧倒的大軍に対してはわずかな兵力です。
しかし正俊は地形を活かした戦術で応じます。
険しい鉾持桟道に敵軍を誘い込み、巨石・丸太・鉄砲を駆使して撃退することに成功しました。
この功績を称え、徳川家康は同年12月24日に「包永の太刀」を正直に贈っています。
70代を超えた武将が少数の手勢で大軍を退けたこの戦いは、正俊の武将としての資質を端的に示す出来事として後世に伝わっています。
保科家のその後と保科正之
正俊の没年については二説あります。『信濃史料』は文禄元年(1592年)説を記録しており、他の資料では文禄2年(1593年)8月6日とされています。
1511年生まれ説によれば享年83となります。
正俊の死後、保科家は子の正直(1542〜1601年)が継ぎ、孫の正光(1561〜1631年)が高遠30,000石の藩主となります。
さらに、正光の養子となったのが保科正之(1611〜1672年)です。
正之は徳川将軍・秀忠の庶子であり、後に会津藩230,000石の藩主となって会津松平家の祖となりました。
一信濃の国人として出発した保科正俊の家系が、江戸幕府を支える大藩の礎となったのです。
まとめ
保科正俊は、高遠頼継・武田信玄・武田勝頼の三代にわたって仕えた、信濃を代表する武将のひとりです。
高遠城陥落という挫折を経ながらも武田家中に転じ、川中島の戦いや西上作戦に従軍しました。
武田家滅亡後も70代で戦場に立ち、鉾持除の戦いで少数精鋭による見事な撃退戦を演じています。
その子孫が会津藩主・保科正之へとつながる点も、正俊の存在を歴史の大きな流れのなかに位置づける要素といえます。
参考文献
- 高坂昌信(伝)著/酒井憲二校訂『甲陽軍鑑大成』汲古書院(品第十七・品第卅七)
- 駒井高白斎(政武)著『高白斎記』(『山梨県史 資料編6 中世3上』所収)
- 『信濃史料』長野県立歴史館(ADEAC公開)
- 柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋 編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版, 2015年
- 柴辻俊六・黒田基樹 編『戦国遺文 武田氏編』東京堂出版
- 平山優『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望』戎光祥出版, 2011年
- 『寛政重修諸家譜』新訂第4巻 353頁

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