はじめに
「鬼義重」—その異名が示すように、戦国時代の関東で恐れられた一人の武将がいました。
北条氏と伊達氏という二大勢力に挟まれながらも、最新鋭の鉄砲隊と巧みな外交戦略で常陸国54万石を統一した佐竹義重。
彼はいかにして戦国の荒波を乗り越え、佐竹家を存続させたのでしょうか。
本記事では、武勇だけでなく、経済力と政治センスを兼ね備えた義重の実像に迫ります。

目次
- 佐竹義重とは—常陸の名門に生まれた若き当主
- 関東最強の火力—8,000挺を超える鉄砲隊
- 金山開発がもたらした経済力
- 婚姻・養子政策で築いた勢力圏
- 伊達政宗との激突—人取橋の戦い
- 豊臣秀吉への服従と常陸統一
- 関ヶ原の戦いと苦渋の決断
- 秋田転封から晩年まで
- 佐竹義重の歴史的評価
1. 佐竹義重とは—常陸の名門に生まれた若き当主
佐竹義重は1547年2月16日、常陸太田城で第17代当主・佐竹義昭と岩城重隆の娘との間に生まれました。
佐竹氏は清和源氏の流れを汲む名門で、源頼朝の挙兵以来400年にわたり常陸北部を支配してきた一族です。
1562年、父・義昭の死去により、わずか15歳(または16歳)で第18代当主に就任します。
当時の常陸国は「戦国の縮図」と呼ばれるほど複雑で、大掾氏、小田氏、江戸氏など中小勢力が割拠していました。
若き義重は、この混沌とした状況の中で領土統一という困難な課題に挑むことになったのです。
2. 関東最強の火力—8,000挺を超える鉄砲隊
義重の軍事力を特徴づけるのが、「関東一」と称された鉄砲隊でした。
1584年の沼尻の合戦では、佐竹・宇都宮連合軍が8,000挺以上の鉄砲を動員したと記録されています。
これは織田信長が長篠の戦いで使用したとされる3,000挺を大きく上回る火力です。
なぜ佐竹氏はこれほど大量の鉄砲を調達できたのでしょうか。
その背景には、次に述べる金山開発による豊富な資金力がありました。
義重は家督継承後、最新の冶金技術を導入して鉄砲の大量購入を実現し、数的に劣勢でも北条氏と互角以上に戦える戦力を整えたのです。
3. 金山開発がもたらした経済力
義重の軍事拡張と外交工作を支えた最大の要因は、領内の豊富な金山資源でした。
常陸国内には大久保、栃原、木葉下など20以上の金山が確認されており、特に栃原金山は越前金山、甲斐金山に次ぐ産出量を誇ったとされます。
1580年代後半、豊臣秀吉からの軍資金調達要請に応じて、義重は領内の金山開発をさらに推進しました。
八溝金山や木葉下金山などが急速に開発され、その収益は高価な鉄砲の購入費用や、中央政権との外交工作のための資金源となりました。
1598年時点で、佐竹氏の豊臣政権への金貢納量は上杉氏、伊達氏に次ぐ全国第3位に達していたといいます。
4. 婚姻・養子政策で築いた勢力圏
義重は武力だけでなく、巧みな婚姻・養子政策によって周辺勢力を統合しました。
1583年5月10日には、那須氏の家臣・大関清増と起請文を交わし、那須勢を同盟化することに成功しています。
さらに戦略的だったのは、子女の配置です。
次男・義広は1587年に蘆名氏の養嗣子として送り込まれ、会津の名門を事実上掌握しました。
三男・貞隆は1590年に岩城氏を継承して磐城平12万石を支配し、四男・宣隆は多賀谷氏の養子となって下妻6万石を支配しました。
この結果、佐竹宗家54万石、蘆名義広4万5千石、岩城貞隆12万石、多賀谷宣隆6万石を合わせて80万石を超える勢力圏を形成し、「豊臣配下の六大大名家」と称されるまでになったのです。
5. 伊達政宗との激突—人取橋の戦い
1585年11月17日、義重の生涯最大の野戦が行われました。
人取橋の戦いです。義重は反伊達連合軍の総大将として、蘆名氏、岩城氏、白河結城氏、石川氏、二階堂氏、相馬氏を結集させました。
連合軍の兵力は約1万7,000~3万人に対し、伊達軍はわずか約7,000人。
圧倒的な兵力差で連合軍は優勢に戦いを進め、伊達政宗自身も鎧に矢1筋、銃弾5発を受けるほどの激戦となりました。政宗は後にこの戦いを「生涯の大戦」と述懐したといわれます。
しかし、佐竹方に本国への敵侵攻の急報が入り、連合軍は撤退を余儀なくされました。
この撤退により、伊達政宗は九死に一生を得ることになります。
勝ちきれなかったこの戦いは、その後の蘆名氏滅亡と伊達氏の覇権確立を許す遠因となったのです。
6. 豊臣秀吉への服従と常陸統一
義重は織田信長存命中から中央との関係構築を模索しており、豊臣秀吉の台頭にも迅速に対応しました。
天正14年(1586年)頃、秀吉は会津と伊達の紛争に対し「天下静謐」の論理で停戦を命じています。
義重はこれらの動きから、時代が「自力救済」から「惣無事」へと変化していることを敏感に察知しました。
1589年頃、義重は家督を長男・義宣に譲り隠居しましたが、実権は保持し続けました。
1590年の小田原征伐では、義宣を参陣させる一方、自らは領国守備に徹します。
秀吉は佐竹氏に常陸国54万5千石の領地安堵を約束し、佐竹氏は全国第9位の大大名として認知されたのです。
秀吉の権威を背景に、義重・義宣父子は常陸国内の中小領主を排除しました。
1590年12月には江戸重通の水戸城を攻略し、大掾清幹を滅亡させました。
さらに1591年2月9日、「南方三十三館の仕置」として、鹿島・行方両郡の国人領主を太田城に招いて謀殺し、常陸国統一を完成させたのです。
7. 関ヶ原の戦いと苦渋の決断
1600年の関ヶ原の戦いは、佐竹家中に深刻な分裂をもたらしました。
義重は東軍(徳川家康)支持を主張しましたが、義宣は石田三成に恩義があり西軍に傾きました。
結果として、佐竹軍は明確な行動を起こせないまま、世間からは「日和見」と見なされることになります。
義重は戦後直ちに家康に戦勝祝賀の使者を派遣し、上洛して不戦を謝罪しました。
義重の徳川父子への嘆願により、佐竹氏は改易を免れましたが、減封は避けられませんでした。
8. 秋田転封から晩年まで
1602年5月8日、義宣は突然家康より出羽国秋田・仙北への国替えを命じられました。
54万石から実質20万石への大幅な減封です。
上杉景勝との密約発覚や、兵力が無傷で江戸に近接していたことが転封の理由とされています。
義重は六郷城(現秋田県美郷町)に別居し、領内南部の監視を担当しました。
1603年には平服のまま300人の手勢で1,000人規模の一揆を鎮圧したといわれます。
1612年4月19日、義重は鷹狩り中に落馬し、出羽国花立村にて死去しました。
享年66歳。戒名は「知足院殿通庵闐信大居士」です。
9. 佐竹義重の歴史的評価
「鬼義重」という異名について、千葉篤志の研究によれば、同時代の史料には確認されず、後世の創作である可能性が高いとされています。
しかし、その武勇と威名が広く知られていたことは複数の史料で裏付けられており、上杉謙信からの高評価がそれを証明しています。
義重は単なる武勇の人ではなく、金山開発による経済力を背景に鉄砲隊などの新兵器を導入し、軍事組織の近代化を推進した合理的経営者でした。
北条氏・伊達氏という二大勢力の狭間で、外交・婚姻政策と金山開発を駆使し、佐竹氏を常陸一国支配から豊臣政権下の六大大名家へと押し上げたのです。
関ヶ原の政治的失策により秋田へ減封されましたが、義重の働きによって改易を免れ、佐竹氏は近世大名として明治維新まで存続しました。
義重が秋田の地に遺した基盤は、その後の佐竹氏が260年の繁栄を築く礎となったのです。
参考文献
- 佐竹義重起請文、大田原市文化振興課所蔵、1583年
- 『守谷城と下総相馬氏』守谷市立図書館編、2022年
- 『水戸市史 第十三章「佐竹氏の秋田移封」』水戸市史編纂委員会、1997年
- 木葉下(金山跡)デジタルアーカイブ、水戸市立図書館
- 佐竹氏文書目録(北家・西家文書)、秋田県編、秋田県公文書館所蔵
- 「彼奴は人ではなし。鬼じゃ!」『歴史街道』PHP研究所、2019年
- 羽柴秀吉書状写、和歌山県立博物館所蔵
- 天正14年4月19日佐竹義重宛豊臣秀吉判物
- いわき市史資料(『磐城九代記』等)
- 『佐竹氏物語』渡部景一、無明舎出版、1980年
- 『日本史のまめまめしい知識』第2巻、千葉篤志、岩田書院、2017年

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